Essay『北陸新幹線・米原ルート(北陸中京新幹線)が無いと越前、加賀は...』ー第7回ー
敗戦後の1946年に米軍によって拡張された羽田空港は旧A滑走路(2000m×45m)と旧B滑走路(1650m×45m)の内拡張されていた大型機(4発プロペラ機)の離着陸に対応できるようになっていました。
第0項 朝鮮動乱と戦後復興期
1950年6月25日 に朝鮮動乱(1953年7月27日停戦成立)が始まり、朝鮮特需の"神風"が吹き、、戦後復興が本格化しました。
※世界史・日本史つまり歴史学は、年表を暗記するのではなく!夫々の事象の相互関連を学ぶ(考察)学問です!
つまり"日狂祖"の患部に毒されている文科省の教育指導要領・歴史教育はこの点で間違っています!
憲法改正と教育改革が"混迷の21世紀"を日本(国民)が生き延びるうえで絶対必要な条件!では無いでしょうか。
第1項 1952年4月28日の♥国際社会復帰!で日本の空が
小生が生まれた年、1951年9月8日に対日戦線連合国UN48ヶ国と日本政府によってサンフランシスコ平和条約が調印されて、翌年1952年4月28日に発効して、ようやく国際社会に復帰できたわけです。
第1目 1952年7月1日「東京国際空港」と改名した羽田空港
1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印されて、条約が発効した翌年1952の7月1日「東京国際空港」と改名した羽田空港では、(戦前の1953年10月1日設立!国有会社"日航")の民間???プロペラ機による運行が開始されたわけです。
戦後復興期→高度成長期に
朝鮮動乱が収まった(停戦)した1953年には、日本航空のDouglas DC-6(プロペラ機)によって、国際線定期航路(東京 ⇔ウェーク島⇔ホノルル ⇔サンフランシスコ)が開始され、正に日本は戦後復興から高度成長期輸出国として国際社会に復帰して、高度成長期に突入したわけです!
そして1954年には神武景気が始まり高度成長期を迎えて帝都東京と「日本経済の中心地"天下の台所"(だった)大阪」とのビジネス需要が一気に高まったわけです。
1955年5月17日、現在の国際線ターミナルの西側・現B滑走路の南端付近に初代の旅客ターミナルが開館しました。
同年8月には旧A滑走路が2000m→2550mに延伸されて、(長距離ノンストップ)国際便にも対応できるようになりました。
その後1958年6月に駐留軍(米軍)から全面返還されて、日本の空の窓口が本格始動したわけです。
第2目 1959年5月26日の東京オリンピック開催決定がトリガーに
1959年5月26日当時の西ドイツのミュンヘンで開催された第55次IOC総会で、1964年東京オリンピックが決定しました!
これを受けて東京オリンピックのための空港設備の整備拡張が行われ、1960年代初頭には旅客ターミナルの増築、旧A滑走路の延伸(2550m→3,000m)、旧C滑走路(3150m×60m)が完成して、東京モノレール(1964年9月17日開業)等の交通 infrastructure(基幹施設)整備も行われたわけです。
そして日本航空や外国航空会社により、Douglas DC-8やBoeing 707、Convair 880などの大型ジェット旅客機が次々と就航し、世界のナショナルウィングが揃い、
世界の大都市と空路で結ばれるようになり、さらにmunicipal airport(地方空港)の整備が進んだことで国内線・地方空路も整備されたわけです。
東京⇔大阪間の日帰りビジネスに貢献したBoeing 727の登場
そして"ジェットストリーム"でお馴染みのBoeing 727が、日本の"出張ビジネス"の常識を変革させました!
全日空が1964年に羽田⇔札幌線に導入し、遅れて1965年に日本国内航空(日本エアシステム→JALに吸収合併)も幹線に参入したボーイング727の登場です。
つまり、東海道新幹線は生まれて間もなく「苦しい立ち位置!」に置かれていた!わけです。
更に、1973年に日本航空がBoeing 747SRを挿入して、日本の空の大幹線は500席!の時代となった訳です、東京(羽田)⇔大阪(伊丹空港)、東京⇔福岡空港、東京⇔札幌(千歳空港)そして東京⇔鹿児島空港などの地方便にも就航するようになりました。(※21)
参※21)小生がbottom セールスマン!?として全国を飛び回っていた1991年当時、home baseの大阪工場には殆どおらず、大阪⇔東京、東京⇔鹿児島、東京⇔福岡、といった具合に全国をBoeing 747で"飛び回って"いました!
※航空incident(墜落事件)が多発していた時期を無事に乗り切れたのは、余程悪運が強かった?のでしょう...
※incidentに見舞われてお亡くなりになった方のご冥福を心よりお祈り"するとともに、遺族の方にお悔やみ申し上げます。 狸穴総研 代表 出自多留狸
第2項 高速道路(高速バス)の登場
前途したように、全幹法を遡る事20年近く前の1957年に、高速自動車国道法が公布されて高速道路と言う「パンドラの箱」の封が開かれました。
第1目 日本初の名神高速道路の開通
1963年7月16日に日本初の高速道路として栗東IC ⇔尼崎IC感が開通して、東京オリンピックの翌年1965年7月1日には小牧IC⇔一宮ICかんの延伸開通により、全線開通名神高速道路が全通しました!
東名高速道路の開通で東京⇔大阪間が高速道路で繋がる
1968年4月25日 : 岡崎IC ⇔小牧IC間が開通して名神と一本の途として繋がりました!(※22)
同時に東京IC⇔ 厚木IC間、富士IC ⇔ 静岡IC間も部分開通しました。
翌年1969年5月26日 : 最後に残った大井松田IC⇔ 御殿場IC間 の延伸開通で、全線が
開通して、首都(厚木)⇔豊中(大阪)間が一本の途で繋がりました。
これ以降、高速夜行バスによる、旅客が発展しだすわけです。
そして、高速コンテナ列車が登場して以来10年足らずで陸上のfreight transportation(貨物輸送)もトラック運輸の時代へと変化して行き、その後の有蓋貨車による貨物取扱廃止!国鉄解体!国営怪社化!へと繋がるわけです。
参※22)当時日本初の高速バスが大阪⇔名古屋間で運行開始されました。
小生も、親父のお供をして、国内初の高速バスの旅を体験しました。
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公開:2017年9月14日
更新:2024年2月21日
投稿者:デジタヌ
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