狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

連載《 鉄道発祥の地・英国で生まれた国際標準軌 (4 ft 8 in) !と各国標準軌の歴史...》ー第11回ー

第11回 1960年代 Soviet Union gauge への改定の理由は???

旧ソ連ではロシア革命後も長らく採用され続けた1843年制定の5 feet(1,524 mm)の初代Russian National Gauge(帝政ロシア標準ゲージ)を 1960年代に 1520mmのSoviet Union gauge(旧ソヴィエトゲージ)に改定しました。

第1項 mm表記の違いだけ!?

結論から言うと、ヤードポンド法とメートル法の単なる表記上の違いにしかすぎません!

前途したように軌間には"許容誤差"範囲というものが決められていて、ヤードポンド法に下ずいた元祖Russian gauge (5 feet)とメートル法に下ずいた現行のSoviet Union gauge1520mmとの「4mmの差は許容誤差範囲」にあり、

しかもrail もWheelsetも 前途したようにflat-topped railsとcylindrical wheel ではなくどちらもround formで、レールに至っては頭部断面形状が trapezoid (台形)になっていて、計測する位置で1・2㎜は簡単に変わります。

更に、昼間にはアルミで出来たdrawing scaleは熱膨張で伸びており、日本のshinkansenのように夜間作業でもない限りは、安定した測定は難しくなります!

又、極寒の北極圏では、日中でも氷点下を割り、表面温度X℃が指定されているのかも不明確です!これらの諸事情から運用上は同一のTrack gauge と言うことになります!

但し許容範囲を逸脱したTrack gauge は「JR北海道の不祥事」に見られるように、yawing(偏走)に繋がり、空車と、積載との差が大きい貨物車両では「レールへのフランジ乗り上げ」

による"競合脱線"が生じてしまいます。

例えばフィンランドでは

フィンランドでは元祖Russian gauge (5 feet=1524mm)を現在もNational Gauge(国家標準ゲージ)としています。

そして1,520!→1,529mmの許容誤差を設定しています。

つまり実質現行のRussian gauge 1520mmと互換性があるわけです!

お隣のエストニアも同様で旧Russian gauge (5 feet)を採用し続けています。

一部の高速路線では

例えばヘルシンキとサンクトペテルブルク間の国際高速列車アレグロ(Sm6)が走行する直線区間のtrack gaugeはmin1,520→max1,522mmと指定されています!(それでも2㎜ short distance! )

本家ロシアでは

本家ロシアでは1960年代後半にメートル法に下ずく新Russian gauge(ソビエトゲージ1520mm)に、National Gaugeを再定義して以来1970年から1990年代の初めににかけて許容誤差を厳しくしました。(つまり直線区間の上限は1,522㎜です)

第2項 1960年代のメートル法に基づいたSoviet gauge(1,520 mm)への改定の狙いは?

工業製品にフランス由来のメートル法を全面採用した旧ソ連政府が、最後まで踏襲され続けてきた鉄道規格・旧Russian gauge (5 feet=1524mm)を、1960年代になりRailway system of the Soviet Union(ソビエト国鉄)に関する法律を改正して、メートル法に下ずく現在用いられているSoviet gauge(1,520 mm)に改正したのは1960年代半ばと言われています。

(いつ党大会を通過して施行されたのかは不明(未公表)ですが...)

ロシア革命以後の旧ソ連では、第2次大戦後のB29のReverse engineering(※81)爆撃機ツポレフ Tu-4に代表されるように、フランス由来のメートル法の工業製品への全面採用を推し進めていましたが、

1960年代にRailway system of the Soviet Union(ソビエト国鉄)に関する法律を改正してまでメートル法に下ずくSoviet Union gauge(1520mm)に改定した狙いは...

後年工事が再開したバム鉄道は別としても、1964年当時すでにТранссибирская магистральは、1903年にバイカル湖フェリー経由&東清鉄道経由で開通して以来60年も経過しており、

元祖のサンクトペテルブルク⇔モスクワ間や中央アジア3国も含めた広大な鉄道網を(高速列車が無い当時とは言え)許容誤差を厳しくしてSoviet Union gauge(1520mm)を徹底させる意味合いは何処にあったのでしょうか?

参※81)航空機・自動車に限らずUSAの産業界では伝統的にポンド・ヤード法に由来する("インチキねじ"ではありませんが(´∀`*)ウフフ )「インチねじ」を用いています!

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Байкало-Амурская магистраль(バム鉄道・第2シベリア鉄道)では

1970年以前に開通していた区間は旧ロシア帝国ゲージ (5 feet=1524mm)で建設されており、フィンランド同様に(と言うより旧Russian gaugeの規定)1,520〜1,529mmの許容誤差で建設されていたので、Транссибирская магистральを含む国内すべての鉄道網が新規定で完全整備されるまでには相当時間がかかったわけです。

つまりこの意味でもТранссибирская магистральを始めとするmain lineのスピードアップは難しかったでしょう。

第3項 歴代指導者との関係は

第1目 旧ソ連建国の父レーニンは

旧ソ連建国の父レーニン (1923年7月6日最高指導者就任→ 1924年1月21日没)は、ロシア革命以前の"亡命生活時代"に当時の工業先進国、ドイツ、イギリスを転々として、同時に工業先進国の実情をつぶさに見分しました。

産業革命を成し遂げた英国がヤード・ポンドに拘り、技術大国に発展したドイツの技術力を知り、1910年から1912年にかけてスランスに在住した時期に、

1889年5月6日に開幕したパリ万博の際に"錬鉄"で建造されたエッフェル塔を目の当たりにして、10進法に根差したメートル法を含むフランスの合理性と独創性に強い感銘を受けたのでしょう。

第2目 田舎者の粗野な?スターリンも

レーニンから「田舎者でインテリジェンスにかけている粗野な人物」と評価されていたスターリン(1924年1月最高指導者就任→1953年3月5日没)は、中央アジア一帯の住人を強制移住させたり、一説では700万人!ともいわれる「多くの人」をいわれのない国家反逆材で"虐殺"して、"少ないロシアの働き盛りをより一層減少させて"、これが第2次大戦当初、ナチスドイツの快進撃を許した遠因にもつながったとされていますが...

彼は各国の独裁者同様に、政敵は徹底的に粛清しましたが、"その道の「specialistの意見には真摯に耳を傾けた人物」だったともいわれています。

彼も、большевики(ボリシェヴィキとして、西欧のテクノロジーに憧れた人物だったので、旧帝政時代を引きずった帝政ロシアのNational Gaugeを、メートル法に下ずいた Soviet Union gaugeに改修したかったのではないでしょうか?

殺人鬼スターリン!ですが、この人が他の独裁者と異なったもう一つの"美談"は共産主義者にしては珍しく"ブルジョア趣味・華美"に走らずに、生涯を通じて質素な衣服と食事で「質素な暮らし」を貫いた人物だったことでしょう!

第3目 跡目を継いだ3代目組頭?フルシチョフは

national guageをヤードポンド法に下ずいた5 feet(1,524 mm)のRussian gauge をメートル法の Soviet Union gauge 1,520 mm に改定した1960年代と言えば、スターリンの死後実権を握ったフルシチョフ(最高指導者1953年9月7日就任 →1964年10月14日失墜)時代であり、彼はウクライナ出身で、前途した有名な航空機メーカー・アントノフを育てた人でもあり、メートル法による工業化をソ連全土に浸透させたかったのでしょう。

1960年から1962年の間に教会(特にロシア正教会聖堂)の約3割を取り壊したと言われている。聖堂の数はその後ペレストロイカ時代に至るまで回復することは無かった。

フルシチョフは無学な労働者階級の出身という出自からか、特に科学技術や芸術に関する政策決定については周囲の人間の考えを鵜呑みにしやすく、その結果フルシチョフに取り入った人間の主張がそのまま国家の政策となることが多々あった...《Wikipediaより引用

が示す通り、スターリン以上に、specialistの意見に影響されやすく、リスクを覚悟でSoviet Union gauge (1,520 mm) の採用に踏み切らせたのでしょう...

但し、法律改正(党大会通過)時期が不明確で、フルシチョフ完全失脚(1964年10月)の時期とも重なり、それ以後1977年まで続くソ連停滞時期と言われているブレジネフ、コスイギン、ニコライ・ポドゴルヌイの3馬鹿体制?と重複する部分もあり真相はわかりませんが......

第4目 ソビエト国鉄育ての親 Boris Pavlovich Beschev"の功績?

フルシチョフを失墜させたブレジネフ率いるトロイカ体制が、何故そのまま踏襲したのか???

つまり、specialistの意見には率直に耳を傾けたスターリンの在任中にあたる1948年から、同じくspecialistを尊重したフルシチョフを経て、トロイカ体制が終わりブレジネフの独裁体制が敷かれた1977年までの29年間の長きに渡り、鉄道大臣を務めた"ソビエト国鉄育ての親 Boris Pavlovich Beschev(ボリス・ベシェフ)"の功績(影響力)が大きかったのでしょう!

 

公開:2011年11月16日
更新:2024年3月21日

投稿者:デジタヌ

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