狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Historia『大陸国家の"imperialism (ご都合主義!)" とは...』ー第4回ー

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★第4節 imperialism と Puritanism の2つの顔を併せ持つ米国!

Puritanが政権を握っているときのUSAは何処(国際社会)からも難癖をつけられないスマートな外交を見せます。

第1項 自由圏世界の警察を自負するUSAですが...

第1目 その後の"現代契約外交"の礎をこさえた リベラルなUSA

1803年に戦費捻出の為にナポレオンが売りに出した、District of Louisianaを買収してAmerican territoryとして以来...

1819年にはテキサスとフロリダをスペイン王国と tradeでreplacementして、米墨戦争停戦時にも1848年2月には旧Virreinato de Nueva España(南西部一体)を"敗戦国メキシコ"から買収して、更には1864年のヴャトカ飢饉がきっかけで、建設が始まったТранссибирская магистраль建設資金捻出の為に売りに出した?旧Russian territoryのAlaskaを買収してAmerican territoryとしています。

第2目 メキシコが仕掛けた戦争に応戦した米墨戦争でも

あくまでも"防衛戦"で"侵略戦争"ではなかった!姿勢を貫き、停戦しても"戦後賠償"を求めるのではなく!

墨西哥(メキシコ)から"紳士的"に「Virreinato de Nueva Españaを買い取ってあげた!」ことになり、"国際的"にも非難されずに済むわけです!

第3目 悪辣非道な一面も

しかし、ハワイ併合では日本の日韓併合よりも悪辣な手段!をとっています。

当時の大日本帝国はハワイ王国を主権国家として認め(承認した)ていた!

1795年にはカメハメハ1世が3つの王国に分かれていたハワイ諸島を統一して、ハワイ王国を建国して、1840年には立憲君主制を敷き独立国となっていたハワイですが...

植民地政策をとるアメリカ(の一部保守勢力)とフランスが、"主権国家"として認めずに、territory(領有権)を主張し合い対立しました。

1871年に"明治新政府"が日布修好通商条約を締結していち早く「主権のある立憲君主国」として認めたわけです。(※しかし当の明治新政府自体が「武力を背景にした"主権国家"」としては認められていませんでした!

第4目 テキサス共和国の先例に倣って?ハワイ共和国樹立

アメリカ人がクーデターを

1893年に、アメリカ人の入植者が蜂起して「臨時革命政府」を樹立しましたが、親交の有った大日本帝国(1890年11月29日憲法施行) が東郷平八郎率いる3隻の軍艦を派遣して、臨時政府を威嚇しました。

(この15年後の1905年(明治38年)5月28日に東郷平八郎が、有名な日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破り「大日本帝国艦隊ここにあり」を西欧列強に知らしめた?わけですが。)

USAに支援を求めた臨時政府でしたが、当時の24代USA大統領Stephen Grover Clevelandはフランスから寄贈された有名なニューヨークの自由の女神像の序幕を行った人で、「自由・平等・博愛を重んじる根っからのPuritan」で侵略戦争には消極的でした。

革命政府はテキサス共和国の先例に倣って1894年7月4日ハワイ共和国の独立を宣言しました。

翌年1895年1月16日にハワイ王国派が最後の抵抗を試みましたが、革命政府ハワイ共和国が"ハワイ人を大虐殺!"して武力で鎮圧し、最後のリリウオカラニ女王も幽閉されハワイ王国は完全に滅亡しました!

第2項 USAはジキルとハイドの2重人格!

リベラル派が政権を握っているときの、USAは見識のあるハイド博士で、侵略戦争は行わなかったわけです!

つまりその都度、主権国家からterritory(領有地)を"買収"して割譲を受けるか、相手国の了承のもとに併合して「あからさまな"侵略戦争"は行っていない!」わけでしたが...

鷹派の第25代USA大統領William McKinley が併合

USAでは1898年8月12日になり新しく就任した第25代USA大統領William McKinley (1897年3月4日 - 1901年9月14日)が対外政策をガラッと変えてハワイ共和国を併合して、American territoryとして準州に組み入れました。

そして太平洋戦争後の1959年8月21日にUSA50番目の州に昇格して正式にUSAの仲間入りを果たしましたが...

これは、日清・日露戦争で大陸進出!した大日本帝国同様の、侵略・領土強奪行為で褒められた行為ではありません

第3項 ハワイ近代史年表

1795年 ハワイ王国建国

1840年 憲法制定 国際社会が主権国家として承認

1867年 日布親善協定(条約)締結。

1871年 "明治新政府"との間で日布修好通商条約締結。

1885年 日布移民条約締結

1893年1月16日 アメリカ系市民がクーデターで政権奪取

※帝国海軍 巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)、帆走コルベット「金剛」をホノルル港へ派遣。

その後米国との軋轢を避け、同胞(日本人移民)を見捨てる!

1894年7月4日 革命政権がハワイ共和国独立宣言、

1898年8月12日ハワイ準州としてUSAに併合!

1959年8月21日 ハワイ州(50番目)となる。

★第5節 耶蘇社会に取って江戸時代末期の日本(江戸幕府)は

逆説的には、現在公海(国際航路)として認められている津軽海峡、は江戸時代の日本国(徳川幕府)が、当時の「欧米列強間の大人の事情」で主権を持つ主権国家?として"容認"されていた証でしょう。

第1項 チッポケな島国だったので?大国同士で奪い合いするほどでは...

13世紀のマルコポーロの東方見聞録の時代から知られていた日本ですが、

大陸中国の陰に隠れたチッポケな島国だったので、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸ほどの魅力も無く、態々武力闘争による争奪戦を行うほどでも無かったのでしょう。

1492年に奴隷貿易で富を築いたコロンブスが新大陸アメリカの存在(航路)を知り、その後数度にわたる偵察で、南北アメリカがの存在を知ったスぺインによって"蹂躙"された中南米諸国とは違い、ヨーロッパの本国からも遠かったわけです。

第1目 カソリック2国が勝手に決めた世界を2分する密約!トルデシリャス条約

1385年にスペインから独立した、ポルトガルが先鞭をつけた東回りの貿易航路は、1494年にスペインとの間で締結されたトルデシリャス条約で、ヨーロッパ以外地域の両国のテリトリーを!スペインは大西洋へ、ポルトガルは東洋・インド洋方面へと定めた為に本格的に進出して南蛮貿易を始めたわけです。

カソリック宣教師フランシスコザビエルと日本の関わり

そして、宣教師フランシスコザビエルがポルトガルのインド進出の拠点としていたゴアに赴き1548年11月に「東洋の宣教監督」となり1549年8月に薩摩半島の坊津に初上陸して、15日に薩摩国の守護大名・島津貴久に許しを得て鹿児島市に上陸したわけです。そして9月には鹿児島での正式な布教の許可を得たわけです。

その後1550年に貿易船が入港して貿易拠点となった肥前国平戸にの8月に入り、長崎での布教活動に入り、その後先を得て京にも上りましたが、当時衰退していた足利幕府からは得られるものが...

日本国内の仏教各派とも交流した

当時日本国内の国教・仏教各派とも、交流?があり宗教論を戦わせたそうです。

その後、豊後国府内(現大分県大分市)にもポルトガル船(貿易船)が来着した情報を知り備後に赴き、1551年9月から布教活動を行い11月15日に鹿児島の日本人4人を連れて翌年1552年2月15日に本拠地ゴアに戻り、新たに日本全土の布教の為に宣教師を日本に差し向けたわけです。

つまり、植民地政策の先兵でしたが、その前に聖職者でもあったわけです。

ザビエル自身は、2年ほどで日本を離れ、さらに中国への布教を目指すこととなったが、ザビエルに続き、多くのイエズス会員が日本を訪れた。彼らの戦略は適応主義とよばれ、ヨーロッパ本国における価値観や方針を守ることよりも、現地の文化を尊重して、教勢を拡大することを優先した。《ウィキペディアより引用》

1569年に二条城の建築現場で(1576年に安土城を築き日本統一を目指す以前の)織田信長、にバテレン・ポルトガル人ルイス・フロイスが謁見して畿内での布教を許可されたのはこの頃です。

但し、布教が目的の彼らイエズス会の宣教師とは違い、彼らの祖国ポルトガル政府は「黄金の国ジパング」の利権(貿易)が目的だったわけです。

これが、その後の鎖国「バテレン禁止令」「弾圧」に繋がるわけです。

1584年にはイスパニア(スペイン)がその後オランダ・イギリスの船も来航して1599年には、平戸城築城も始まり、

1609年にオランダ商館、1613年にウィリアム・アダムス(三浦按針)によってイギリス商館が設立され南蛮貿易の窓口となりました。

プロテスタントのオランダは残った

しかしその後の鎖国政策によって1623年にイギリス商館が閉鎖して、オランダ商館のみが残り。

(※オランダ商館が残れたのは、プロテスタントのオランダは「積極的な布教活動"宣教"」とは無縁で、貿易のみに専念して、貿易商(中日公使?)とfort(交易所)を通じて、海外情勢入手、西洋医学や「最新兵器」等の最新科学情報入手など、江戸幕府から見れば、情報源でもあり"安全パイ"だったわけです。

1634年にカソリック国ポルトガル貿易商人の管理(封じ込め)の為に、長崎に出島居留地(ポルトガルから見ればfort)を設けましたが...

1638年島原半島・天草諸島のキリシタン百姓による一揆「島原の乱」以降、キリシタン禁教・弾圧の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を断とうとしましたが、

当時、日本は絹糸を、ポルトガルは金銀を必要としたわけです。

1641年にポルトガルの後釜としてオランダ商館が平戸から長崎の出島へ移転して、平戸港での南蛮貿易は終わったわけです。

同時に日本におけるカソリックの布教活動も後退して、「隠れキリシタン」の時代になった訳です。

新教国家オランダはオランダ東インド会社を設立して東洋進出を

さらに16世紀初めに起こった宗教改革で非カソリック国となったネーデルランド(オランダ)はスペインからの独立を目指して、

1568年以来1648年の独立までの80年間!の独立戦争を継続しながらトルデシリャス条約に縛られることなく海洋進出を計たオランダは、

1602年3月に東洋進出を成し遂げて有名なオランダ東インド会社を設立して海洋国家となった訳ですが...

その後大西洋にも進出

東洋だけではなく大西洋にも漕ぎだし1614年にはニューヨーク州のオールバニ市近くナッソーfort(砦・交易所)を築き、更には1625年には現在のニューヨークにアムステルダムfort(砦・交易所)を築いて、本格的に移民の受け入れを始めて、植民地政策をとり始まています。

そして1648年の独立後は一層植民地政策を推進させて、ポルトガルが持っていたインド洋のterritory(領有地)を奪い東南アジアへのより一層の積極進出(植民地政策)も始ました。

しかし数次にわたる英蘭戦争にイギリス帝国が勝利して

1689年にイギリス東インド会社にインド洋・南太平洋(南シナ海)のterritoryを譲り渡し以後イギリス帝国が、東南アジア(インド洋・東シナ海)の覇者となった訳です。

1783年のUSA独立

更に、USAが1783年のパリ条約で大英帝国から独立して"主権国家"として国際社会から承認されてからは、急速に国力を付けて太平洋に乗り出して...

西欧列強が日本に不平等条約を迫ったのは...

日本に開国を迫り不平等条約(日米通商条約)の締結を迫ったのは...日本侵略が目的ではなく!イギリス帝国、ロシア帝国、仏蘭西、などの他国同様に、「貿易船や捕鯨船の食糧(水)の補給ポイント」として必要だった!からでしょう。

日本列島の地勢大国間の大人の事情が大国一国の植民地化から守った!

ある意味、「日本列島の地勢と、大国間の大人の事情(利害)」が"日本を国際共有物!"として一国のcolony(植民地)化から守ったともいえるでしょう。

但し、清国とは違い、武力を持った"主権国家"としては認められていなかったわけです。

幸運の神の気まぐれ?で、明治維新後の日露戦争に勝利するまで、各国と結ばれていた"不平等条約"改正が無しえなかったことでも、裏付けられるでしょう。

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公開:2021年9月25日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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