狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

歴史探訪『 アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川と鉄道』ー第7回ー

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第7回 大河とテキサス革命?に係った人たち...

前途したような経緯でアメリカ大陸初の主権国家USAが誕生したわけですが...

嘗てのアステカ帝国の金銀財宝は、最早第一次メキシコ帝国では枯渇して?新たな鉱山開発の時代になっていました。

第1項 Mexico 建国の英雄?独裁者! Santa Anna

"殲滅を好むカソリック"の血を引く独裁者Antonio López de Santa Anna(以下Santa Anna)は、1794年2月21日にSpanish territoryだったVirreinato de Nueva España(ヌエルエスパーニャ)の支配者階級だったスペイン人の家庭に生まれました。

つまり、「殺戮を好む征服者スペイン人の家庭」に生まれたわけです!そして、若いころ、メキシコ独立戦争初期の"農民一揆"の時期に、"政府軍の兵士"として加り、下士官に昇進しています。

この時、上官からスペイン伝統の「容赦ない殲滅戦法」を学んだわけです。

その後、彼の所属していた王党派のIturbide(政府軍)が、スペイン本国の共和国政府に対抗してメキシコ独立戦争に加わったので、今度はIturbideの指揮下に入り革命軍(反乱軍)に加わって新生メキシコ政府に参加したわけです。

そして前途したように1821年8月24日に王党派のクーデターが起こりVirreinato de Nueva Españaの副王(知事)との間で政権交代が行われ、メキシコが独立を宣言したわけですが...

※しかし、当事者のスペイン協和国は、この条約を批准しなかったので、1836年12月28日(サンタマリア-カラトラバ条約締結)まで、15年間両国の国交は断絶したままでした。

つまり、親(スペイン王国)に認知(承認)されない私生児のMexico!は西欧社会からは主権国家としては認められていなかった!わけです。

Santa Annaの解任

新たに、皇帝!となったIturbideがSanta Annaを解任したために、実権を握っていた故郷のベラクルスで、自らの軍を組織して1822年12月に反乱を起こしました。

Iturbideの国外逃亡

Iturbideの配下だった将軍たちが反旗を翻し、1823年5月にIturbideを更迭(スペインに亡命)して、1824年にメキシコ連邦憲法を制定して共和制を復活させましたが...

Santa Anna独裁体制下のMexican territory時代

一時政界からは引退(失墜)したものの、策謀を駆使(暗殺)して敵対勢力との権力闘争に見事勝利して政界に返り咲いたSanta Annaは、憲法をも無視した"独裁者"となりました!正にスターリンそっくりです!

更に1834年、Santa Annaは議会の解散と市民軍の武装解除、「1824年憲法の廃止!」まで行いました。

つまりMexico革命以前のVirreinato de Nueva España当時より状況が悪化したわけです。

更に、元々「ならず者集団の正規軍?」に、強姦・強奪・殺戮を許可(奨励!)して、ユカタン、サカテカス、コアウイラの反乱地域の制圧を命じ、あらぬ限りの非道を繰り広げました!

1836年

独裁者 Santa Annaは「刑務所に収監されていた犯罪者!」を含む約6000名の「ならず者部隊」を編成し、自ら率いて"Texas反乱軍(革命軍)討伐"に向かいました。

3月中旬から始まったアラモ砦への総攻撃では、

13日間の戦闘の末に3月6日にTexisas民兵189名全員の玉砕(抹殺)で幕を閉じました。

更に、ゴリアドでは降伏した革命軍テキサス民兵342名全員を処刑!しました。

正に、スペインの新大陸遠征軍と同じ、"殲滅作戦"をとったわけです。

第2項 Texas 開拓の先駆者 Stephen F. Austin

テキサス開拓の先駆けとなった「テキサスの父」、Moses Austinは、州都Austinの町の名の起源にもなったStephen F. Austinの父親に当たります。

彼は正しく「テキサス開拓の道を切り開いた預言者?Moses 」なわけです。

Moses Austinは1819年恐慌で鉱山事業を失い、新生MexicoのTexsasを訪れた際に、アメリカ人のPioneer(開拓者)を呼び入れてTxsasを開拓することを思いつきました。

前途したように当時、Mexicoは独立戦争中でしたが、San AntonioにあったスペインのTexsas colony(植民地)に赴き、総督と交渉を重ね1820年に"スペイン国王の臣民"(つまりはカソリックに改宗すること)になることを条件に、300家族が入植できる「公有地払い下げ(移民)契約」を交わしました。

しかし翌年に志半ばにして無くなりました。

Stephen F. Austin が

Moses Austinの遺志を継いだ息子のStephen F. Austin(以下. Austin)が、USAで"入植移民"を募ったところ、不況の最中だったので移民希望者が集まりましたが、

1821年8月にテキサスが新生メキシコ政府の手に移り、Mexican territoryのCoahuila州となったので、改めて新政府のCoahuila州知事との交渉に出かけて、Coahuila州の行政庁 (ayuntamient) と再度契約を交わしました。

そして最初の「入植地調査」も行い、最初の入植者(移民)300家族は、無事にブラソス川、とコロラド川(Texsas)流域の入植地に入植しました。

その後更に、追加の入植(移民)契約を取り付けるために交渉に出かけましたが、メキシコ州知事からメキシコ政府の移民拒否を知らされました。

彼は臨時政府の有ったメキシコシティーまで赴き、新政府との交渉には3年間を要しましたが、1823年1月3日に何とかスペイン王国と交わしていた契約書に「同意のサイン」を取り付けて、契約を成立させました。

1823年3月メキシコ皇帝アグスティンを追い出した共和国新政府が再び契約(継続)の不履行を伝えてきて、再度交渉に当たった結果、

新移民法が成立して、権限がかねてから懇意にしていたCoahuila州(知事)に移り、知事の計らいで引き続き入植が認められました。

1925年中に300家族、1825年から1829年にかけて900家族の追加入植契約が結ばれて、入植出来ました。

そして後のテキサスレンジャーの起源となった自衛組織が創設されました。

更にUSA政府が1827年、に100万米ドル、2年後の1829年、500万米ドルで「テキサス買収提示」をしましたが、メキシコ政府は拒絶しました(はっきり言って阿保です!)。

"アメリカからの不法入国者!"が多かった1830年代

1830年になると、"今とは逆に!"USAからメキシコへ越境して不法入国するアメリカ人が多くなりました。

1832年までに Austinの功績で11,000人を超える入植者が入植(移住)して、人口は30000人に達していましたが、最早入植者に対する Austinの発言力(指導力)は無くなっていました!

その後、 AustinはメキシコCoahuila州からの分離と、"テキサス州の自治権"を得るために、当時のMexico副大統領のバレンティン・ゴメス・ファリアスなどにも謁見して交渉を続けましたが、反逆罪を問われて収監(投獄)されて入出所を繰り返し、やっと1835年7月にになって無罪方面となり釈放されて帰郷しましたが時すでに遅しで、

不法入国者が占拠したテキサス州では独立運動が活発化していて、もはや平和的手段(Mexico国内のTxiss州成立)ではなく、"完全独立・独立闘争しか道は残されていない"と悟らされました。

1835年

F. Austinは独立軍(民兵)の総大将に祭り上げられて1835年10月1日に進撃を開始してベハル包囲戦(1835年10月12日から12月11日)に参戦しました。

当初は(突然の蜂起で)不意を突かれたMexcoの守備隊に対して、後込めライフル銃を装備した反乱軍・民兵は善戦しましたが...

※当時のMexcoの守備隊では旧式な「先込め銃」を使用していました。

第4項 Texasの英雄 liberalなUSAの代表Sam Houston将軍

テキサス共和国初代大統領となり、ヒューストン市の名前の由来にもなったSam Houston将軍は、

幼年時代に家出してnative peopleの"誇り高きAmerican indian"の下で数年間暮らした経歴を持つ異色の政治家でした!

そして、彼は一生を通じてAmerican indianのよき理解者であり人種差別反対論者でもありました!

独立戦争で一兵士から少尉に昇進!

USA独立戦争では一兵士として従軍して、少尉迄昇進しました、そして1818年に除隊しました。

その後テネシー民兵の大将にも任命された経験があります。

そして、テネシー州知事を経験した後に、旧知の仲のチェロキーインディアンの代理人としてワシントンで政府と交渉に当たたこともあります!

つまり軍隊で「敵を"殲滅」する戦術を学んだおバカなSanta Annaとは異なり、「和平交渉」で停戦を実現!する交渉術を学んだわけです。

Texsasへは1832年に移り住み、革命軍の臨時政府によりテキサス革命軍の総大将に選ばれていました。

Texas革命で劣勢に回った反乱軍は

開戦後劣勢に回った革命軍(反乱軍)は"海賊船"まで認めて戦費の足しにして、更には戦費10万ドルの融資を得るためにUSAに代表団を差し向けて、USAで義勇軍("傭兵")を募りました。

逆背水の陣?で勝利

Stephen F. Austinに代わってSam Houston将軍が陣頭指揮に立ち、守備隊を率いることになりましたが、戦況の悪化と共にUSA国境まで、撤退することを決意して、町に火を放って焼き払い「小麦粉一サジも残さず?」町を引き払い退却しました。

メキシコ軍のLogisticsを断つことには成功しましたが、敗走を続ける民兵の間では、一見弱腰のヒューストン将軍への不満が増していきました!

馬鹿将軍Santa Annaのスタンドプレイが4月20日の奇跡!に繋がる

700名の分隊を率いていたMexico鎮圧軍総大将Santa Annaがスタンドプレイで突出して、ヒューストン率いる民兵900名を追走して、サンジャシント川を境に両軍が対峙しました。

更に、コス将軍率いる540人以上のMexico部隊も援軍として到着して、1200名以上に膨れ上がりましたが...

賢将ヒューストン将軍の軍勢は、あほなメキシコ軍を渡河させてからヴィンスィズ橋を燃やして退路を断ちました!

4月21日早朝、テキサス軍は攻撃を開始して、「Santa Anna率いるならず者たち」を押し戻しました。

「Logisticsを絶たれ」て飢えと疲れで弱り切っていたSanta Anna軍は敗北を喫し、生き残ったならず者ともどもに総大将Santa Annaも俘虜となり降伏文書に署名しました。

(※同じ独裁者でも、命乞いをして降伏文書に署名したSanta Annaより、自決したヒトラーのほうが潔いといえるかもしれません?!)

ベラスコ条約による停戦でリオグランデ川がborder に

そしてその後5月14日に卑怯者のSanta Annaがベラスコ条約に署名して、停戦となりますが...

そして、卑怯者のSanta Annaは命乞いをして「助命を条件」にワシントンD.C.へ出向き、テキサス共和国独立を承認することを確約させられました。

しかしこの間、メキシコでは卑怯者Santa Annaを「大統領から解任」していたので、Mexico政府は停戦成立とは考えずに(現在の朝鮮半島と同じ)"休戦"としてテキサス共和国を承認しませんでした。

その後、彼はスペインとの間で起こった1838年のパストリー戦争で英雄?となり再び大統領に返り咲きました!

ヒトラー同様に総大将・軍最高司令官としては無能!で単に"殺戮を好む独裁者"でしたが、巧みな話術(演説)一般大衆の人心掌握には長けていた!ようです。

Mexicoでは英雄かもしれませんがSanta Annaは阿保です!

性懲りも無く米墨戦争を引き起こしアメリカ大陸最古?の独立国家Virreinato de Nueva España エリアを手放す羽目に...

しかし性懲りも無く「米墨国境はヌエセス川 (Nueces River) だ...!」、と再びUSAに「ケンカを売り」米墨戦争(1846→1848年)に発展して、旧Spanish territoryのVirreinato de Nueva EspañaエリアをUSAに売却せざるを得ない羽目になり、現在のborder リオグランデ川が確定したわけです。

第4項 ここまでのまとめ

1812年4月30日ルイジアナ州が18番目の州(現州都;バトンルージュ)として昇格して ミシシッピー川以東北緯33度線以南を「Orleans準州」としました。

北緯33度線以南がオーリンズ準州となり、更にそれ以外は政府直轄American territoryとしてDistrict of Louisianaと呼ばれました。

ルイジアナ州成立後は、混乱を防止するために北緯33度線以北のDistrict of Louisianaは一時期Missouri territory と呼ばれました。

インディアナ州 19番目1816年12月11日(オハイオ州から1800年準州分離)現州都;インディアナポリス

ミシシッピー州 20番目1817年12月10日( 1798年4月7日ミシシッピ準州)現州都;ジャクソン

イリノイ州 21番目 1818年12月3日(1809年2月3日にイリノイ準州)現州都;スプリングフィールド

アラバマ州 22番目1819年12月14日(1817年3月3日ミシシッピー準州から分離アラバマ準州)現州都;モンゴメリー

ミシガン州 26番目1837年1月26日(インディアナ準州より分離1824年、ミシガン準州昇格)現州都;ランシング

ウィスコンシン州 30番目1848年5月29日 (1836年にウィスコンシン準州)現州都;マディソン

ミネソタ州 32番目1858年5月11日(1849年3月3日ミネソタ準州) 現州都;セントポール

ウェストバージニア州 35番目1863年6月20日(南北戦争時にバージニア州が分裂)現州都;チャールストン

1819年 スペイン領フロリダを買収、territory(領有地)を拡大。

(1821年スペインからメキシコが独立)

1836年のメキシコ領テキサスでの一種の内乱でテキサス共和国を樹立!

1845年 テキサス共和国をアメリカへ併合してterritory(領有地)する。

1846年6月15日 オレゴン条約締結

グレートブリテン・アイルランド連合王国(大英帝国)とアメリカ合衆国との間で調印された条約(密約?)で北緯49度線をfrontier (縄張り境界)として設定してオレゴン州がアメリカのterritoryとなり、実質北緯42度までの領有権を放棄した。

1846年から1848年 メキシコとの間で国境紛争勃発

1848年アメリカの勝利により、現アリゾナ州(後にガズデン購入によって併合した南部地域を除く主要部分)コロラド州(旧テキサス共和国の境界以西)ニューメキシコ州(ガズデン購入地を除くリオ・グランデ川以西)ワイオミング州(旧テキサス共和国の境界以西および北緯42度線以南)をメキシコより買収し!さらにterritory拡大。

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公開:2021年10月19日
更新:2024年4月 5日

投稿者:デジタヌ

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