狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Historia『 アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川と鉄道 』ー第3回ー

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★第2節 いつの世もAvant-gardeなLa France!

いずれの国(ウィキペディア)でも、「歴史は自国"目線"」で語られますが...

仏語版Wikipédiaは特にその傾向が強く、彼の地では"国粋主義者"がいかに多い(大多数)かがうかがえます。

最早USAでも、アメリカインディアンの"侵略者闘争"に対する、"インディアン討伐"を美化して"侵略者の正義"だけを語ることは無くなっていますが...

フランスでは、つねに"勝者の主張"で貫かれ、権力闘争(暗殺・粛清・宗教弾圧)や海外侵略"は美化して、侵略された敗者は"負けて当然"的"悪者"に仕立て上げる思想教育で徹底されているようです。

カソリック圏王国に関する記述

アメリカ大陸進出で後塵を拝したフランスですが、

彼らは、捕鯨の補給基地や毛皮貿易の交易所として、北洋のラプラドル海に開けたセントローレンス湾と、そこに注ぐセントローレンス川河口を選び、カヌーなどの小舟で遡り"奥地"に分け入っていきました!

そして、五大湖と周辺の湖沼地帯に辿り着いたわけです。

更にフランス人たちは、5大湖に辿り着くと、南下して、ミシシッピー川の支流に辿り着き、多くの支流域を探検し、スペイン王国の脅威が及ばない流域に、Fortとcolonyを展開して、地道に!開拓をはじめ、ミシシッピー川流域にFrench territory(Louisiana)を展開しましたが、スペインに目を付けられて、Spanish territory(Louisiana)に組み入れられ、北部のセントローレンス川に押し戻されてしまいました。

第1項 宗教改革とカソリック社会のAvant-gardeの旗手フランス国王フランソワ1世

宗教改革運動と同時代に君臨したヴァロワ朝第9代のフランス王François Ier (roi de France)(在位:1515年 - 1547年)は、飛んでる国王でした?

前途したスペイン国王スペイン王国カルロス1世(在位1516年 →1556年)と同時代にカソリック国フランス王国を収め、カルロス1世と神聖ローマ帝国の皇帝の座を争い、ライバルのカール5世が即位してからも、カソリック社会復興の為に、ローマ法王の片腕として、対抗勢力(宗教改革派)とウスリム世界を敵に回して戦いました。

フランソワ1世の対カール5世政策は成否相半ばするものだが...フランス王国の維持に支障をきたすカール5世の構想をくじくことには成功した。カトリックの両大国が敵対したことは、西洋キリスト教世界に重大な影響をもたらした。...このころ興った宗教改革の拡散を容易なものとし...オスマン帝国にウィーン包囲を許し、ハンガリー王国のほぼ全土を占領させてしまって...

フランソワ1世の統治期間は宗教改革の急速な拡大とはっきり一致している。《日本語版ウィキペディア フランソワ1世より引用

1523年頃、イタリア人探検家ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノがフランス国王フランソワ1世に近づき、「中国に至る西回りルート(北西航路)を見付けるための遠征隊」のsupport(支援)を懇願しました。

最初は乗り気ではなかったフランソワ1世も、半信半疑でsponsorship(後援)を引き受け、探検隊を出しましたが、帰国後の報告で、新大陸に興味を持つようになりました。

更に、スペイン王国が派遣したマゼラン艦隊の世界一周成功の話を聞きつけ、更にはそれを反映した「スペイン・ポルトガルの(世界2分独占お墨付きの決定版)1529年のサラゴサ条約締結」に反感を覚え、「そんな物糞くらえ!...」で大陸進出に踏み出しました!

これは明らかにカソリック社会の規範「ローマ法王庁のお触れ」に反する行為ですが...

カソリック体制の用心棒!の一方の旗手フランス国王を咎めるわけにもいかず、黙認の形をとらざるを得なかったのでしょう...

第2項 最初はセントローレンス湾への遠洋漁業船団の補給港として

当初は、北大西洋での遠洋漁業(捕鯨!)船団の寄港地(補給港)として、セントローレンス湾の河口部にcolony(植民地)建設を許可しました。

1534年、ジャックカルティエはガスペ半島に十字架を立て、フランソワ1世の領有地であることを示しました...

1541年にフォートチャールズブールロイヤル(現在のケベックシティ)に400人が入植して定住を試みましたが、2年しか続きませんでした。《英語版Wikipediaより引用

厳冬期の厳しい環境で、最初の入植(定住)は失敗したとされています。

その後、前途した遠洋漁業団が原住民と友好関係を結び、補給基地として利用したといわれています。

更に、その後同行していた毛皮商が、セントローレンス川沿岸が、ビーバーの猟場として優れていることに気づき、再度国王にfort(砦・交易所)& colony(植民地)建設を願い出ました。

そして毛皮交易が始まったわけですが...

問題は交易(物々交換)の"対価"で...

アルコール類すなわち、英国から仕入れた"粗悪ウィスキー"や自国製の"粗悪コニャック"が主体であった可能性があります。

アメリカインディアンの世界では蒸留酒つまり"アルコール常飲"の習慣はなかったはずで?

白人が持ち込んだ"アルコール"で"アルコール依存症(アル中)"の歴史(激増)が恥じ(始)まった訳です。

その後の亜細亜における、イギリス王国の悪辣な3角貿易、 アヘンー絹織物ーお茶(紅茶)や、大西洋でのスペインの・非道徳的な"奴隷貿易" アルコール(ラム酒)ー奴隷ー砂糖

よりは、幾分はましだった?かもしれませんが...

プロテスタントが

これとは別にフランス国内のHuguenots(プロテスタント一派)が、現フロリダ州ジャクソンビルにFort Caroline(キャロライン植民地)を建設しましたが、 St. Augustine(セントオーガスティン)にfortとcolonyを建設して駐屯?していた、ペドロメネンデスデアビレスが率いるスペインの傭兵によって1565年9月20日に襲撃を受け壊滅しました。

この時、のフランス国王シャルル9世(在位:1561年 - 1574年)はまだ15歳で、実権は摂政をしていた祖母のカトリーヌ皇太后が握り彼女はイタリア出身のカソリックだったので、Huguenotsの入植地での事件でもあり、国際問題としてローマ法王庁には提訴はしなかったのでしょう!

プロテスタントの擁護者 アンリ4世

アンリ4世は、ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日 →1610年5月14日)で、1598年に"ナントの勅令"で"信仰の自由"を補償して、カトリックとHuguenotsの国内融和に努め、40年近くにわたる宗教戦争(内戦)を終結させて、戦争によって疲弊した国家の再建に尽力した名君として今でも人気のある国王です!

しかしカソリック一派が差し向けた"刺客"により暗殺されました。(※★)

"ナントの勅令"は彼の死後も1685年に、「太陽王」ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令で撤廃!するまで、約90年間の長きにわたり受け継がれていました。

参※★)耶蘇の世界では、紀元前のローマ帝国時代から"権力闘争"(暗殺)、権力維持のための粛清(対立陣営(民族)への迫害)、権力者の富の独占、道徳観(宗教・哲学)の押し付け(強要)が当たり前に行われてきて...

多くの悲劇を(殺戮;殲滅!搾取(隷属・奴隷化)・追放!・難民・民族大移動)を繰り返してきました!

彼らの正義感・道徳観は、「極々一部の熱心な修道士」による、限られた美談(キリスト教徒奴隷の買い取り解放)のみが強調されていますが...

実際には、「権力と手を結んだローマンカソリック主流派」の「極悪非道!な略奪遠征行為」のほうが趨勢を占めているわけです!

有名な逸話としては、十字軍の指揮官がMuslim territory(イスラム実効支配地)と「外交交渉で無血停戦!」して、凱旋した際に当時の"ローマ教皇"が...

『汝は何故異教徒を殲滅!しないで"おめ‐おめ"と帰国したのだ!...』

と強く"咎めた"と言う逸話が残っています!

St. Lawrence River

1588年のアルマダの海戦の敗北でスペイン王国の制海権が揺らぎだしました。

その「虚を突いて」フランス人がexplorer(探検家・先駆者)を結成してSt. Lawrence Riverを遡る(経)路を探検しだしました。

最初に、毛皮商人の交易所と、捕鯨基地が現カナダのTadoussacに出来たのは1600年頃と言われています。

その後1605年に現在のAnnapolis RoyalにFort Anne(アン砦)を中心にPort Royal(カナダの)を開き、1608年にケベック・シティーを開き、フランスの大陸進出の拠点としたわけです。

そして上流に遡り、5大湖に至り、5大湖それぞれの南端から流れ出る河川を発見して、explorer達が下りSt.Louisで終結して大河川ミシシッピー川として南部に流れて、流域が作る中西部の大平原を発見して Louisianaと命名したわけです。

セントローレンス川流域とミシシッピ川流域を French territoryのNouvelle-Franceとしたわけです。

なのでカナダのケベック州ではフランス語が公用語になっているわけです。

1598年、セーブル島にfort(砦・交易所)が建設され...1600年には現在のケベック州タドゥサックにもfort(砦・交易所)が建設されたが越冬できたのは5人に過ぎず!試みは失敗に終わった。

1604年、現メイン州との国境、ベイ・フランセーズ(ファンディ湾)にあるセント・クロイ島にcolony(植民地)が設立され、1605年にはポート・ロワイヤルに移され...1607年に一旦放棄され再度1610年に再建されたが1613年には焼き討ちにあい破壊され、その後別の場所に移住した...《英語版Wikipedia New Franceより引用》

フランス2番目のcolony(入植地)ケベック

1608年、フランス国王アンリ4世に支援された、(2人の指導者が)28人の隊員と共にケベックに2番目のフランス恒久開拓地を建設て入植したが、厳しい気候や伝染病が蔓延して多くの開拓者が倒れ、植民事業は困難を極め遅々として進まなかった。

1630年、この開拓地に住んでいた開拓者は103人に過ぎなかったが、(それでも)1640年には355人まで増えていた...《英語版Wikipedia New Franceより引用》

ルイ13世の統治(1610年5月14日→1643年5月14日)

この間、カソリックのルイ13世は最初はCharles d'Albert, duc de Luynesにそして彼の死後(1621年12月15日)はArmand Jean du Plessis de Richelieu(リシュリュー枢機卿)に頼りきりでした。

特にカソリックの枢機卿でありながら強(したた)かなArmand Jean du Plessis de Richelieuは、

フランスのプロテスタントを抑圧したにもかかわらず、彼は目標を達成するためにイングランド王国やオランダ共和国などの反カソリック国家と同盟を結びました。《英語版Wikipediaより引用

シャンプランの死後(1621年12月15日以降)に実権を握ったCardinal Richelieuによりヌーベルフランスで支配権を確立した。

1627年、Cardinal RichelieCompagniedesCent-Associésを設立しました

つまりこの時点では、表向き国際企業による海外開発であり、フランス王国とは関係ない民間投資で、ローマ教皇庁の"ご意向"には反していない訳です?

いくつかの植民地企業は、ヌーベルフランスの自治組織と商業開発を確実にするために互いに成功しました。

  • ルーアンカンパニー ;
  • モンモランシーカンパニー ;
  • CompagniedesCent-Associés ;
  • フランス西インド会社 ;
  • ノースベイカンパニー ;
  • 住民の会社 ;
  • ルイジアナ会社 ;
  • 西の会社 ;
  • ミシシッピ会社

《仏語版Wikipediaより引用》

そしてSamuel de ChamplainをGovernor(総督)に任命しました。

しかし、一方では、カソリック教会による司法介入(裁判代行)と、守備隊司令官による2重統治状態となったわけです。

1642年、ポール・ショムデイ・ド・メソヌーヴが指導する開拓者集団を後援し、セントローレンス川のさらに上流、現在のモントリオールの前身であるヴィル・マリーを建設させた。《英語版Wikipediaより引用

セントローレンス川が重要な輸送路に

イエズス会の宣教とセントローレンス川流域の開拓

1640年代を通じてイエズス会の宣教師が五大湖地方に入り、ヒューロン族の多くを改宗させた。

イエズス会側(ヒューロン族連合軍)はイロコイ族との抗争になり、1649年までに、イエズス会側はイロコイ族の侵略でほぼ完璧に破壊された。

ヌーベルフランスの交通は幾つかの道路や運河を除いてほとんど整備されていない状況だった...人々はセントローレンス川をカヌーを使った主要な交通路として...

冬には湖が凍ったので、...犬や馬に曳かせた橇(そり)を使った。

陸上交通は。その後川沿いにwagon trail(荷馬車轍)が開かれる1830年代まで発展しなかった。

さらに1840年になりリドー運河が造られた。英語版Wikipediaより引用

追いう風に北アメリカ大陸開拓交通史の典型的なパターンを見ることができます。

つまり、河川利用、河川沿いのワゴントレイル:荷馬車轍(わだち)、運河による水運、そして鉄道へ...

太陽王ルイ14世(在位:1643年5月14日 - 1715年9月1日)と植民地政策

当初、ルイ13世同様に、宰相としてCardinal Mazarin(前任者リシュリュー枢機卿の腹心)を置きましたが、彼が無くなった1661年3月以降は、宰相に頼ることは無くなり自ら統治を行いました。そして前途した様に1685年に、フォンテーヌブローの勅令を発してHuguenotsを禁止して再びカソリックを国教としました。

と同時に、連合国家"フランス"を形成していた各地の領主(豪族)達の権限を(国王直轄地のGovernor;知事と同様に)制限して、ルイ14世の専制国家とフランス王国として再統一しました。

民活?から王直轄colony & dominion への植民地政策転換

民間会社主体の交易?事業として、fort(砦・交易所)を中心とした民間のcolony(植民地)による貿易事業から、フランス王国直轄 dominion(領土、領地、自治領 )拡大への政策転換の時代に移り変わろうとしていました。

窮鼠猫を噛む?

1650年代はモントリオールはまだ数十人の入植者(定住者)がいるだけ、入植(定住開始)したフランス人と友好関係?にあったnative peopleのアルゴンキン語族、モンタネー族およびヒューロン族と対立する「イロコイ族」が制圧していました。

1660年、2人の民間人が"Huron colonyの民兵隊"を率いてイロコイ族に挑みましたが...全員玉砕しました!

しかしイロコイ族の「白人追放・撃退行動」を思いとどまらせる効果はありました。

西班牙のメキシコ征服同様に、アメリカ大陸北部でも、native people(インディアン種族)の勢力争いは続いていました。

フランスの本格的なアメリカ植民地化が始まる

1663年、ルイ14世がここをDominion(王室直轄領)としたことで、Nouvelle-Franceの存在が確固たるものとなりました(※★)。

1663年、植民地企業から引き継ぐためにヌーベルフランス政府王領外に設立されました

1665年、ルイ14世はフランス軍の守備隊カリニャン・サリエール連隊をケベックに派遣しました。

colony(植民地)はterritory(領有地)&dominion(海外領土、自治領 )となるべく組織改革されて、Governor(総督)とIntendant(執行官)はフランス海軍省に組み入れられました。

1665年、海軍大臣の命によりGovernor(総督)としてJean TalonがNouvelle-Franceに派遣されました。

これらの改革で、前途したSamuel de Champlainの没(1635年12月25日)後、Governor(総督)に代わり「全権(司法・行政)を掌握」した"ケベック主教"の権限を剝奪し、本土各地の君主(豪族)領同様に国王直轄のGovernor(知事)が統治するフランス王国領Nouvelle-Franceとしました。(※つまり、ヨーロッパの他の勢力、スペイン、ドイツハンガリー帝国(神聖ローマ帝国)やイギリス、阿蘭陀などの非ローマンカソリック圏に認知(承認)させました。(※★)

(※★)最早、神聖ローマ帝国(Römisch-deutsche Kaiser;ローマドイツ帝国)の覇権は弱まり、カソリック社会も綻んでいたので、ローマ教皇も"強硬"な態度はとれませんでした。つまりこの時点で、カソリック世界に3つ目の海外領土が認知されたわけです。

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公開:2021年10月19日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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