狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

歴史探訪『 アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川と鉄道 』ー第2回ー

第2回 スペインのアメリカ大陸侵略!

前途したように、ポルトガル・スペインの両カソリック海洋国は、1494年の"密約Tratado de Tordesillas"を結びterritory(実効支配域)のoutlineを取り決めたわけです。(※10)

さらにローマ法王庁に追認させて、"世界制覇"に向かったわけですが...

しかし1588年のアルマダの海戦で「スペインの無敵艦隊」が英国に敗れ、その後何とか立て直して大西洋のterritory(制海権)を"意地"しましたが、1805年に有名なトラファルガーの海戦で、連合を組んだナポレオンのフランス艦隊諸共、英国艦隊に惨敗してスペイン海軍が壊滅して大西洋におけるterritory(制海権)を無くし、その後は坂道を転がり落ちるように衰退して、1819年にはフロリダterritoryをcolonyごとUSAに売却!し、1821年にはSpanish territoryであるMexicoの独立を認め、どんどん衰退したわけですが...

参※10)実際には、当時のならわしで、明確なものではなく、お互いの「利害を尊重?」した曖昧なものでした。

第1項 カソリック世界再興の為に世界の2分を認められた、スペインとポルトガル!

ポルトガルは、喜望峰航路で、亜細亜に至り、香辛料貿易で巨額の富を手に入れ、海軍力を増強して海洋国家としてますます発展しました。

略奪(奴隷狩り!)が目的の侵略戦争だったので鼻から友好貿易などする気も無く!「統治国家も糞も無かった」わけです!

だから、その後も"国の体裁を整えていた統治国家・自治国家"のアステカ文明諸国・インカ帝国などの独立国家を次々と蹂躙して、略奪した金銀財宝を本国スペインに持ち帰り、カソリック世界の復興のための軍事費に充当したわけです!

彼らは「カリブ海の海賊」をののしりますが、彼らのfort(砦)にあるcolony(植民地)の総督とその手下共"略奪軍(傭兵山賊?)"は、それ以上の悪行(殺戮と略奪)を重ねていたわけです!

第2項 アメリカ大陸最初の"国家"を建国したスペイン王国

前途したようにカスティーリャ王国(後のスペイン王国)イザベラ女王(カスティーリャ女王在位:1474年 → 1504年)の資金援助で、イタリア生まれの奴隷商人!のクリストファー・コロンブスが1492年・1493年の2度の奴隷狩り?遠征で、西インド諸島のイスパニョーラ島(現ドミニカ&ハイチ両共和国)を「新大陸?」として誤認して、ヨーロッパ人最初のfort(砦)とcolony(植民地)を築き、「アメリカ航路」を開いたことが、当時カトリック支配がほころび始めた西欧列強が、海洋国家としてアメリカ侵略を画策するトリガーとなったとされています。

これが前途した"ローマ教皇臣下"のスペイン王国とポルトガル王国の間で交わされた(カソリック)世界を2分するトルデシリャス条約(1494年6月7日)に繋がり、大"後悔"時代?が始まったわけです。

スペインはフェリペ2世の在位中(1556年1月16日- 1598年9月13日)に最盛期を迎えた。1580年から1640年にかけての王朝連合によってスペイン王がポルトガル王も兼ねる(1580年9月12日→)になり、中南米やアジア・アフリカ沿岸に点在するポルトガルの海外植民地も統合した...フィリピンなどの従来植民地と併せた広大な領土を統治する大国となった。《日本語版ウィキペディアより引用》

第1目 アメリカ大陸進出を始めた カトリック両王体制下のスペイン

カトリック両王(日本語版ウィキペディア)(1492年 →1516年)の統治時代。

その後は、America(アメリカ大陸)の名称の由縁となったイタリア生まれの地理学者・探検家のAmerigo Vespucci(アメリゴ・ヴェスプッチ)が「海洋進出を企てていたスペイン」の要請で。1497年→1505年にかけて4度のscouting(斥候・偵察)航海で新大陸アメリカを確認して、

コロンブスがイスパニョーラ島に再度fort(砦)とcolony(植民地)を築き、息子Diego Columbus(ディエゴ・コロン)が1510年に"金鉱"を求めてキューバ島に遠征していますが...(※11)

真の目的は生業としている"奴隷狩り"でした!

参※11)この時築いたfort(砦)は3度目の航海の時点ではいずれもネイティブ民族により奪回されて?、破壊されていました。

海賊上がりのベラスケスが最初の海外領土としての植民地をを

1511年にDiego Velázquez de Cuéllar(ベラスケス)が、fort(砦・)とcolony(植民地)を築き総督となり、本格的なアメリカ大陸本土遠征の拠点としました。(※12)

つまり、アメリカを侵略し始めた当初のスペインは、入植・開拓が目的ではなく!

その後の遠征は全てキューバから行われています。

そしてカソリック社会スペイン王国による「大陸蹂躙・ネイティブ民族殺戮・金銀財宝略奪」の南北アメリカ大陸蹂躙の世紀に入ったわけです。

と同時に西インド諸島(アメリカ大陸?)の植民地化でアメリカ進出を果たし、アメリカ大陸最初の国家"Virreinato de Nueva Españaを建国して国際認知(ローマ法王庁の承認)を得たのもスペイン王国でした。

参※12)イザベラ1世 はスペイン王国のcolony(植民地=領土)として、キューバ島に総督府を置いて以降は、colonyの先住民は"臣民"として市民権を認め、奴隷狩りを禁止しましたが...

コロンブス達"初期の入植者"は、"奴隷の繫殖"と奴隷貿易を続けました!

なので、コロンブスを探検家として美化して、新大陸発見の功労者のように、持ち上げる日"教祖"検定?教科書の編集方針には強い怒りを禁じ得ません!

第1目 スペインの新大陸"領土化"政策と征服者コルテス

ベラスケスがメキシコ本土へのcolony(搾取領域)拡大に"傭兵(山賊?)"の隊長として差し向けたのが、Hernán Cortés(コルテス)でした。

メキシコに渡り平定(征服)を開始した当初は、ベラスケスが植民地での"権力闘争の政敵"として、キューバから討伐隊を送り込み"粛清"されかけましたが...

1521年にメキシコを実質平定した彼は、スペイン本国にスペイン王国のvirreinato(副王領・飛び地)として認めることを進言(直訴)しました。

※コルテスはベラスケスが単なる1colony(植民地)のGobernador(総督)にすぎず、身分も低く、軍人でもない、自分と同じただの"盗賊集団の首領"であることを承知していました!

だから、直接の雇用主であるベラスケスを無視して、"スペイン国王に直訴"したのでしょう。

戦前朝鮮併合を行った大日本帝国はこれを前例に

植民地政策をとった嘗ての大日本帝国の朝鮮半島併合はこれに学んだのでしょう?

朝鮮半島最後の統一国家であった李氏朝鮮は、アステカ文明同様に、多くの対立勢力を抱えた、呉越同舟の連合国家でもあったわけです。

第2項 その後の本格的入植と領土拡大

ほぼ同時期に、スペイン王国カルロス1世が派遣した、Ferdinand Magellan(マゼラン)艦隊が足掛け3年の大航海(1519年9月20日→1522年9月6日)の末地球球体説を実証しました。

マゼラン艦隊が世界一周を果たしたので、神聖ローマ帝国の皇帝にもなっていたカール5世(スペイン国王カルロス1世)(※13)が、ポルトガル王国ともう一つの条約1529年のサラゴサ条約で東南アジア(太平様)にもFrontier(縄張りライン)を引きました。

●日本語版ウィキペディア サラゴサ条約

●西班牙語版Wikipedia Tratado de Zaragoza

●英語版Wikipedia Treaty of Zaragoza

1535年にSpanish territory(海外領土・飛び地)Virreinato de Nueva Españaが誕生

Virrey(副王)になるコルテスの野望はかなわず、Antonio de Mendoza(アントニオ・デ・メンドーサ)がvirrey(副王)(※14)に選ばれました。

参※13)前途したように、スペイン王国カルロス1世(在位1516年 →1556年)と神聖ローマ帝国のカール5世(位1519年 →1556年)は同一人物です。

Virreinato de Nueva Españaこそアメリカ大陸最初の"国家"と言っても差し支えないでしょう。

但しVirreinato de Nueva Españaはあくまでも「飛び地の領土」として"スペイン王国が併合したdominion(領地)"なので主権国家ではありませんでしたが.

参※14)当サイト内関連記事 総督(軍司令官)と副王(知事)の違いは? はこちら。

副王領となってからのVirreinato de Nueva España

内陸部・太平洋岸にもterritoryを拡張する姿勢を取り、

1568年から1587年の間に、スペインは現在のアメリカ合衆国南部のジョージアやサウス・カロライナへのキリスト教宣教活動を行なっている...これは現在のフロリダでは一部成功し、セントオーガスティン(1565年)が設立され...現在のアメリカ合衆国の中ではヨーロッパ人によって最も古くに設立された街である。

アメリカ合衆国南西部の探検(1540-1542年)...太平洋岸の探検(1542-1543年、この探検では初めてヨーロッパ人としてカリフォルニアを見つけた)...スペイン領東インド諸島の探検(1542-1543年)が行われた。《日本語版ウィキペディアより引用》

しかし1588年のアルマダの海戦の敗北で一時期制海権が失われ、大陸進出は停滞しますが、3角貿易(奴隷貿易)で巨額の富を得ることができたスペイン王国は、再び制海権を手中に収めます。

...スペイン人はさらにヌエボ・メヒコ州の領土拡大を行い、主要な都市としてサンタフェ(1607年)が設立された。

宣教活動と軍事力による北アメリカの入植は、スペイン人による都市建設の原動力となった。《日本語版ウィキペディアより引用》

更に、マゼラン隊遠征の記録を活かし、アフリカ南端の喜望峰を回らずに、南太平洋から得られる香辛料を...

アジアからの貿易品は、太平洋を渡りアカプルコに送られ、そして陸路でベラクルスへ、インディアス艦隊によって大西洋を渡りスペイン本国へ送られた。(※15)

《日本語版ウィキペディアより引用》

参※15)カトリック両王(1492年 →1516年)の統治時代。スペインの海外territory(領有地)での奴隷狩りは禁止されていましたが...、他の大帝国同様に各地のLocal rules(因習・風習・制度)は容認されていました。

なので、フィリッピン⇔メキシコ間の南太平洋航路は、ガレー船(奴隷船)で航行されていました!

第2目 太平洋岸西海岸では

(現カリフォルニア州以南の)Alta California(Spanish territory)は、1635年以来Virreinato de Nueva Españaとなりスペイン王家の直轄領でしたが...

金銀財宝の略奪にしか興味の無かった当持のスペイン王国は、元からこのエリアにはあまり執着はありませんでした。

なので当初は「献身的なカソリックの聖職者」が中心となって、メキシコ湾沿岸から北上して、このエリア(空き地)での布教活動と、農業・漁業を推し進めたわけです。

第3項 元々はSpanish territoryだったカリフォルニアを流れる河川

元々カリフォルニアは、現ネバダ州、現ユタ州、現アリゾナ州北部、現ワイオミング州南西部などからなるAlta California(Spanish territory)として誕生しました。

そして、スペイン王家の緒直轄領これらのSpanish territoryは1821年にスペインから独立(宣言)しましたが、スペイン帝国から独立した初代メキシコ合衆国 (1824年-1864年)は、スペイン本国が承認しないので、国際社会からは"主権国家"としては認められず、スペイン帝国の territoryと見做されていました。

しかしいち早く承認したUSAとの間で、テキサス共和国をめぐる承認問題で紛争が起こり、その後に再燃した国境紛争・米墨戦争(1846年→1848年)の結果、USAに買収されてUSA territoryとなりました。

そしてカリフォルニアは1850年9月9日に31番目の州に昇格しました。

Sacramento River

アメリカ西海岸カリフォルニア州を流れるSacramento River(サクラメント川)は、流域に金鉱が発見されていEldorado(黄金郷)として有名になり、東部から開拓者(入植者)がパナマ鉄道経由やロッキー越えのtrailで大挙して入植しました。

現在は大西洋岸のロサンゼルス、サンディエゴ、サンノゼ、サンフランシスコの陰になって存在の薄いサクラメントですが...

サンフランシスコ湾岸のオークランドと共にEldorado(黄金郷)への玄関口、重要な西部開拓拠点でした。

なので1869年にFirst Transcontinental Railroadも彼の地に敷かれたわけです!

また鉄道が開通する前のサクラメント川はミシシッピー川同様に西部開拓ゴールドラッシュの重要なtransfer lineでした。

Sacramento Riverとサクラメント市

前途したように1808年にスペインの探検家によりサクラメント川と命名されまた。

米墨戦争停戦前の1848年にこの川の上流部で金鉱が発見されたことにより、流域にサクラメント市を含む多くのFort(砦)とTownが誕生して、同時に海の玄関口オークランドも栄ました。

ミシシッピー川同様に、19世紀な中ごろにはから外輪船(蒸気船)が河口のOaklandと州都Sacramento とを結んでいました。

Oakland

San Franciscoの対岸にあるOaklandは1772年にスペインのcolonyとして、Fort(砦)と共に建設されました。

その後、西海岸一帯が前途したようにUSAの territoryとなりさらに、1855年のPanama Canal Railway Companyの開業でSacramento River上流のEldorado(黄金郷)への西の玄関港として、発展しだしたわけです。

San Francisco

日本人(移民)にもお馴染みのサンフランシスコは、その名が示すように、1776年3月28日にスペインの探検家により起源となるYelamu villagesが彼の地に築かれて、対岸のOaklandと共に発展しました。

つまり、オークランドが鶏なわけです!

続きはこちら

ここをクリックするとこの Content の Opening に戻れます!

 

公開:2021年10月19日
更新:2024年4月 5日

投稿者:デジタヌ

歴史探訪『 アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川と鉄道 』ー第1回ーTOP歴史探訪『 アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川と鉄道 』ー第3回ー


 

 



▲鉄道史研究班へ戻る

 

ページ先頭に戻る