連載『 新潟交通 BRT は "よそ者 反対派 " の不要論に屈せずに "路線を拡充!" すべき!』ー第3回ー
第1項 鉄道駅の立地と繫華街の関係は
一般的な地方都市では
新潟市と同じように、鉄道駅が移転した岐阜市では、地場産業の衰退とともに、中心繫華街柳ケ瀬が衰退してしまっています!
新潟駅に係らず、名古屋駅、京都駅、大阪駅、広島駅、博多駅などの歴史のある旧国鉄駅は全て火の粉による火災の心配から、市街地から離れた町外れに設けられていることが多いわけです!
新潟以外の大都市では、Interurban(都市圏高速電気軌道)が、乗り継ぎの便を考えて、国鉄駅周辺に集まり、国鉄路線も電化されて、次第に国鉄駅周辺が賑わいだしたわけです!が...
「進取の気性」に富む新潟市では
新潟市民は、信越本線開業当初より、県庁の有った白山(信濃川左岸)乗り入れを希望していた!わけです。
しかし、羽越本線で新潟以北への延伸を狙っていた北越鉄道は信濃川右岸ルートで新潟市に到達したために、信濃川放水路に大河津分水(1922年8月竣工)が開削されていなかった当時には川幅の広かった(約800m)、現信濃川本流を、渡河することを断念して、1897年11月20日に沼垂駅を終点としていた開業したわけです。
廃線ルート図について
当サイトで用いた廃線ルートは、日本語ウィキペディアに掲載されている"出所不明の参考地図"が当てにならないので、敗戦後の1945年以降に撮影された国土地理院の公開航空写真データに基づいています。
但し10m前後の誤差があることはご了承願います。
詳しくい御知りになりたい方は、国土地理院のOfficial Web Site をご利用願います。
最近の"お子ちゃま鉄オタ"は知らないでしょうが...
新潟市は、信濃川と、阿賀野川の河口部の三角州が発展して形成された都市です。
大河津分水(信濃川放水路)が1922年8月に開削されるまでは旧県庁(現市役所本庁舎)の有る古町エリア(中区)は西区と地続きで、"新潟国際空港の有る"東区"、現新潟駅の有る中央区は信濃川と阿賀野川が合流する部分に形成された三角州の上にあったわけです!
大河津分水(信濃川放水路)が完成する以前も、河川改修が度々、行われていた中央区・東区では、無数の排水路が張り巡らせされて、八郎潟のように"干拓"が進められて、農地転用がされていったわけです!が...
河川氾濫により、干拓地は度々水害にさらされていました。
つまり、北越鉄道が信濃川右岸ルートで新潟市に到達した1897年11月20日当時は現在市立万代高等学校がある沼垂駅を終点とする以外(陸)路は無かったわけです!開業したわけです。
参※ 万代橋の歴史
- 第1代 : 1886年(明治19年)竣工 木造!
- 第2代 : 1909年(明治42年)竣工 木造
- 第3代 : 1929年(昭和4年)竣工 鉄橋
地元の強い要望で
20世紀に入り地元の強い要望もあり、すでに開通していた木製の!初代万代橋1886年完成にほど近い、現中央郵便局近くに1904年5月3日に初代新潟駅が開業したわけです。
参考までに、旧新潟駅と相前後して生まれた臨港線も記入しておきましたが、鉄道を通せるような条件に合う、陸地は限られていました。
1922年8月に上流部の大津川分水路が通水を始めて、中区が両河川の氾濫による毎年の水没災害からやっと解放されました、信濃川の堤防移設で、万代橋付近の川幅も、約800m→約300mと半部に以下になり、中洲が干拓されて、新しい陸地が誕生しました!
これを受けて、現八千代橋(1962年完成)の近くまで貨物線(引き込み線)が敷設されました!
但し、1972年に関屋分水が完成するまでは、たびたび水害が繰り返されることとなりました。
越後線(旧越後鉄道)の開業
その後信越本線柏崎から分岐して新潟市市街地(白山)に至る越後鉄道が1913年に開業して、戦時中の1943年になってやっと、信濃川を渡河出来て、信越本線(旧新潟駅)と一本のレールで繋がったわけですが、当初は貨物取扱のみで旅客扱いは行っていませんでした。
地元からの"強い要望"で敗戦後の1951年4月に同貨物線と上沼垂(信号場)間を結ぶ短絡線が開業して、貨物営業が開始されました。
更に1958年12月になって新しい新潟駅が完成してやっと旅客開業しました。
その後に、開業した白新線(1952年開業)、新潟車両センター、新潟貨物駅、そして1982年11月15日に上越新幹線と共に開業した新潟新幹線車両センターも全て、干拓地の低湿地だったから、事業用地取得が可能だったわけです!
弥彦線の開業
前途した越後鉄道が敷設した路線です。
1916年10月16日 越後鉄道 西吉田(新設駅 )⇔弥彦 (駅新設)矢作(停留場)で
1922年4月20日 西吉田 ⇔燕 間延伸開業
※つまり、新潟市同様に暴れ川?信濃川で信越本線三条と隔てられていた燕町は
最初に越後線で、大都会!新潟市と帝都東京の両方と繋がったわけです!
その暴れ川も同年の8月に上流部の大津川分水路が通水を始めて、現燕三条駅当たり"中洲"が水害による水没にあわなくなりました。
1925年4月10日 燕 ⇔ 一ノ木戸(1926年8月駅名変更現東三条駅)間延伸開業
1927年7月31日 東三条 ⇔越後長沢(1985年廃止)(7.9km) 延伸開業
大津川分水路はその後も可動堰などの工事が継続されて戦前の1931年6月20日に(旧)可動堰が完成して、信濃川の氾濫は収まりました。
※1933年8月15 白根⇔燕間(16.1km) 延伸開業により新潟交通電車線が全線開業したので、便利なインターアーバンに乗客が流れて、大東亜戦争末期の1944年10月16日 東三条 ⇔越後長沢(-7.9km) 間が不用不急路線として休止されました。
1946年10月1日 東三条 ⇔越後長沢(7.9km) が営業再開されましたが...
1960年7月25日 弥彦 ⇔ 吉田(-4.9km)12月15日 東三条 ⇔越後長沢(-7.9km)が貨物営業廃止となりました。
1982年11月15日上越新幹線開業で 燕三条駅が誕生しました。
1984年4月8日 弥彦 ⇔東三条(17.4km) が電化されました!
1987年(昭和62年)4月1日 JR東日本発足
1988年(昭和63年)弥彦 ⇔ 吉田間の全列車と吉田 ⇔東三条間の一部列車と、弥彦 ⇔東三条間の直通列車を1本→13本と大増発!
1997年(平成9年)9月15日 燕三条 ⇔ 東三条間高架化配線変更で更に便利に!
※燕⇔新潟間の電化などの一連の輸送力増強で、燕⇔白山間のJR線が便利になったので、すでに1992年3月20日に 白山前 ⇔ 鉄軌分界点( 東関屋間 (2.6km) が休止(運行停止)となっていて中心部の白山駅まで直通が出来なくなっていた新潟交通が競争力を失い、1993年8月1日 には月潟⇔燕間(11.9km) が廃止に追い込まれ、更に1999年4月5日 東関屋 ⇔月潟間 (21.6km) 廃止により新潟交通鉄道線は全線廃止となった訳です!
現新潟駅が広大な敷地を獲得できたわけは
現新潟駅が、市内にこれほどの広大な敷地を確保できたのも、中央区が干拓地だったからです!
航空写真を、見れば一目瞭然ですが、新潟駅の建設当時は、農耕地に利用されていた!街外れにある干拓地で、広大な敷地を入手しやすかったわけです!
白新線の南側に住宅地が広がっているのは、もともと、"開拓者"が比較的高台の「古くからの中洲」に集落を形成したからです!
上越越新幹線が 1982年11月15日に高架駅として開業したわけですが...
当時疲弊していた国鉄では、新潟駅(舎)の改修もままならず、長らく在来線は地上に「取り残されていた」!わけです。
公開:2019年11月18日
更新:2024年2月23日
投稿者:デジタヌ
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