タヌキがゆく

千歳空港 は2か所にあった!陽炎のように終わった 連山飛行場 ...

前書き 空自千歳基地は連山飛行場に移転して陸自千歳駐屯地と統合すべきでは?

地元の方以外には現在の千歳空港以外に、"ほぼ同規模の巨大な軍用飛行場"があったことをご存じの方は少ないでしょう!

大東亜戦争中に開所されながらも、建設資材難と機材(飛行機)不足で十分に機能できず、1945年敗戦と同時に進駐軍が接収して飛行場として機能しだし、1950年の朝鮮動乱で兵員輸送の拠点として大活躍が始まり、1956年の米陸軍部隊の完全撤退と共に飛行場としての短い一生を終えた連山飛行場...

千歳空港 は2か所にあった!陽炎のように終わった 連山飛行場 ... の目次

※リンクについて

(参※xx) は当サイト内の参照関連記事リンクです。
但し、その他の直接 hyper-link は当事者・関連団体の公式サイト若しくはオリジナル各国語版Wikipediaへ直接リンクしています。

※本ファンタジーについて

本レビュー記事は、出来る限りの"記録(時系列)に下ずいた史実に、地政学的!・工学的 検証"を行ってるセミドキュメンタリー!ですが...

筆者の億測を交えたファンタジー?でもあります。

後述する各団体とは直接関連はありません。

また各団体では"答え難い大人の事情、あまり触れられたくない内容!"も含まれています。

本件に関してのお問い合わせはご無用に願います。 

プロローグ 実業家の用地寄付で生まれた軍用連山飛行場!

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※当サイトで用いた復元データは、全て国土地理院の公開航空写真データに基づいています。

但し数m程度の誤差があることはご了承願います。

現在東千歳駐屯地と呼ばれている陸上自衛隊の基地は、総敷地面積約590万m2という陸自最大の敷地面積を誇り、千歳空港の敷地面積 726万m2に迫る規模の駐屯地です!です。

開設は大東亜戦争中!

民間地を寄付された大日本帝国海軍が、1942年(昭和17年)に第2千歳飛行場滑走路(800m)として整備したことに始まります!その後1300mに延伸された滑走路の東隣、太平洋戦争真っただ中の1944年に1200mの第3千歳飛行場滑走路が完成しました!

勿論両滑走路共に非舗装の"ダートトラック"です!

完成したといっても、建設資材が極端に不足していた大東亜戦争末期のことです!

整備工場と駐機場以外だけはコンクリート舗装されていても、滑走路そのものは"ダート"です!

当時千歳飛行場(中央の十時の部分)ですら1200mしかなかった当時、終戦の1945年に第2滑走路(連山滑走路)の2500m延長が完成しました!がそれは皮肉にも8月15日でした。

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第1節 千歳飛行場(大日本帝国海軍航空隊基地)の変遷

1953年まで現在の千歳飛行場(空自基地)は下図のような形でした。

第日本国海軍千歳海軍航空隊の生い立ち

千歳海軍航空隊は1939年に木更津飛行場!で組織された大湊要港部に属した千歳空として誕生した航空隊が、

千歳海軍航空隊(ちとせかいぐんこうくうたい)および1942年(昭和17年)11月1日に改称された第七〇三海軍航空隊は、...大東亜戦争に戦闘機部隊、攻撃機部隊として従事した。

1941年(昭和16年)1月15日、四連空は第十一航空艦隊第二十四航空戦隊に改称...サイパン・パラオ・マーシャルで訓練後、秋に木更津へ帰還。ただし戦闘機隊は独ソ開戦直後に千歳へ帰還。

その後千歳空は七〇三空に改組されて

1942年(昭和17年)11月1日、「第七〇三海軍航空隊」に改称。...

千歳飛行場には隣接して第41空廠も建設されており、千島列島方面の哨戒任務に従事した各種航空隊にとって重要な補給基地として、また疎開してきた教育航空隊の訓練場として終戦まで活用された

第1項 陸自・東千歳駐屯地の生い立ち

千歳第2空港滑走路、第3空港滑走路は、敗戦後に進駐軍(米軍)が千歳空港と共に接収して、千歳飛行場の緊急時予備用として運用を始めました。

千歳飛行場は

●1939年11月5日 - 千歳海軍航空隊が開庁。1200m×80mの直角に交差した滑走路を有し、着陸場は大日本帝国海軍の飛行場となる。

1944,10,30撮影大東亜戦争中の日本海軍航空隊基地の様子

1948/04/22(昭23) 撮影米軍の航空写真

●1953年(昭和28年)10月 - 西側滑走路の改良を完了、2700m×45mとなる。

戦後進駐軍によって回収された姿1953,5,6札駅米軍撮影航空写真

現在の姿(千歳基地)になったのが1962,6,13で航空写真で伺えます。

戦後は米軍が進駐し、1951年(昭和26年)からは(千歳飛行場には)日本航空東京線の乗り入れが開始された。1957年(昭和32年)より米軍から航空自衛隊に所有権が移り、1988年(昭和63年)に新千歳空港が開業するまで、北海道の空の玄関口として、また、対ソ最前線の警戒基地としての二面性で広く知られていた。《Wikipediaより引用》

前途したアメリカ軍の縮小撤退に伴って第1・第2地区はキャンプ千歳補助施設(FAC 1002)と改称し、施設は次第に第3地区(キャンプ千歳、FAC 1054)へ集約されるようになりました。

第1・第2地区は部隊の撤退に伴う自衛隊への施設移管や一部返還を経てキャンプ千歳補助施設Camp Chitose Annex、FAC 1002)に名称変更し、1976年(昭和51年)に全面返還されましたが、一部のエリアは返還されずに残っています。

千歳空港の滑走路が1300m→2700mとなったのは1953年10月 になってから

ジェット戦闘機対応でその滑走路が1300m→2700mとなったのは1953年10月 の事で、

また、1957年(昭和32年)に千歳飛行場からアメリカ空軍の戦闘部隊が撤退して(三沢飛行場に移駐)変わって翌年には管制業務が航空自衛隊第二航空団設置に返還され、1959年(昭和34年)に飛行場は正式に航空自衛隊へ移管されました。

旧2・第3飛行場周辺は

1951年(昭和26年)にオクラホマ州第45歩兵師団12,000名がアメリカ本土から移駐した際に大量の兵舎が建設され、射撃場や弾薬庫の設置によって付近一帯は演習場として接収区域が拡大し、千歳第2地区(Chitose II)および千歳第3地区(Chitose III)として本格的なキャンプとなった。《Wikipediaより引用》

朝鮮戦争の休戦協定が成立した1953年にアメリカ陸軍の戦闘部隊は本土への帰還を開始して、1956年(昭和31年)までに撤退が完了しました。

1954年にそれまで警察予備隊だった陸上自衛隊が発足して東千歳駐屯地が新設されると同時に、

小月駐屯地、北千歳駐屯地、浜松駐屯地、北千歳駐屯地、館駐屯地から東千歳駐屯地へ連帯が移駐して集結してました、前途したように千歳空港滑走路の整備が進んだので、この時点で、ダート滑走路のままだっ第2千歳飛行場(連山飛行場)第3飛行場は使用されなくなりました!

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第2節 全国の保存鉄道愛好家が、よだれを垂らして羨ましがる軽便鉄道網が!

旧第2・3飛行場は、旧日本海軍の軍用飛行場の特徴がよく表れています!

艦上戦闘機・艦上爆撃機・雷撃機などからなる艦載航空隊のほか、戦闘機・大型陸上攻撃機などからなる陸上航空隊も充実していた。《Wikipediaより引用》

つまり、飛行場内に分散された、弾薬庫と軽便鉄道網!です

建設が行われた大東亜戦争中は、土木建設機材が珍奇(※41)で、米軍のように、大型ブルドーザーなどあるはずも無く、資材も困窮していたので、整備棟以外はほとんどが無舗装の状態でした。(つまり雨が降ると使えない!)

参※41)当サイト内関連記事 舗装技術の革新が はこちら。

道路建設技術革新から取り残されていた北海道では、1960年代中期でも殖民軌道が建設されていたように、駐機場以外の部分の舗装など、到底不可能に近い状況でした。

そこで、地図をご覧の通り飛行場内には、"軽便鉄道網"が張り巡らされていたわけです!

この鉄道は、"弾薬"を戦闘機・大型陸上攻撃機に運ぶために、敷設されたものです。

但し、後述するように「極端な機材不足で飛行場そのものが機能できなかった」上に、実際には殆どの部分が敷設もされずに、更に戦後摂取した進駐軍が、徹底的な機械化で主要移送路を再整備(舗装)したので、その時点で軌道は撤去されてしまい、実際には使用されなかった可能性もあります!

ピストルマークで一部のみ示しましたが、これが軍用飛行場の特徴の弾薬庫で、万が一の際に延焼を防ぐために、飛行場内に分散して設置されています。

お手軽に爆撃機(駐機場)迄運ぶ施設として、"軽便鉄道"が大活躍していた(する予定だった?)わけです、皮肉にも、現在は、陸自の実弾演習目標として再利用?されています!

飛行場の構造にも特徴が

一部の軍用飛行場には、敵の攻撃から航空機を護るために、掩体壕(英語版)や強化航空機用シェルター(英語版)、さらには、地下格納庫(英語版)などが設けられている。軍用機は、航空機用の武器弾薬等(英語版)の保管施設が必要になる。軍用飛行場には、防空のための対空兵器や部隊防護のための部隊が配置されることもある。《Wikipediaより引用》

地図をご覧いただければお分かりのように、主滑走路に並行した誘導路!が見当たりません!

これは、当時は、滑走路に沿った部分に駐機場と整備棟を作り、滑走路そのものを誘導路に使用していたからです。

特に第3滑走路は、端部に駐機場を設ける方式ですぐに飛び立てるようになっていました。

多分、当時としては立派なの2500mの連山滑走路は、重爆撃機に燃料を満載して対ソ戦(中国大陸往復飛行)を念頭に置いて計画されたのでしょう、勿論延長1200mの第3千歳飛行場滑走路も燃料を満載した護衛機が飛び立てるように配慮したものだったのでしょうが...

前途の通り完成が遅すぎ、かつ機材が極端に付属していたのでどちらも役には立てませんでした!が...

図らずも1950年に勃発した朝鮮動乱が

滑走路は、敗戦後に進駐軍が接収して整備した様で、1950年6月25日に勃発した、朝鮮戦争では兵員輸送B29の出撃基地として活躍できたようです。

その後は前途した通り、千歳空港に集約されて、陸自の基地となってからは演習場として使われ、滑走路としては使用されなくなったようです。

そして、燃料引き込み以外の弾薬搬送用の軽便路線網は撤去されて行き、現在では燃料引き込み線も廃線となりました。

千歳空港については、引き込み線(専用線)のみの記載で弾薬庫は記載しませんでしたが同様の分散配置となっていました。

1960年代の航空写真にも、(連山滑走路)同様に、滑走路周辺(現新千歳空港滑走路部分)に軽便致道跡が写っていて、弾薬庫が配置されているので、同じように軽便軌道が各倉庫を繋いでいたと推察できます!

旧旅客ターミナルビルが開業した1963年4月1日以降に取られた航空写真では、すでに軌道は撤去されていて、1970年代の旧旅客ターミナル完成以前に、弾薬庫そのものも撤去されたみたいです。(滑走路西側に移設)

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エピローグ 空自の移転で連山飛行場!の復活を  

第1項 第2滑走路は完全になくなってはいない! 

Googlarthをご覧になれば一目瞭然、第2・第3滑走路共に復元!再利用可能です!

日本国政府に返還されたが民間には...

590ヘクタールもの広大な敷地は、前途したように、もともとの第2千歳空港滑走路(2700m)第3滑走路1200mの用地以外に、敗戦後進駐軍が民間(牧草地?)からも用地を摂取して拡張したものですが...

日本国政府に返還された後も"国有地"のまま民間には返還されていません!

つまり、陸自の演習場(遊び場?)だけに使用するのはまことに「モッタイナイお話」となります!

第2項 現在頻発している新千歳空港御侵入の問題解消にも

現在千歳空では新空港(民間機専用)と千歳空港(空自専用基地)との御侵入の問題が大きくなっています。

空自を連山飛行場に移転して、陸自と基地を統合すれば、この問題はなくなるでしょう!

滑走路・誘導路、格納庫・整備工場などを再整備する際に、米軍と共用している無線等塔も移設すれば問題はありません!

軍事基地は駅から離れていても問題ない

現状ジェット燃料輸送は(テロ対策上)「秘密ルートのパイプライン」で輸送されていて貨物線・タンク車による搬送の必要はなくなっています!

嘗ては千歳飛行場(現千歳基地)、第2滑走路(連山飛行場)共に図中に占める燃料輸送専用線で、航空機燃料(ガソリン)が運ばれていましたが、現在は両線共に廃止されて、千歳空港への燃料(ジェット燃料)ゆいそうはパイプライン化されています!

第3項 移転が必要な訳は...  

国有地の有効利用にも

590ヘクタールもの広大な国有地を、陸自の演習場だけに使うのはいくら北海道と言えども「もったいな」すぎます!

第1目 離発着の安全性確保

新千歳空港、空自千歳基地の御侵入防止のためにも

第2滑走路側を再整備し直して、第3滑走路側の広大な敷地を演習場に使用すればよいのではないでしょうか?

千歳飛行場側には、滑走路は平行に2,700mと3,000mの2本がある。後者は900mの過走帯があり、実質4,000m級である。新千歳と併せて4本の滑走路があり、これらはほぼ並行している。2本ずつ同じ方向に隣接した滑走路は、パイロットからも混同される場合がある。大事には至っていないものの、空港北側からアプローチする場合を中心に、千歳飛行場との滑走路の誤認が、2006年までの3年間に11件発生しており、その対策が課題となっている。《Wikipediaより引用》

つまり、民間機専用の"国際空港"と軍用空港は離すべきです!

現状千歳基地・新千歳空港の管制業務は自衛隊で一元化されています、、両空港合わせて2本づつ滑走路があり合計4滑走路が運用されているわけですが、実質空路の重複部分があり!国防上

大切なスクランブル発進にも支障が...

第3目 千歳基地の立地は危険

千歳市の都市化(宅地化)がすすみ、千歳基地の飛行経路には民家が増えました!

現状のままだと、予備燃料タンク落下事故などの航空機災害も懸念されるようになってきました!

連山飛行場ならば、近くに民家が無いので、軍用機による事故防止にもなります!

さらにt連山滑走路西側に新第4滑走路を新設すれば、大型輸送機の離発着も可能になります!

第2目 24時間国際ハブ空港として

現状、コロナ過で大減便されている空輸業界ですが...『悪いこともそう長続きしません?』

航空需要が回復(コロナ終息後早くても5年はかかるといわれている)すれば、"北海道国際空港"はアジアのハブ空港として、旅客・物流の拠点空港になれる可能性があります!

現状旅客はは、point to pointの時代となり、世界の都市間を直移設結ぶ時代となり、ジャンボ機やエアバス380が大活躍する時代では無くなりましたが...

コロナ過の現状でも衰えを見せない航空貨物が航空業界を下支えしている状況です。

ICTが今以上に進めば進むほど、ますます航空貨物尾の重要性が増すことでしょう!

滑走路4本を以上を備えた24時間空港はまだアジアでも少なく、北海道国際空港が、世界に打って出れる良いチャンスです!

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《北海道開拓史とtraffic networkの変遷》関連記事集のご案内 

※以下の♥タイトルをクリックするとシリーズ記事全てにジャンプ!できます。

後書き《 交通政策とは》シリーズについて

※ここをクリックするとこのページの"目次 Topに戻れます!  

鉄道黎明期において日本各地で幹線鉄道を敷設していったのは、民間資本による"民鉄"でした。

幹線の多くはその後お国に買収されて、官営鉄道になり国鉄を経て現在のJR各社となりました。

現在の大手私鉄の殆どはこの時運よく買収を逃れたましたが、第2次大戦中の戦時統合で合併を余儀なくされて、敗戦後に再度独立して現在に至っています。

1964年の東海道新幹線開業を経て1986年12月4日に諸外国に倣って、鉄道事業法が制定されて、軌道事業以外は第一種、第二種、第三種の鉄道事業に統合されて、翌年に国鉄分割民営化によってJR各社が誕生して現在に至るわけです。

JR3島は国営企業!?

しかし分割民営化?と言ってもJR3島(JR北海道、JR四国、JR貨物)は株式会社の形態はとっていますが...

独立行政法人JRTTが100%株式を所有する"国営企業!"であり、"親方日の丸"体質は」変わっていません!!

更に、成り行き任せで適当に決めた?JR各社のbusiness district(営業範囲)が今になって多くの問題を生んでもいます...

2001年に中央省庁再編が実施されて鉄道事業を都市仕切ってきた運輸省と道路行政を取り仕切ってきた建設省が統合されて、国土交通省が誕生しましたが...

合体しただけで、旧省庁の「真の統合」根本的な重複部署再編成には至っていないのが現状で、旧体制下の派閥同士の内部対立?が国土計画全体の一本化を阻んでいることは事実です。

鉄道局に関しては、JR各社再度の"big bang"でreconstructionを押し進めないと、先に上げたJR3島の赤字問題は解決できない!でしょう。

JRグループの再度の Reconstruction と道路整備・港湾整備・ 空港整備を統合的に推し進める必要が...

国鉄分割民営化の際に"適当"に決めた、各社間の営業エリア(境界駅)も整備新幹線ルート!などいろいろな問題を引き起こしています。

22世紀の将来に向かい鉄道事業のreconstruction(統廃合)、道路整備、港湾整備、空港整備すべてに渡る交通政策を統合的に推し進める必要があります。

更には、地方の期待を背負う観光行政も、国交省配下の観光庁と環境省管轄の国立公園の2重行政では...

縦割り行政の弊害をなくすためには

広範囲にわたる省庁統合と、責任のなすりつけ合い!になりがちな縦割りに依存しない、新たなる行政(体制)の構築が望まれているわけです。

狸穴総研 公共交通網調査室 出自多留狸

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※脚注 ♥関連団体 問い合わせ先 リンク集

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関連団体リンクテーブル 

 

公開:2021年8月11日
更新:2022年6月19日

投稿者:デジタヌ

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