『タヌキがゆく』狸穴ジャーナル

常滑市《 タウンヒストリア 》

常滑市のあらまし


推計人口、57,456人/2017年10月1日。

常滑ー金山(名古屋市)28分/600円/31.5km/名鉄

常滑ー(名古屋)ー品川 2時間52分/12110円/名鉄・新幹線

人口は1975年の5万5000人をピークに1975年以降町の主要産業であったINAXの工場縮小にともなう転出者増加で減少を続け5万人まで落ち込んだが、2005年の中部国際空港(セントレア)の開港にともない、減少傾向にあった人口が回復傾向に転じ「新興住宅地の開発」による転入者の増加も手伝い2010年に54,858人と1975年以来の記録を更新し現在2017年10月現在5万7千人の大台に乗りなおも増加を続けている。

年齢別人口比率で見て10代から20代前半の青少年が全国平均を上回り、20代後半から60歳迄の働き盛りが少なく60代後半からの高齢者(リタイア組)が多いかつて繁栄した商工都市の傾向を示している。

前途の「セントレア効果」で転出者は減少しており、残留組の青年層と新たな転入者が人口増を支えている格好に成っている。

常滑市のこれまでの歩み

現市域を含む知多半島中部では粘土を豊富に産出するため古くから陶器が生産された。

平安時代後期頃から中世にかけて常滑とその周辺で生産され始めた「古常滑」と呼ばれる焼き物は太平洋に沿って日本全国に広まり、北は青森から南は鹿児島まで、全国の中世遺跡において出土する程隆盛を極めた。

戦国時代には、知多郡緒川(現東浦町)の領主水野氏の一族が現市域中心部に常滑城を築き、大野城の佐治氏と伊勢湾東岸の水運を二分していた。

本能寺の変直後に常滑水野氏は明智光秀に味方したことから没落し、佐治氏も四代一成の時に小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と敵対し大野城を追われた。

安土桃山時代から江戸時代前期にかけて瀬戸焼などに押され衰退した。

江戸時代は尾張藩領に成っていた。

常滑の村村は平地(耕地)が少なく廻船、酒造、木綿生産などの商工業に頼る町衆性格が強く、常滑焼も江戸時代後期になってかつて広く分散していた焼き物の生産地が現市域中心部にあたる常滑村に集中するようになり、焼き物の煙突が立ち並ぶ現市街地の原型が形作られた。

明治時代に土管、タイルなども生産されるようになり、近代的な窯業の町に発展した。

1924年創立の地元の現LIXIL旧伊奈製陶は便器など衛生陶器の分野において全国第2位のシェアをほこり、タイルにおいては国内のみならず世界的にもトップとなる大企業に成長した。

1953年7月20日 常滑競艇場開設。

1954年に常滑町、鬼崎町、西浦町、大野町と三和村の4町1村が合併して常滑市が誕生。

1975年町の主要産業である旧伊奈製陶が大幅な工場縮小を行い大打撃を受ける。

2001年(平成13年): 空港島埋立工事に着工。

2005年の中部国際空港(セントレア)の開港で復興に転ずる。

 

公開:2016年11月 4日
更新:2019年9月 5日

投稿者:デジタヌ

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