琴平町《 タウンレビュー 》
四国こんぴら歌舞伎大芝居が行われるこれ迄の歩み
琴平町と香川県のこれ迄の歩み
香川県
香川県は、日本の全47都道府県で最も面積が狭い県。
大化の改新以来の旧令政国・讃岐国に相当する.県。
推計人口、962,054人/2018年4月1日
琴平町
琴平町のある仲多度郡は明治になって統合された、旧令政国讃岐国の那珂郡、多度郡にあたり、琴平町は那珂郡(丸亀藩及び代官支配地;幕府領(倉敷代官所支配)、高松藩飛び地、)に属して金刀比羅村は金比羅神社の寺社領 であった。
戦国時代は荒廃していたが令政国讃岐国誕生以来全国にある海上交通の守り金刀比羅神社、金比羅神社の総本宮である金刀比羅宮の門前町として栄えた。
推計人口、8,772人/2018年4月1日。
琴平ー(坂出)ー高松 54分/¥1,370-/JR予讃線普通・快速乗り換え/44km
琴電琴平ー高松築港 60分/¥620-/高松琴平電鉄/32.9km
琴平ー(岡山)-品川 4時間23分/¥18,700-/在来線特急-新幹線/790.1km
琴平町のこれまでの主立った出来事
645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.
平安末期には瀬戸内海水運を握っていた平家が屋島を根拠地の一つとしていたが、源義経の奇襲に敗れて滅んだ。
室町時代には細川氏が讃岐に根を張る南朝方を白峰合戦で破ると、讃岐・阿波を中心として細川一族が四国を管轄した。
豊臣政権の四国平定後の天正15年(1587年)、生駒親正が豊臣秀吉から讃岐1国、17万3000石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに生駒親正の子・一正は東軍に加担したため、戦後に所領を安堵された。
江戸幕府の「入組支配」
入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。
徳川時代の讃岐国には、那珂郡など11郡と島部で構成されていた高松藩、丸亀藩、多度津藩の3藩と、徳川幕府の直轄地である天領、津山藩の飛地が分立しおり。
寛永17年(1640年)生駒氏のお家騒動(生駒騒動)により改易され、出羽国矢島藩に転封(国替え)された。
その後讃岐国は一時、隣国・伊予国の3藩、西条藩、大洲藩、今治藩により分割統治された。
寛永18年(1641年)、西讃地域に山崎家治が入り丸亀藩が興った。
寛永19年(1642年)、東讃地域に常陸国下館藩の水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し高松藩が成立した。
高松松平家は水戸徳川家、彦根藩井伊家・会津松平家と共に代々将軍の政治顧問を務める高い家格を有していた。
光圀は自身の子である頼常を高松藩主に据えた。
高松松平家は水戸徳川家、彦根藩井伊家・会津松平家と共に代々将軍の政治顧問を務める高い家格を有していて、光圀が自身の子である頼常を高松藩主に据えた藩。
歴代藩主の松平氏は高松城下に水道を引き、灌漑用に溜池を造るなど、水利を整備し、塩田開発を奨励し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発した。また平賀源内を起用し、城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園を作らせたり、向山周慶に製糖技術を学ばせ白糖の製造を可能にし現在も香川県の名産品の一つとなっている「讃岐和三盆糖」の製造技術を確立させるなど旧高松藩(現高松市域)の発展に寄与した...。
が一方で、讃岐国内各地の地域格差も生じさせた。
廃藩置県と明治新政府の行政改革
江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。
教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日)( 旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め讃岐国も幾多の行政変遷にさらされた。
1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の廃藩置県により、高松藩は高松県、丸亀藩は丸亀県、多度津藩と天領は倉敷県、津山藩の飛地はそのまま津山県となった。
1872年(明治5年)に小豆島西部を編入した。、
1873年倉敷県の管轄地(島部)が丸亀県へと移された後に、同年に高松県と丸亀県が合併され。
1873年2月19日初代香川県設置され翌日には名東県(後の徳島県)に編入。
1875年9月5日 2代目香川県(1875年9月5日〜1876年8月20日)として分離。
1876年8月21日 愛媛県に編入された。
度重なる編入の度に、地理的要因や地域文化や住民意識などで食い違いが発生し、香川県として単独の県の設置を望む声が高まった。
1888年12月3日に3代目現香川県が復活。
香川県の分離独立を最後に沖縄県以外には新しい県の設置はなく、現在の47都道府県体制がほぼ確定したことになる。
1873年(明治6年)11月27日 - 諸官省布達により那珂郡金毘羅村を琴平村と改称。
1889年(明治22年)5月23日 讃岐鉄道(旧国鉄・JR)丸亀 - 多度津 - 琴平間開業
1890年(明治23年)2月15日 - 町村制施行琴平村が町制をしき琴平町(初代)となる。榎井村(旧幕府領 ;満濃池御料)が発足。
1897年(明治30年)2月21日 讃岐鉄道高松 - 丸亀間開業で高松-金刀比羅間開通
1903年3月18日山陽汽船商社(山陽鉄道子会社)が岡山港-高松港間&多度津-尾道間に連絡船を就航。
1910年6月12日 宇野線開業と同時に宇高連絡船が開業(岡山-高松。多度津-尾道連絡船は廃止)
1922年(大正11年)10月22日 琴平参宮電鉄株式会社丸亀通町 - 善通寺(後の善通寺赤門前)間(軌道線)開通
1923年(大正12年)8月4日 琴平参宮電鉄善通寺 - 琴平(後の琴参琴平)間(軌道線)開通。
1927年(昭和2年)3月15日 - 琴平電鉄(現高松琴平電気鉄道)滝宮 - 琴平(現・琴電琴平)間が開業により、先に開通していた栗林公園 - 滝宮間と繋がる。
同年4月22日 - 高松(現在の瓦町) - 栗林公園間が開業にともない高松-琴平間全通。
1930年4月7日 琴平急行電鉄坂出 - 電鉄琴平(後の琴急琴平)間を開業(1944年1月休止)
1955年(昭和30年)4月1日 - 琴平町(初代)、榎井村と合併し、2代目琴平町となる。
1956年(昭和31年)3月31日 - 満濃町五條地区(西地区の一部)を編入。
1957年(昭和32年)10月10日 - 満濃町五條地区(東地区の一部)を編入。
1958年(昭和33年)4月1日 - 象郷村(上櫛梨村郷;旧丸亀藩領)を編入(下櫛梨郷の一部は善通寺市へ)
1987年(昭和62年) - JR予讃線高松駅 - 観音寺駅間で全線電化完成。
1988年(昭和63年) - 瀬戸中央自動車道が開通。JR本四備讃線(愛称 瀬戸大橋線)が開業する。
1989年(平成元年) - 高松空港が開港する。(大型ジェット機対応)
2003年(平成15年) - 高松自動車道が全線開通する。(高松中央IC-高松西IC開通による)
公開:2016年11月 7日
更新:2018年11月24日
投稿者:デジタヌ
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