狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

第20話 大阪高速鉄道解散と近鉄難波線再申請《連載小説》在る鉄道マンの半生 69年間待ち続けた男

ー 阪神・近鉄友情物語 ー 第20話

翌週、役員会に再提出した特許申請案も否決されて、

『遅くとも10月20日までには、最終案をまとめろ』
と社長直々に激をとばされた。


新婚だというのに、翌週からは家に帰れないことが多くなった。
何時(いつ)しか宿直室が、徹路と鉄朗の憩いの場となった。

寝食を共にするとはこの事である。

この時、鉄朗は元々野球選手に成りたかったことや、子供の頃から憧れていた大阪タイガースの親会社である、阪神電車に入社したいきさつなどを、徹路に語ってくれた。

期限の10月20日水曜日徹路と鉄朗が精魂込めて完成した特許申請書類が完成し、役員会に提出された。

今度は、満場一致で可決された。


そして11月8日月曜日、鉄道省に提出された。

いみじくも日本国憲法が公布されてから5日後のことであった。


徹路と鉄朗には絶対の自信があった


後は、佐治社長が建設資金の工面をするだけの筈であった。

一仕事を終えた徹路と鉄朗は出向を解かれそれぞれの古巣に戻っていった。


ところが特許申請を知った大阪市が、"市営モンロー主義"(※1)を翳して猛反発した。

翌年1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行された

その年の6月1日、戦時統合で近鉄の一員であった、旧南海鉄道が新生南海電気鉄道として分離再出発を遂げた。


そして8月には長女由有紀(ゆうき)が誕生した。

10月には中川駅での乗り継ぎではあるが、名阪間特急が運行を開始した。


この年大阪タイガースが、戦後初めて通算4度目のリーグ優勝を果たした。
タイガースの優勝は、終戦後間もない大阪の町にとっても希望を持たせる明るい話題であった。


タイガースに憧れて阪神に入社した西宮鉄朗にとっては、入社後初めての優勝でもあった。
優勝のニュースを知った翌日、徹路は鉄朗にお祝いの電話を入れた。

『鉄朗さん、優勝おめでとう』
『有り難う、徹路さん...』
野球のことを何も知らなかった徹路に、野球について熱く語り、甲子園に引っ張り出したのも鉄朗だった。
『イヤ、ほんとにおめでとう。これで、大阪高速鉄道の特許も降りると良いのにね。』
『タイガースが希望をあたえてくれたんだ、僕たちの大阪高速鉄道にもきっと特許がおりるよ』
『そうだね、きっとそうなるよね。』
『きっと...、電話有り難う徹路さん、又合いましょう』
『それじゃまた』

その後待てど暮らせど鉄道省からは何のお沙汰もない

計画変更と近鉄難波線の再申請

そうこうしているうちに、翌年1948年(昭和23年)になって、大阪市が、大阪高速鉄道(※2)と同じルートで地下鉄5号線(・千日前線)の計画を立て市議会に計っていることが判明した。

そこで急遽阪神と協議し近鉄が独自で上本町から難波まで難波線を建設し、阪神は伝法線を西九条経由で難波まで延伸する計画に変更、早急に特許申請をやり直すことになった。

またしても、徹路の出番である。

係長になっていた徹路は3人程の部下を付けて貰い、万全の構えで延伸計画と特許申請書類を準備した。

唯一、佐治社長から、注文が出たのは、

『いいか阪神は必ず来る、難波駅で我々と手を繋ぐ、だから行き止まりの終着駅にしては成らん、阪神側につなげられるよう途中駅構造で計画しろ』
と言う条件だった。


今度は、3ヶ月で計画書が完成

役員会も通過したが、阪神電車内の意見がまとまらず、申請が遅れた。

その間徹路は4月から名古屋線の播磨川分岐ー揖斐川分岐間の複線化工事の指揮を任され、現場所長として赴任した。
現場の所長に就任してからも、鉄朗と連絡を取り合い両社の打ち合わせ会議には帰阪し必ず出席していた。

任されていた複線化工事は7月21日に完成した。

久しぶりに我が子の顔を見に若江岩田の社宅に帰った。

チョット見ない間に長女は見違えるように大きくなっていた。


8月初め両社による最後の打ち合わせが行われ、両社供にそろって役員会に承認申請のため提出された、そして9月1日にそろって特許申請しこの日をもって、大阪高速鉄道も解散することとなった。

提出が終わった翌日、大阪市が千日前線の軌道特許を申請した。

それから長い苦難の道のり(※2)が始まることとなった。

<続く>

※<本稿は01/04/2008 に旧サイトで初稿公開した小説のお引っ越し掲載です>

令和元年補筆覧 ;以下はフィクションではなく史実に基いた「ノンフィクション・ファンタジー」です!

※参1、当サイト内関連記事 《歴史ファンタジー》大阪三郷・旧四大区に端を発する「市営モンロー主義者」達の陰謀とは? はこちら。

※参2 初代・大阪高速鉄道は1946年に近鉄・阪神の共同出資で設立され、同年年11月に、野田駅から難波を経て近鉄の鶴橋駅を結ぶ路線を特許申請した。しかし大阪市が1948年9月に同区間の地下鉄5号線(現千日前線)を申請した、近鉄・阪神連合は、初代・大阪高速鉄道を解散して、軌道特許申請を取り下げ、代わりに近鉄は、鶴橋⇔難波間、阪神は当時未着工で有った旧伝法線西九条延伸計画(千鳥橋⇔西九条)を難波駅まで延伸する案に、近鉄は鶴橋⇔難波間の新線計画に変更し1948年9月に再度特許申請を行った。大阪市・近鉄阪神連合の同時申請で、両者ともに一歩も引かなかったので、政府の仲裁で都市交通審議会が設けられ、1956年(昭和31年)から1958年(昭和33年)にかけての市側と近鉄・阪神側との話し合いと政府による強い要請もあって、1957年6月に大阪市側が譲歩し1958年に近鉄が1959年(昭和34年)阪神と大阪市に軌道法による特許が下された。

その後阪神西大阪線(現阪神なんば線)は、1964年(昭和39年)5月21日に千鳥橋⇔西九条間が開通して1967年8月からは西九条 ⇔ 近鉄難波間の用地買収に取り掛かったが地元商店街(と地元市議)から猛烈な反対運動が起こり、2001年の第3種鉄道事業者「西大高速鉄道の設立まで、計画が中断され、2003年10月7日にやっと着工にこぎつけ実に36年間もの長きにわたり「車庫待機?」となってしまった。

この間に物価は高騰して2009年3月の開通時点では西九条⇔難波間3.8㎞の建設に890億円(公式発表値)約234億円/kmという途方もない建設費がかかってしまった! 

一方近鉄難波線は戦前の1922年~1933年にかかけて単独で上本町(鶴橋)難波間の軌道特許申請を2度にわたり行っているが、何れも「市営モンロー主義」を盾にした大阪市の猛烈な反対にあい実現はしなかったが後述するように1970年大阪万博開催日に上本町地下駅⇔難波間2㎞が開通した。

 

公開:2008年1月 4日
更新:2022年9月 5日

投稿者:デジタヌ

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