狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

河内長野市《 タウンヒストリア 》

ラブリーホールのある河内長野市とこれ迄の歩み

大阪府

推計人口、8,819,416人/2018年4月1日

旧・摂津国の一部・河内国・和泉国からなる府。

かつては、都道府県で東京都に次ぐ第2の人口だったが、2006年5月1日に神奈川県が大阪府の人口を上回ったため、現在の人口は第3位である。

河内長野市

河内長野市、は中核都市に指定されており大阪難波駅から27.1km速達列車(急行)で27分と大阪にしては都心部から遠いベッドタウンではあるにが、近接している和歌山県橋本市の林間田園都市駅から15分(330円/約12キロ)の好立地を活かし、峠を越えた、南海高野線沿線の中心都市となっている。

推計人口、103,950人/2018年4月1日

河内長野ー南海難波 28分/¥550/南海高野線/27.1km

河内長野ー(難波)ー(新大阪)ー品川 3時間39分/¥15,280- /南海-大阪メトロ-新幹線

河内長野市が属していた令制国(律令国)河内国の歩み

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.。

河内国

概ね淀川(大川本流)以南と寝屋川流域と大和川付け替え(1704年(宝永元年)10月完成)までの旧大和川(現長瀬川、分流玉串川、恩地川)寝屋川と下除川以東の河内大地から流れる上除川(現平野川)、和泉山脈から流れる大和川支流石川の各流流域のエリア。

中央部に大阪府の東部「河内湾・河内湖」を起源とする堆積平野・湿地帯がほとんどを占め律令国が制定された頃も草津江(くさつえ)と呼ばれた湿地帯が広がっていた。(江戸時代を通じて大和川付け替えまで深野池/大東市、新開池/東大阪市鴻池新田周辺が残っていた。)

近年昭和迄で「河内レンコン」の産地として蓮畑が、また寝屋川流域に運河(排水路)を張り巡らせた「水郷・水田」が広がっていた低湿地帯が占めていた。

和泉山脈に源を発する石川(大和川支流)流域の扇状地が南端にあり、有名な楠木正成の千早赤坂城があった千早赤坂村もこの地域。

古来より奈良の大和朝廷の玄関口・交通の要所として南部の河内台地、上町台地からつながる泉北台地が栄え、古市・百舌鳥古墳群もこれら台地上に作られている。

都が京に移ってからは、中部の低湿地が時の豪族たちの勢力争いの場となり、戦火が絶えなかった。

豊臣政権下で、安定したが、徳川幕府下では「入組支配」が徹底され、ために「近隣村間の不公平」も多く生まれのちの大和川付け替え問題にもつながっている。

現河内長野市が属していた錦部郡

河内長野市(と富田林市の一部)と以下の郡部からなっていた。

茨田郡、交野郡、讃良郡、河内郡、高安郡、大県郡、若江郡、渋川郡、志紀郡、安宿部郡、古市郡、石川郡、丹南郡、丹北郡、八上郡

704年(大宝4年) 国印鋳造時、河内の名が確定したとされている。

一時769年に西京と称し由義宮(八尾市)が建設され、一旦河内国が廃止され、「河内職」が設置されたが、翌年元に戻された。)

827年(天長4年) - 真紹が観心寺伽藍を整備する。
鎌倉時代末期、南河内の豪族の楠木正成とその一族が、後醍醐天皇に呼応して幕府打倒の兵を挙げ、下赤坂城・上赤坂城・千早城に立て篭って幕府の大軍を苦しめた。

1332年(元弘2年・正慶元年) - 楠木正成が金剛寺からの戦勝祈祷の巻数贈呈に答礼する。河合寺城・石仏城・紀見峠砦・国見城などが築城されたとされる。
1334年(建武元年) - 楠木正成が従五位下に昇叙し、河内・和泉の守護職となる。

南北朝の内乱が始まると、河内は主戦場となることが多くなった。

1349年(正平4年・貞和5年) - 高師直が畠山国清を河内・和泉両守護に推挙する。
1354年(正平9年・文和3年) - 北朝三上皇らが金剛寺に遷り、観蔵院を御座所とする。

1360年(正平15年・延文5年) - 畠山国清軍が金剛寺に襲来する。
1382年(弘和2年・永徳2年) - 畠山基国が楠木正儀討伐のため河内に進撃する。また、河内守護に補任される

応仁の乱

室町時代、河内守護は三管領の1つ畠山氏が世襲していたが跡目を巡って畠山政長とその息子・義就が争いを続け、これをきっかけに足利将軍家や守護の家督相続問題も絡んで、応仁の乱が勃発した。

応仁の乱終息後も、両畠山氏の戦いは継続し、河内は戦国時代に突入した。

織田信長が上洛すると、河内の北半国を三好義継、南半国を畠山昭高(信長の妹婿)に安堵するがまもなく三好3人衆は没落した。

1582年6月21日(天正10年6月2日)本能寺の変の後、羽柴秀吉が河内を領国としておさえる。

1583年(天正11年) - 豊臣秀吉が天野山を検地。

1594年(文禄3年) - 当市域で検地がされる。豊臣秀吉により観心寺に25石、金剛寺に307石の寺領を寄進する。

秀吉の没(慶長3年(1598年)8月18日)後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が江戸幕府を開くが、河内は秀吉の子・秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。

江戸幕府の「入組支配」

江戸幕府はかつて7世紀後半に天智天皇によって制定された令制国(律令国)の「団結による反乱」を極度に警戒し、幕府安康の最善策として「令制国の解体政策」を推し進めた、それが「入組支配」と呼ばれる政策で、地方の大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い「地方の統一・団結」を阻もうとした。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

江戸時代、河内国には、丹南郡の狭山藩、丹南藩の2藩のみが存在し、河内国のほとんどが代官支配地で当錦部郡でも天領、旗本領、諸藩の飛び地などが入り組んでいた。

丹南郡 (51村)丹南藩・佐山藩及び代官支配; 幕府領、旗本領、上野館林藩、相模小田原藩
錦部郡(49村) 代官支配地;幕府領、旗本領、狭山藩の飛び地、伊勢神戸藩の飛び地、近江膳所藩の飛び地。

1648年(慶安元年) - 寺ヶ池の拡張・修築工事を開始する。

大和川の付け替え工事(1704年(宝永元年)10月完成)

大和川の付け替え後に新田開発された旧大和川・川床跡地は、砂地で木綿栽培に適しており、商品作物としての木綿の栽培や、農村工業としての紡績(河内木綿)が盛んになり、東大阪市、八尾市、柏原市は全国でも有数の裕福な農村地帯となった。

しかし「大和川付け替え」には今に至っても賛否両論があり、必ずしも最善策であったとは言われていない。

農地を奪われた農民たちや、渇水に苦しむこととなる旧下除川沿いの農民たちが新田(現八尾市・現柏原市・現東大阪市)に「流民・水のみ百姓」として移住し大地主の小作の農奴・使用人に貶められたり、身売り・一家離散・餓死などの多くの被害者も発生しており、このことが今に至る明治以降に新設された、中河内郡(河内郡、高安郡、大県郡、若江郡、渋川郡、志紀郡の一部を統合)と南河内郡(安宿部郡、古市郡、石川郡、錦部郡、丹南郡、八上郡を明治期に統合)の不協和音の火種の一つともなっている。

1711年(正徳元年) - 西代藩本多忠統が西代村に移り住み、藩陣屋を構築する。
1732年(享保17年) - 西代藩本多氏が伊勢神戸に転封。
1854年(嘉永7年) - 天保山沖にロシア船が進入。滝畑村など狭山藩領の農兵が出兵。
1863年(文久3年) - 天誅組の変。長野村の東条昇之助(米屋吉兵衛)、内田耕平と八兵衛(武林八郎)、向野村の秦勝蔵(北辻良蔵)が天誅組に参加。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日)( 旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め大阪府(旧河内国)も幾多の行政変遷にさらされた。

1868年(慶応4年旧暦1月22日)大坂鎮台設置。

同年(旧暦1月27日)大坂鎮台を大坂裁判所と改称。

同年旧暦5月2日 大阪府設置。

1868年6月21日(旧暦5月2日) - 大坂裁判所司農局の大阪府司農局の管轄地域がとなる。
1868年7月27日(旧暦6月8日) - 大阪府司農局が南北司農局に分かれ大阪府南司農局の管轄となる。

1868年(明治元年) 堺県が設置され、当市域も含まれる。
1870年(明治3年) - 当市域の一部が新設置の五條県に編入される。
1872年(明治5年) - 五條県に編入された地域が堺県に編入される。
1881年(明治14年) - 堺県が廃止され、大阪府に合併し、市域は大阪府に属するようになる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、現市域に錦部郡長野村他7村が発足。
1896年(明治29年)4月1日 - 郡の統合により、南河内郡の所属となる.
1898年(明治31年)4月2日 - 高野鉄道により大小路駅(現在の堺東駅)~長野駅(現在の河内長野駅)間が開業される。
1902年(明治35年)12月 - 河南鉄道により柏原駅~長野駅(現在の河内長野駅)間が開業される。
1908年(明治41年) - 高野山鉄道と地元有志の出資により長野遊園地(現・長野公園)が開園。
1910年(明治43年)9月1日 - 長野村が町制施行。南河内郡長野町となる。
1914年(大正3年)10月21日 - 高野登山鉄道の長野駅~三日市町駅間延伸とともに三日市町駅が開業される。
1915年(大正4年)3月11日 - 高野登山鉄道の三日市町駅~橋本駅間延伸とともに千早口駅、天見駅が開業される。

1949年(昭和24年) - 爪楊枝生産が復興。全国の爪楊枝の大部分は河内長野市で生産。
1954年(昭和29年)4月1日 - 長野町他5村が合併。市制を施行して、河内長野市となる。

1971年(昭和46年) - 天野山金剛寺の僧坊酒として名高い「天野酒」の銘柄が西條合資会社によって復活される。
1981年(昭和56年) - 滝畑ダムの竣工、貯水を開始する。
1984年(昭和59年) - 南海高野線複線化新線誕生に伴い天見駅付近の旧線路が廃線となる。美加の台駅が新設される。
1989年(平成元年) - 河内長野駅前再開発、ノバティながのがオープン。
1992年(平成4年) - 市立文化会館ラブリーホールがオープン。
2013年(平成25年) - 河内長野駅およびバスターミナル周辺のリニューアル工事が完了する。
2014年(平成26年)5月28日 - 河内長野市制60周年事業の一環として市内のだんじり24台が市役所に集まり祈念曳行を行った

 

公開:2016年11月 4日
更新:2023年4月20日

投稿者:デジタヌ

八尾市《 タウンヒストリア 》発展路線に 転線しそこねた"老人特急!"TOP豊中市《 タウンヒストリア 》


 

 



▲我が故郷大阪レビューへ戻る

 

ページ先頭に戻る