狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

第11話 伊勢若松の名古屋線改良工事現場《連載小説》在る鉄道マンの半生 69年間待ち続けた男

※<本小説は12/18/2007に旧サイトで初稿公開した小説のお引っ越し掲載です。>

ー 阪神・近鉄友情物語 ー 第11話


出張先は伊勢若松の複線化工事の工区だった。


ほぼ5年前の1938年(昭和13年)6月参宮急行電鉄が津ー江戸橋間を開業、続いて同月関西急行電鉄が桑名ー関急名古屋間を完成。

伊勢中川、江戸橋と2回乗り換えが必要ではあったが、曲がりなりにも、上本町ー関急名古屋間は1本の鉄路で繋がっていた。

その後同年12月参急が伊勢中川ー江戸橋間を標準軌から狭軌に改軌、伊勢中川で一度乗り換えるだけで上本町から関急名古屋までの大阪ー名古屋間のルートが完成していた。


1940年(昭和15年)には参急が関西急行電鉄を翌年1941年(昭和16年)には大阪電気軌道が参急を合併し、徹路の入社した関西急行鉄道が発足し、国鉄以外のルートで一枚の切符で上本町から名古屋まで行ける様になっていた。


しかし紆余曲折を経てのルートで、名古屋線とは名ばかりの継ぎ接ぎ路線であった。

途中には不自然なカーブや単線区間も多く、とても東海道線と互角に戦える路線ではなかった。


伊勢若松までは長い道のりである

本社から市電で上六に向かい自社線の急行で伊勢中川までいき、名古屋線に乗り換えて4時間位かけて目的地の伊勢若松の現場事務所に着いたのは、午後3時まえであった。


この時、徹路は初めて青山峠・青山トンネルを体験した。

徹路は、図書館でみたロッキー山脈越えの写真集を思い出し、まだ見た事のない彼の地の有名な峠に思いをはせた。


「日本にもコンナ所があったんだ!」


この時の強烈な印象が、大陸横断鉄道の列車を範とした後の初代ビスタカーのデザイン決定の決め手となった。


現場事務所のバラックでは

所長の阿部係長と副所長の井上主任が到着を待ってくれていた。

井上主任の向かいに席を与えられ、早速工事の進捗状態の説明と、明日からの仕事の分担を決められた。


「一応新人でもあることだし、ある程度の期間は副所長の主任についてのんびりさせてもらえるのかな?」

と思っていたが、早速下請けの一つを預かることになった。


打ち合わせの後、何軒かある下請けの工事事務所全てに案内され、それぞれの会社の現場責任者に紹介された。


4時半時頃から、下請けを交えてその日の報告と翌日の工事予定の打ち合わせ会議があり、6時頃にやっと宿舎である隣の飯場(はんば)に案内された。

ドラム缶の風呂に、土方(労務者)の人たちが代わる代わる浸かっていた。


宿舎は8畳ぐらいのバラック小屋で所長と副所長と徹路3人の相部屋であった。

食事は別棟の食堂で所長、主任それに下請けの建設会社の労務者達と一緒に取った。

食後2人は

『明日の打ち合わせが残っている』

と言って事務所に帰った。


『コンナ所とは思わんかったやろ』

先に飯場に帰ってきた主任が申し訳なさそうに言った。

『イイエ、戦地の野営地に比べれば天国です。』
『そうか、?』
『まあ...、此処なら腹一杯食い物はあるし...』
『ヘエ...戦地は食いもんも無いんか。』
『...』
『所で、君は酒は飲まんのか?』
『ハイ、酒も煙草もたしなみません』
『そうか、酒も、煙草もか...』
『ワイは、これがないと眠られへん。』

そう言って、焼酎の入った一升瓶を持ち出した。

『ほな。しゃあないなー、まあエエわ、...手酌でと...。』

主任は、茶碗酒を2杯ほどあおって床についた。

<続く>

 

公開:2007年12月18日
更新:2022年9月 5日

投稿者:デジタヌ

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