狸穴ジャーナル・別冊『旅するタヌキ』

輸出産業を支えた日本 の高速周回路 跡4選《バンク伝説Navi》

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前書き(要約) 自動車技術大国日本を築いた嘗ての高速周回路たち

伝説のスカイラインGTの生誕の地旧プリンス自動車工業 旧・村山テストコース、

数々の世界記録を誕生させた日本初のFIA国際公認高速周回路旧谷田部試験路、

そして不幸な歴史に包まれた伝説のFuji30°バンク...

語り継がれている日本のバンクの栄光の遺構をGoogle Mapで辿ったレビュー記事です。

《 memories of banks 》§3 の目次

※以下、用語については当サイト関連記事 プルーピンググラウンドの走路用語と解説をご参照願います

旧プリンス自動車工業 旧・村山テストコース

都市伝説"技術の日産"を象徴するスカイラインGT等数々の名車を生み出した、旧プリンス自動車工業(1966年日産自動車と合併)の主力工場であった村山工場に併設されていたプルービンググランド。

一周約4.25kmの高速周回路と、直径100mのスキッドパッド、各種舗装路、波状路などが東京都立川市と武蔵村山市にまたがった広大な工場敷地(1,390,000m2)のおよそ1/3を占めていた。

生い立ち

立川飛行機(株)にルーツをもつ戦後の1947年に創業した旧プリンス自動車工業(現日産自動車)が縁の深い立川エリアにある当時の村山町(一部立川市)に1962年に開設した主力工場の村山工場に併設されたプルービンググランド。

いみじくも後に兄弟?となる日産自動車追浜工場も同じ1962年に完成した。

1962年の工場開設時には高速周回路はまだなく1964年に完成した旧谷田部テストコースなどで、高速耐久テストや記録挑戦が行われていた。

1964年当時は約2.1kmのミニ周回路しかなかった。(国土地理院の1964年5月の航空写真はこちら。)

1964年にSUZUKAで開催された第2回日本グランプリのテストに徹夜で鈴鹿まで実車(初代スカイライン2000GT)を陸送した逸話は有名な話である。

1965年10月の航空写真(国土地理院の航空写真はこちら。)には4.2㎞の周回路がはっきり撮影されているので、プリンス自動車の威信を懸けて建設を続行したようである。

1998年1月 日産自動車村山工場内に日産ドライビングパークオープン。

座間工場(1965年5月完成)が1995年に完成車両生産を終了したのに続き2001年3月 車両生産を終了し同時にテストコースも閉鎖し2004年 - 完全閉鎖となった。

その後「日産ドライビングパーク」は専門学校日産栃木自動車大学校(1981年設立)に引き継がれ 2007年(平成19年)9月 に追浜工場に「GRANDRIVE」として再出発した。

旧・村山テストコースの施設データ

  1. 所在地 東京都武蔵村山市榎1-1(一部立川市に所在)
  2. 所属施設/所有者 村山工場/プリンス自動車工業(現日産自動車)。
  3. 運営団体 村山工場/プリンス自動車工業(現日産自動車)。
  4. 開設 1962年
  5. 設備(規格)
  6. 敷地;延べ面積;約 10Hr
  7. 設備概要 一周約4.25Km 幅員約?mオーバルコース
  8. 直線部 長さ 約?km
  9. コーナー半径 約?m  曲線長約?mX2カ所
  10. 曲線部最大バンク角 約?度
  11. バンク設計速度 ?km/h
  12. 安全帯 幅員約?m/直線部、約?m/曲線部(内・外周2レーン)
  13. 舗装 アスファルト、コンクリート、煉瓦、
  14. 付帯コース スキッドパッド、ダートトラック(未舗装路)、各種舗装路(コンクリート、各種アスファルト、煉瓦舗装路、石畳舗装路、など)

日産・旧追浜工場試験路

2つの異形オーバルの高速周回路を備えていた。

現在残っている南東角の高速バンクはそのときの名残である。

旧南コース(第1周回路)

1962年の開所当時からあった施設、両端に半径の異なった2つのバンクと直線のメインストレッチ、通奥部が大きなRでくびれた逆への字型のバックストレッチをもって誕生した。

ほぼ中央部に大型のスキッドパッドを備え、東側インフィールドにサーキット走行を想定したワインディングロードが設けられていた。

1965年に北側の第2周回路が完成しインフィールドのウィンディングロードは両端にバンクを持つ小規模周回路にレイアウト変更され、同時にバックストレッチ側に短絡路(ピットレーンが設けられた)

※ 国土地理院航空写真アーカイブでご覧いただけます

旧北コース(第2周回路)

1965年第1期工事が完成した時点では、南側(第1周回路側)がホームストレッチ、西端に第1周回路と同規模のバンクコーナー、バックストレッチ側に大きな左カーブの中速コーナーそれに続く(バンク付き)第3コーナー短い直線を挟んでバンク付きの第4コーナーのある高速サーキットを模した逆L字型のコースと内周に独立した(バンク付き)第1コーナーを持つサブコースが設営されていた。

その後両コースともにインフィールド施設の改修を続けながらも日産自動車の開発センターの中心的役割を果たし、ブルーバードを初め数かずの名車を誕生させていった。

1988年頃には、第2周回路のインフィールドサブコースがバンクを持たない通常の周回路となり、メイン周回路はバンクを取り去りラフロードの周回路に変更されている。

旧南コース(旧第1周回路)の施設データ

  1. 所在地  神奈川県横須賀市夏島町
  2. 所属施設/所有者 日産自動車/日産自動車。
  3. 指定管理者/運営団体  日産自動車。
  4. 開設 1965年
  5. 設備概要 一周約2.5Km 幅員約14m(安全帯路側帯含む)異形オーバルコース
  6. 直線部 長さ 約920m
  7. コーナー半径 約65m、約50m 
  8. 曲線部最大バンク角 約?度
  9. バンク設計速度 ?km/h
  10. 舗装 アスファルト、コンクリート、
  11. 付帯コース スキッドパッド、ダートトラック(未舗装路)、各種舗装路(コンクリート、各種アスファルト、煉瓦舗装路、石畳舗装路、など)
  12. 付帯設備 管理棟、パドック(試験路整備場&スタッフ控え室)、整備工場、給油所、

嘗てあった谷田部テストコースとは

日本のバンクの草分け旧・谷田部テストコース

1964年に日本最初の高速道路、名神高速道路の開通に合わせ、高速道路時代の自動車開発の場として誕生した。

嘗て 数々の国際スピード記録を生んだ 国産車 開発・試験の聖地であった。

当時日本の各自動車メーカーは本格的な高速周回路をもっておらず、各自動車メーカー、タイヤメーカーの新車開発や連続高速走行世界記録チャレンジなどに用いられ、数々のスピード記録が生まれたことで「谷田部の45度バンク」として自動車マニアの誰もが知っていた有名なテストコース。

2005年に閉所・閉鎖され、東茨城郡城里町の城里テストセンターに移転した。

現在、バンクの一部が保存されており周辺道路からかつての雄姿を垣間見ることができる。(WEB CARTOPの関連記事はこちら)

旧谷田部テストコースの生い立ち

1961年 (財)自動車高速試験場(現(一財) 日本自動車研究所)設立

1964年...高速周回路完成・運用開始。

1969年4月...(財)日本自動車研究所設立。

2003年7月1日...(財)日本電動車両協会(JEVA)、(財)自動車走行電子技術協会(JSK)と統合。新生・(財)日本自動車研究所が発足。

2005年 谷田部テストコース閉鎖、城里テストセンターに移転。

保存バンク路

県道123号線西岡交差点に近い同施設の南東端(市道に面したフェンス際)に有名な45°バンクの一部(約15m)が保存されている。

現在も残る(一財) 日本自動車研究所筑波ラボ

現在旧・インフィールドの南端部分に大がかりな側面衝突実験施設、などの屋内試験設備が設置され、周回路を含む小規模な実験走路も設置されている。

日本自動車研究所筑波ラボのロケーション

ところ  

茨城県つくば市苅間2530番地

じゃらんの周辺観光案内はこちら。

日本自動車研究所筑波ラボへのアクセス

※現在(見学も含め)一般公開はされておりません

マイカー利用の場合

関係者以外・部外者の駐車はお断りしています!公共交通機関をご利用ください!

旧・谷田部テストコースの施設データ

  1. 運営団体 (財)自動車高速試験場(現(一財) 日本自動車研究所)
  2. 開設 1964年
  3. 設備(規格) FIA国際公認高速周回路。
  4. 設備概要 一周5.5Km オーバルコース 
  5. 舗装 コンクリート舗装
  6. コーナー半径 400m
  7. 曲線部最大バンク角 45度
  8. バンク設計速度 180km/h
  9. 直線部 1.5km
  10. 付帯コース スキッドパッド、ダートトラック(未舗装路)、煉瓦舗装路、石畳舗装路、各種アスファルト舗装路
  11. 付帯設備 パドック(トイレ、シャワー完備)、
  12. 付属施設 管制塔、管理棟、研究所施設。

伝説の富士スピードウェイ旧コース30°バンク

(※レーシングコースNabiはこちら)

オープン 1966年

セオリー無視の欠陥30°バンク!

富士スピードウェイの大きな特徴として、30度のカントがついた下りバンクコーナー!があありました。

これは元々同サーキットがオーバルコースとして計画されたことの名残と言われています。

しかし、調査不足を起因とするコースデザインが良くない上に、短期間で安上がりに建設するために手抜き工法?がとられたとんでもない欠陥バンクでした!

当所の計画ではホームストレッチと、高度差が30m!もあるバックストレッチを、2つの複合傾斜コーナーで結ぶ、オーバルコースという、前代未聞のあきれた構想でした!

この当時本場アメリカでも、下りバンクの走路などありませんでした。

その後1969年にオープンしたDover International Speedway(公式サイトはこちら)で初めてバンク(土手)を築かない24°の"掘り下げ走路!"が登場しましたが。

その後改修されて現在はコーナー部が盛り上がった一般的なバンク走路となっています。

さらに導入曲線は設けられていませんが、両端の24°バンク部をつなぐ1076フィート(328m)✕2のストレッチ部分にも9度の内傾があり、コーナーの導入部分に当たるストレート端部の両側1/4程度の部分は、24°のコーナーに連続的に横断勾配が変化してつながるような導入部を形造っています。

なので旧富士30°バンクのように谷底に転がり落ちる!ような破天荒なデザインではありません。

当時のヒーローレーサー田中健二郎氏が語ったところによると

「完成当初にコース管理者に『基礎に杭を打ち込んだか?』と尋ねたら、『打ち込んでない』と言われ『こりゃ駄目だ』と思った」と後日談がのこっている。

1966年完成当時すでに谷田部の45°バンクが存在しバンクそのものは珍しいものではなかったが、

直線からほぼアクセル全開で飛び込む30度バンクは導入曲線(クロソイド曲線)も設けて無く、ストレートから盛り上がったバンクをを駆けあがりながら、カントのついたバンク(堰堤)部分に侵入するところを、下り坂の右カーブでそのままアウトサイドに突っ込むというとんでもない代物であった!

イン側の低速レーンには、更にきついラインでターンしながら急激に下る必要があるために、どうしてもアウト側の一番危険なラインを通るしかなく、山麓から吹き上げる横風をまともに受け、コース外に飛び出す車両が続出した!

更に、火山灰度の脆弱なにも拘らず基礎杭も撃ち込まずに、周囲の火山灰を盛り上げて転圧もしていなで、バックホーで法面を成型しただけのニュータウンの造成地のような走路面は、苦労して転圧したにも関わらず、地盤の不等沈下が激しく、開所当時から波状路状態で、年々ひどくなる不等沈下による路面のうねりでマシンが底打ちするためにフロアやサスアームを補強しなければならなかった!。

当時、国内外でこのような急角度のアスファルト舗装を経験した業者はひとつもなく、依頼された日本鋪道(後のNIPPO)は、ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。

度重なる重大事故で閉鎖に

重大事故も発生し、開業年1966年の日本GPでは永井賢一氏が亡くなった。

1973年(昭和48年)の富士GC最終戦では設備の不備とステアリングミス(ステアリング破損?)が重なり中野雅晴氏が死亡した。

さらに1974年(昭和49年)の富士GC第2戦中に風戸裕氏と鈴木誠一が死亡する大事故が起きたことを契機に30度バンクは閉鎖された。

現在はメモリアルパーク

旧コース時代の末期にイベントの一環として、体験走行会が何度か行われている。現在は一部の路面がモニュメントとして遺されたメモリアルパークとなっている。

富士スピードウェイ周辺観光案内

じゃらんの周辺観光案内はこちら。

デジタヌの思い出

想い出に残る(JAF公認国内選手権)第一回日本グランプリの名場面

NHKプロジェクトXでも取りあげられた1966年の日本グランプリ、では当時高校1年生だった小生はTVの前に釘付けになっていた。

「そして宿敵ポルシェを相手にプリンスR380が念願の初優勝を飾った!」

TV観戦していた小生は飛び上がって喜んでのを覚えている。

翌日、当時51人!もいたクラスメートの中で「たった2人のカーマニア」の"級友と小生"で、日本グランプリのことを熱く語ったことを覚えている。

※1、スリップストリームについてのWikipediaの用語解説はこちら

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公開:2020年8月29日
更新:2022年9月26日

投稿者:デジタヌ


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