狸穴ジャーナル・別冊『旅するタヌキ』

SUBARU の自動車開発試験場 3選《バンク伝説Navi》

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前書き(要約)"自動車技術"への飛行機技術者集団の挑戦...

Googl map で解き明かす 夢見てばかりいる?星の王子様の試験場達

SUBARUはTOYOTA同様に徹底的に海外メーカー車両を研究しながらも"国産技術"にこだわり続けてきたメーカーです。

但しTOYOTAとは異なり、時として「関連企業の技術力限界すれすれ」のアグレッシブな新機軸を訴求し続けてきたメーカーでもあります。

しかし嘗てのF1エンジン開発に代表される無謀とも思える猪突猛進の暴走は、時として不本意な結果を招き、データ改算、リコール問題に繋がり 株価 にも影響が及び、個人株主の皆様にも...

部外者ながら心配にもなってしまいます。

スバル のプロビンググラウンド の目次

※ご注意、この施設は非公開施設です!、社外の一般人は特別イベントが開催される時以外は見学できません!

※以下用語については 当サイトシリーズ記事プルービンググラウンドについての走路用語と解説 を参照ください

(株)SUBARU スバル研究実験センター

〒327-0512栃木県佐野市豊代町1100

完成オープン 1987年?

SUBARUの開発試験の中心地です!

構内は、輸出国に合わせて左側通行(車道は右側通行)になっています、周回路は反時計回りで運用されています。

公式サイトでは「アルシオーネSVX以降」となっているので1990年前に完成オープンして新車開発に貢献したようです。

「スバル研究実験センター(通称SKC)は、巨大なテストコース施設として車両走行テスト用の高速周回路を備えており、アルシオーネSVX以降、市販車はもちろんニュルブルクリンク24時間レースを戦う参戦車両などもこのテストコースで磨き上げられてきました。」《公式サイトより引用》

高速周回路

全周約2,900mのハイバンクミドルオーバルで、設計速度はおそらく190㎞/h(120mile/h)程度だと思われます。

走路3車線、+バンク部内周サービス路1車線、ガードレール外周バンク頂部に1車線のサービス通路を設けたハイバンク周回路です。

北側のバンクは山の斜面を利用してすり鉢状になるように削り取って築造し。

南バンクは、西半分は丘陵を開削して、東半分は丘の中腹に壇状に張り出した中腹コースになっています。

丘陵地帯に造成したために管理棟(管制塔)から南バンクはブラインドコーナーになっており、安全上多少の問題もありますが立派な周回路です。

インフィールド施設

インフィールドには勿大小2つのスキッドパッドやマルチレーンのSpecial Surfaces Trackが備わっていますが、舗装路のテクニカルコースは1車線(一部コーナー部のみ2車線)のテクニカルコース一つにとどまり、他社のPGで多く見られる、テクニカルコースやRural Road(田舎道?)はあまり充実しておらず、ダートのテクニカル周回路、ダートの登坂路等、ラフロードコースに重点が置かれているレイアウトになっています。

ワインディングでのハンドリングはあまり問題にしていないアメリカ市場に特化した4駆のSIUBARUらしいPGといえるでしょう。

走路以外にもいろんな実験棟が立ち並んでエンジンダイナモ、シャシーダイナモ、ブレーキダイナモ、環境試験棟等の屋内実験設備の充実ぶりがうかがえます。

スバル研究実験センター 美深試験場

〒098-2208 北海道中川郡美深町字仁宇布

開所1995年

高速周回路 2003年完成

バブル景気最中に計画されて、1995年に一部施設が冬季試験場としてオープンして、2003年に高速周回路が完成してほぼ現在の姿となった施設です。

佐野市のスバル研究実験センターを補足する施設?で、栃木では十分な開発試験が行えなかったRural Road(田舎道?)でのハンドリング試験開発にかなりの比重が置かれた施設です。

別項でも記したように、軽四から進化?の過程をたどった、SUBARU車は、メカ好きにはたまらない魅力はあっても、事ハンドリングに関しては乗り心地や悪路の走破性は良くてもアイデア倒れで「劣悪な癖の強いハンドリングの車両」が多く、ユーザー泣かせの見かけ「スポーティー車」が多かったように思います。

WRCに参戦するようになってスポーツ走行にも開眼して、海外の下請けチューナーに頼るだけではなく国内でも、本気で取り組めるように施設を充実させてきたことがうかがえます。

1989年(平成元年)にレガシィを発表するとイギリスのプロドライブと提携し、スバルワールドラリーチーム (SWRT) として1990年(平成2年)より世界ラリー選手権 (WRC) に本格参戦。1993年(平成5年)より後継のインプレッサを投入し、1995年から1997年にかけてマニュファクチャラーズタイトルを3連覇するなど、一時代を築いた。ドライバー部門ではコリン・マクレー(1995年)、リチャード・バーンズ(2001年)、ペター・ソルベルグ(2003年)の3人のチャンピオンを輩出した。世界同時不況の影響で2008年シーズンを最後にWRCでのワークス活動を終了。WRC通算47勝(レガシィ1勝、インプレッサ46勝)は国内メーカーの中では三菱を凌ぎ2位である。《Wikipediaより引用

高速周回路

2車線の変形オーバル周回路で、最近流行りの極端なバンク角の無い高速道路規格の周回路です。

逆時計回りで運用されている周回路は標準コースが約4.2kmあり、全体は「ひょうたん型」というよりエレキギター?のように変形しています。

ピットエリアのある東側の短い2つのストレート部の間には大きな曲率の右カーブの第1ターンがあり、その後北側の第2ターンに入り、大きなアールの左第3ターンと続き、さらに右第4ターン、左第5ターン、右第6ターンと蛇行して、南コーナーの複合カーブの第6ターン、第7ターンと続き、右カーブの第8ターンを出たところで本コース上で一番急な、ほぼ直角の左第9ターンを通過すると北米のフリーウェイを模したというコンクリート舗装の右第10ターンに入り、コースを一周してピットロード通過となります。

バックストレッチ側の第3ターンと第5ターンの間には内側に膨らんだ高速複合ターン(ショートカット路)と設置されていて、第2ターンと第4ターンのあいだにも大きなアールのショートカット走路があります。

大きく蛇行したバックストレッチ側にあるショートカット路

バックストレッチ側には、新設された2003年当時の面影で直線のショートカットもありますが、ほとんどの部分で4車線に拡幅されて、内側2車線コンクリート舗装でVibration and Harshness (NVH) surfaces 路として、外側2車線は大きなうねりのある波状路として使用されているようです。

北東肩におんぶした?ラケット路

第9ターンから飛び出したような、ラケット型の未舗装のラフロード走路があり、通常はフェンスで遮断されていますが、冬季積雪時には利用されているようです。

その他のインフィールド施設

南コーナーの内側には広大な舗装グランドがあり、冬季の積雪、圧雪アイスバーンなどのコンディション試験に利用されているのでしょう?

アウトサイド施設

このコースの目玉ともいえる、未舗装の冬季用周回路は管理棟のある北エリアに集中していて、高低差のあるテクニカルコース、

綜合試験路

マルチレーンのSpecial Surfaces Trackを備えた約1.2㎞の直線路、

市街地を模した次世代の自動運転の実験路などが整備されています。

SUBARUの原点"中島飛行機"と飛んでる?歴史

(※以下Wikipediaの関連記事を参考にしましたが...現行のWikipedia起筆者は4ストローク"水平対向エンジン"にかなりの思い入れ!があるようで、かなりの事実誤認(改ざん?)があるようなので、1960年代からの活字データ(1964年以降のモーターマガジン、モーターファンなどの当時の自動車雑誌の個人ライブラリー)をもとに公正な立場?で修正を加えてあります。)

SUBARU(旧富士重工)は、古くは現在日産自動車となっている旧プリンス自動車工業などと同じ中島飛行機㈱の流れをくむ会社です。

中島飛行機はエンジン開発でも優れた技術を持っていて、三菱が作った"0戦"に搭載されていた"誉"エンジンも中島飛行機で開発されたエンジンで、後に三菱重工でもライセンス製造されるようになった銘エンジンです。

小型軽量な星形無過給のこのエンジンは、多数が終戦間際にアメリカ軍の手に渡りアメリカ産の高品質なガソリン(※1)で試験されたところ驚異的な性能を発揮してアメリカ人(軍)関係者を驚かせたそうです。

参※1)戦時中の日本の燃料事情はご存じの通り劣悪で、米軍が使用していたテキサス産の豊富で高品質なガソリンとは比較にならない低品質(低オクタン価)なガソリンでした。

旧・中島飛行機は敗戦後GHQにより解体されて所在地毎に複数の独立した企業に分割されました。

旧本社は1955年(昭和30年)4月1日に東京富士産業、太田製作所と武蔵野製作所は富士工業、伊勢崎製作所は富士自動車工業、、中島飛行機大宮製作所は大宮冨士工業、宇都宮製作所は宇都宮車両となりこの5社が合併して誕生したのが旧富士重工です。

1953年(昭和28年)5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年(昭和28年)7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社富士重工業株式会社が発足した。因みに丸の中に6つの星が描かれたSUBARUのロゴマークは、この「6つの事業所が集まって1つの大きな会社になった」ことを示している。《Wikipediaより抜粋引用。

一方中島飛行機東京工場は 旧富士精密工業を経て、旧・立川飛行機の出身者が設立したプリンス自動車工業と合併してプリンス自動車工業となりその後に吸収合併されて日産自動車となり現在に至っています。

隠蔽体質の起源?ともなった"長かった日産自動車"との提携時代

嘗て、当時の通産省・大蔵省の指導で金融グループ別に"再編成"(※2)されて日産グループに入り日産車両を委託生産していた背景にはこの経緯も関係しています。

参※2)高度成長期の日本ではまだまだロマンがあり、今とは違い企業再編成にも"金儲け"一辺倒の投資ファンドによる会社乗っ取り、大幅リストラによる規模縮小(分割転売)人員整理などは含まれていませんでした!

この時期"6つ星星座"は最も輝いていた時期かもしれません?

(当時)折からの「バブル景気」によって資金調達のめどが順調に立ったことや、1989年1月...順調に国内市場、北米市場での販売を回復することに成功。

1990年から参戦していたWRCで大成功を収めたのもこの時期でした、同時に後述するようにデータ改ざん工作が始まったのもこの時期でした。

バブル経済末期の同年悪乗りして?イタリアのモトーリ・モデルニと水平対向12気筒を共同開発してF1に参戦したり、スポーツプロトタイプカー世界選手権 (WSPC) にもF1用のF12エンジンを流用して参戦しましたがこちらは散々な結果に終わっています!

得ることが少なかった?GM子会社時代

バブル崩壊後、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有の富士重工業株の売却を決め、2000年(平成12年)に放出株全てがゼネラルモーターズ(GM)に売却された。《Wikipediaより抜粋引用。》

この間ある意味"見かけ上儲かってさえいれば"本家の横やり無しに好き勝手に出来た時代でもありますが...

2001年に発生したアメリカの同時多発テロに影響された世界不況のあおりを食らって業績は落ち込む一方でした!

SUBARUニューゼネレーション トヨタ自動車傘下に入る

2005年(平成17年)10月5日にはGMの業績悪化に伴い、GMが保有する富士重工株20%を全て放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が引き受けて筆頭株主となり、富士重工業とトヨタ自動車が提携することで合意した。

トヨタとの資本提携によるスバルの恩恵は大きく稼働率の下がっていたスバルの北米工場で「トヨタ・カムリ」の生産を請け負ったり、(北米工場では)品質管理!やコストダウンの方法を学んだりするなどして利益率を高めた。

「2017年9月30日をもって(産業機械事業)を終息し、一部技術資産と米国販売子会社を10月1日付けでヤマハ発動機へ譲渡する契約を締結した」と正式に発表した。

SUBARUは今後自動車生産と航空関連に特化した企業となり、商号変更(2017年4月1日富士重→㈱SUBARU)とともに新時代を迎えることとなる。

2019年にはトヨタが出資比率を20.00%に増加させて持分法適用会社(=関連会社)となり...《Wikipediaより抜粋引用。

つまり現在SUBARUはTOYOTA・SUBARUアライアランス(広範囲にわたる資本・業務提携)を行うと同時にTOYOTAの持分法適用会社になっているわけです。

敵に回った?日産アライアンスの一角三菱自動車が日産の軽四をOEM生産して供給を受け、スバルがかつてのライバル・ダイハツからOEM供給を受けた軽自動車の販売を続けている!何とも皮肉な結果となっていますが、

「資本提携によるスバルの恩恵は大きく」て順調に体質改善を図っているようかに見えた新星"SUBARU"でしたが...

トヨタ傘下に入っても長年にわたる隠蔽・不正・データ改ざんなどの悪癖は旧態依然として一向に"改革"されていなかったようで...

2017年9月に日産自動車の長年にわたる無資格検査問題の発覚で、自動車会社各社で関連調査が行われた結果。

TOYOTA主導で順調に体質改善がされてきたかのように思われた"新星SUBARU"の群馬工場で30年以上にわたって無資格で検査をしていたことが判明しました!

...無資格検査が発覚した際、燃費の不正もある...外部弁護士に調査を依頼したところ、同検査の一部である、抜き取りによる燃費検査と排ガス検査においてデータ書き換えが行われていたことが2018年3月に発覚した。...、これらの一連の問題を受けて(1977年4月 - 富士重工業入社スバル生え抜きの)吉永 泰之社長は会長職へ退いた?

1990年(平成2年)には日産ディーゼル(現UDトラックス)の経営再建に手腕を発揮した川合勇(※3)の下で地道なコスト(工数?)削減努力が続けられた。

参※3)Wikipedia該当項目 川合勇はこちら

(当時日産グループだった日産ディーゼル工業で辣腕を振るい業績改善の功績を認められて1990年に富士重工社長に収まり1998年贈賄容疑で逮捕・起訴され辞任した河合氏は、その剛腕で"何を改革?"したのでしょうか...)

...少なくとも2012年12月から2017年11月までの間に903台において...データの書き換えがあった。また同期間以前のデータは既に無いが、「2002年から不正が行われていた」という証言もあり、同報告書はその可能性は否定できないとした。

(つまり、日産を離れてGM傘下になった時点で「GMの隠蔽体質」が伝染・拡大したとも...)

2018年9月には、加えてブレーキ検査でのデータ改ざんも発覚。こうした不正の一部は1990年代前半から行われていたとされる。

《Wikipediaより抜粋引用。》

(という事は日産時代にから続いており、バブル経済末期の好調な時期に出荷台数確保のために改ざんされた可能性も...)

さらに2018年11月に、これらの検査不正は発覚後も一年の間(2018年10月まで)行われていたことが判明。追加で10万台のリコールが発表され、一連の不正によるリコールは53万台に膨れ上がった。《Wikipediaより抜粋引用。》

参※3)当時東京本社に栄転?したデジタヌは太田工場の生産技術部門からの問い合わせで訪れたことがありました。今にして思えばなんだか不思議な内容で、生産ラインの終段ラインオフの手前で「装着タイヤ」の確認を超音波でできないかという内容でした。

当時は、CCDカメラによる画像認識もあまり進んでいない状況で、超音波探傷イメージ化装置をプロモートしていた小生が呼ばれたわけですが。

超音波といってもウルトラマンではないので、それは出来ませんという事で、当時開発実用化していたレーザー距離計を用いた画像認識を紹介しておきました。

しかし能々考えると、フレキシブル(車種混成)生産ラインで生産されていたはずなのに、当時は日産系列なのでトヨタ方式の「ムービングライン」の概念が伝わっていなかったのでしょう、「つまりそもそもタイヤホイール」を装着する段階で何種類もの装着タイヤが転がっており?「車両ID」(仕様)に相当するタイヤを作業員が選択する必要があったのでしょう!

また検査体制の不備(省略)で、ディーラーの手元に届いてから「間違い」が判明することが度々生じていたようです。

TOYOTAのメリットとは何だったのでしょうか?

新規投資を行わないで「北米での生産拡大」を図れたことぐらいでしょうか?

熱烈なSUBARUファンが崇め奉る?水平対向4気筒エンジンも、最近の直列3気筒エンジンや、V6エンジンほどの「Advantage」を持っているとは思えません!

当時の時代背景を振り返ってみますと

日本では1986年12月から1991年の2月にかけたバブル景気がはじけて、暗黒の10年間?に突入した時期でした。

世界的には前途したように1985年9月のプラザ合意以降の急激な円高で、北米市場での深刻な販売不振に直面。

1989年には300億円もの営業赤字に転落。深刻な経営危機が報じられていました。

また当然国内の需要も冷え込んでいましたし、1991年以降は頼みの綱の銀行も融資を渋るようになっていましたので積極的な設備投資ができない状況でした。

そして1968年以来続いた日産自動車との提携が1999年にメインバンク(日本興業銀行/現: みずほ銀行)の不良債権処理問題に絡み、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有の富士重工業株の売却が行われて、2000年に当時はまだ強気で一見?好調に見えたGMの手に渡りGMグループの一員に...

そして日本では21世紀を迎えた翌年2001年1月6日に施行された中央省庁の再編統合に絡み政府系金融機関の業態変更も行われてますます国内での資金調達が困難に、

そして同年9月11日にアメリカ合衆国で同時多発が発生して、上向きかけていた米国の需要に水を差しました。

こうなると強気な生産計画を続行したGM本体が膨大な過剰在庫で一転して赤字企業に転落!

前途した通りGMは自力で何とか経営を立て直そうと2005年10月5日にはGMが保有する富士重工株20%を全て放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が引き受けて筆頭株主となり、富士重工業とトヨタ自動車が提携することで合意したわけです。

その後GMは2009年6月1日に連邦倒産法第11章の適用を申請して事実上の倒産に...

そして全世界にあるGMの資産の"切り売り"と大規模な経営合理化(リストラ)が始まったわけです。

実際のところは...

2005年当時の日本では富士重工には株式を買い戻すお金も、体力もないしましてや頼みの綱の出資元の金融機関の不良債権処理がまだ続いていて、万事休すの状態でした!

但し、名乗りを上げた?中国の投資集団には(富士重工は宇宙・航空機分野を担う企業でもあり)"国防上の都合で絶対に手渡したくない!"

そこで、TOYOTA銀行とも呼ばれるトヨタに現防衛省(当時防衛庁)・経済産業省あたりが話を持ち掛けたのでしょう。

国内のバブル経済崩壊や米国の急速な景気落ち込みにも影響されずに、好調を持続していたTOYOTAとしては、新規に計画していた米国内の生産工場も手にいるし、関係官庁に恨みを買うよりは、恩を売っておいたほうが得なので、あまりメリットはなくとも旧・富士重工を買い取ったのでしょう?

それでWikipediaにあるような念押し?があったのでしょう。

「トヨタにはならないでください」トヨタとの資本提携が決まった時、トヨタの豊田章一郎や渡辺捷昭から言われた言葉である。また「これ以上、(トヨタの得意ゾーンの)円に入ってくれば即座にたたきつぶしますから、そのつもりで」とも言われたという。《Wikipediaより引用

TOYOTA・SUBARUの友好の証として2012年に登場したBRZですが...

そして本来のAE86の後継モデルであるとともに"ヨタ8"以来の水平対向スポーツモデルとしてTOYOTAファンにも好意をもって受け入れられてきたトヨタ86、SUBARU・BRZですが...

2017年...スバルが生産を担当する「トヨタ・86」を含めて直近3年間の25.5万台がリコールとなった。《Wikipediaより引用》

軽自動車用を除くエンジン不具合に伴う大規模リコール
2018年10月25日にエンジンの部品が壊れる恐れがあるとして、複数の車種について大規模なリコール(回収・無償修理)を国土交通省に届け出ることが明らかとなり、国内のみならず、海外で販売した車種...トヨタ自動車と共同開発したスポーツカーの「BRZ」、およびその同型車種となる「トヨタ・86」もリコール対象に含まれる。《Wikipediaより引用》

モデルチェンジの時期を迎えており、2011年のTOYOTA・BMWの技術提携の成果として2019年に登場したトヨタスープラとの関係もあり、さらには新型のミドシップスポーツMR2再登場の噂もあり度重なるリコール問題で後継車種が出るどころか今後ともに生産が継続されるかどうかは不透明です!

輸送機メーカーの礎となったラビットスクーターの誕生

進駐軍の兵士たちが当時移動に利用していたアメリカ製のスクーター(に着目して)...敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作した...1947年(昭和22年)に「ラビットスクーター」(※3)として発売した。...運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、会社の基盤を支える重要な商品となった。《Wikipediaより抜粋引用。》

参※3)三菱のシルバーピジョン(2ストロークギヤチェンジ)とともに、強制空冷4ストローク単気筒エンジンを貫き通したラビットスクーターは、後期型では画期的な「流体トルクコンバーター」+エアサスを備えたラグジュアリースクーターとなっていました!

当時はまだまだ道路事情が悪く、東京・大阪の2大都市近郊でも国道以外は未舗装のラフロード!のオンパレード、何より重い車体と、乗り心地の良いエアサス+低速トルクがある200ccの4スト単気筒エンジンは、田舎では重宝なトランスポーターでした(※91)。

いつの時代も最先端技術のテンコ盛り!だった軽自動車シリーズ

富士重工業の記念すべき量産4輪車第1号"スバル360"の誕生

2ストローク、空冷2気筒、RR駆動シリーズ

1958年(昭和33年)発売の軽乗用車「スバル・360」と、その派生型である1961年(昭和36年)発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、以後「スバル」(※4)ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立。《Wikipediaより抜粋引用。》

当初の軽自動車スバル360は全輪トーションバーによる独立懸架のフルモノコックボディーのリヤに2ストローク空冷2気筒のエンジンを積むRR駆動でした!

ボディーと懸架装置はVWヴィートルを徹底研究して、エンジンは独自開発で完成させました。

実は前途した、ラビット号は空冷単気筒の4ストロークで出発しましたが、1955年には同社初の2ストロークエンジン+3速グリップチェンジの最高速度85km/h以上もでた俊足スクーターを発売して、当時のオトキチ達に圧倒的な人気となりました!

HONDAの神社仏閣型の角ばったドリームCシリーズが発売されたのが1957年ですから、それ以前の若者のプレーステージモデルでもありました。邦画でも後ろに別嬪さんを乗せて颯爽と走行するラビッド号が再三登場しています。

前途したように、当時の2ストはoil タンクもない、ガソリン直接混入タイプでしたが、後年に画期的なスバルマチック(マジック?)というクランクシャフトオイル直接給油システムを開発して、メンテナンス、オイル煙の減少と2サイクルエンジンを大幅に進化させました。

またその後輸出用としてスバル450!も生産されてアメリカなどに輸出されて好評をはくしました?

2スト360㏄空冷エンジンは終盤のR-2の時代には水冷エンジンに進化?して後継車なのにレックス?に継承されて2ストRR駆動のRexは1973年10月の4ストREX登場 迄生産されていました。

日産提携後に生まれた4ストローク水冷エンジンRR駆動シリーズの登場

1973年10月EK21型4サイクルエンジンが登場しました。

同時にラインナップを一新、その後550ccワイドボディ?の新軽規格の誕生とともに1976年に500㏄に排気量アップされたEK22型エンジンは1977年5月に当時のフルサイズ550ccのEK23型エンジンとなりRRシリーズは 軽トラックサンバーシリーズと共に自社生産終了まで生産されていました。

この間、1980年には国産初の電磁パウダークラッチを採用したクラッチペダルレスの「オートクラッチ」車発売などの新奇(機)軸?も採用されました。

4ストローク水冷エンジンFF駆動ユニットの登場

1981年(昭和56年)10月 にそのころには軽自動車の定番となっていたFF駆動シリーズが登場しました。

1983年(昭和58年)12月 にはターボモデルを追加して軽トップタイとなるグロス41馬力を発生して、軽四初となるフロントベンチレーテッドディスクブレーキを採用しました。

さらに 3ドアセダンモデルとコンビに軽乗用車初のパートタイム4WDシステムが搭載されました。

更に1984年2月には派生車種として後述する1000ccの5ナンバー小型車初代ジャスティーが4ストローク水冷直列3気筒エンジン(EF10型)を搭載して登場しました。さらに1985年には1.2リッター迄スープアップしていました!がこの車は1994年12月に販売終了しました。

軽乗用車国内初のフルタイム4駆登場

1987年1月 リアのデファレンシャルギア部にビスカスカップリング(※5)を2個並列で一体化して組付けて、前後輪の駆動力配分と後左右輪のLSDの機能を同時に兼ね備えた「ツインビスコ4WD」(Twin Visco)と称されたフルタイム4WDを登場させました。

参※5)Wikipedia関連記事 ビスカスカップリングはこちら。

軽初国内初のスーパーチャージャー付きエンジン登場

1988年3月 量産車では国内初となるインタークーラー付きルーツブロア型スーパーチャージャー(※6)付きエンジンで55馬力を発生させて同時に、レスポンスを大幅に向上させました。

但し、アメリカンドラッグレースマシンと同様に、お世辞にも燃費は褒められたものではありませんでした!

参※6)Wikipedia関連記事 スーパーチャージャーはこちら

現在のF1でもちいられているコンバインドシステムはある意味ターボファン型のスーパーチャージャーでもあり、通常はターボ過給機として働きターボラグをなくすために、いざという時にはターボチャージャーと同軸で繋がった発電ダイナモ・モーターをターボファン駆動に切り替えてレスポンス向上と馬力向上(過給圧向上)を狙ったシステムです。

直列4気筒!EN05型エンジン&ECVT登場

1989年6月直列4気筒!500ccのEN05型エンジンを搭載したシリーズにマイナーチェンジ。ECVT(電子制御無段変速機)(※7)の登場!

1990年4月の軽規格変更に伴い660ccのEN07型エンジンが登場して1992年からは後継車種のVIVIOとなり1998年迄生産されました。

2003年12月8日 に後継車種であり最後の自社開発自社生産 軽四R2が発売されました。

1988年以来SUBARUのトレードマークとなったスーパーチャージャーは健在で、マニュアルモード付き7速CVT、フルタイム4WD、とメカ好きにはたまらない"ひねくれもの?"で2004年11月 - 2005年次RJCカー・オブ・ザ・イヤー特別賞ベスト軽自動車受賞も受賞しましたが...

時代は2BOXラグジュアリー&エコノミーの時代に移っており、2010年をもって生産終了となり、1958年の登場以来「日本独自の軽4輪市場」の発展に尽くしてきた「SUBARU」内製軽四の歴史は終了しました!

参※7)Wikipedia関連記事 ECVTはこちら。volvo傘下になっていたオランダの、DAFで開発されたスチールベルト式CVTと1980年のレックス以来開発を続けてきた"電磁パウダークラッチ"(現行製品はロックアップ付きのトルコン併用になっています)を組み合わせたシステムでその後日産系列のJATCO(official site)にも技術供与されて、多くのエコノミーカーや最近では大出力の小型車にも採用されるようになったオートマティックトランスミッションです。

SUBARUの新しい伝統 4ストローク水冷水平対向4気筒FFユニットの誕生

1966年 戦後初の5ナンバー普通車スバル1000発売!


この時初めて、4ストローク水平対向水冷4気筒エンジンを搭載したFFのスバル1000が誕生しました。

そうです当初はRRの軽から始まりSUBARU1000からは日本におけるFF小型車のパイオニアとなったわけです。

スバル1000(欄外※92)は国産量産車初のバーフィールド等速ボールジョイントを用いた画期的な小型車で、前輪ダブルウィッシュボーンの!センターピポッドシステム、後輪トレーリングアーム+コイルばねの四輪独立懸架、国産初のアルミニウム・サイドフローダブルラジエーター;電動ファン、車輪を4隅に配したロングホイールベース!などなど数えきれないほどのアグレッシブなメカ満載の小型車でした。

当時の大衆車、サニー1000やカローラ1100は前輪はインデペンデントサスでも、後輪は板バネ+リジットが当たり前の時代!でした。

その後1970年登場のシトロエンGS、1971年登場のアルファスッドなどに多大なインスパイアを与えたといわれています!(※最も、SUBARU1000自体が、シトロエン2CVやパナールで採用されていた水平対向エンジンを搭載した前輪駆動システムを徹底的に研究して参考にしたといわれています。)

そのアルファスッドは1983年に日産パルサーベース(※9)のアルナにバトンタッチされて消滅!

シトロエンGSは1986年で終了して、水平対向エンジン縦置きのFF,4WDはSUBARUだけとなりました。

参※9)前輪駆動システムの先駆者は変態エンジニアリング?大好きのフランスの、シトロエンやパナールですが、等速ボールジョイントを用いた現代的なFFの先駆者は天才エンジニアの一人アレックイシゴニス(※9-1)が設計した1959年登場の初代miniでしょう、オートバイ式にトランスミッションを一体化した4気筒水冷エンジンを横置きにして、等速ボールジョイントで前輪を駆動するシステムで、その後に現れた、初代本田N360(N600)、同じく初代HONDA1300、日産チェリー、初代パルサーなどに採用された方式です。

この方式は全長(幅)をコンパクトにできる反面、エンジンオイルと、ミッションオイルが共用となる欠点があり、さらにはトルクコンバーターを使ったオートマティックミッション化が困難という欠点がありました。

現在多くのFF車で採用されている、横置きエンジンオフセット配置、同軸トランスミッション、中間デフ配置で左右不等長ドライブシャフトくどうのアイデアは。イタリアの天才エンジニア ダンテ・ジアゴーサ(※9-2)が考案して1964年にアウトビアンキ・プリムラに初めて搭載した方式で、その後のFF車のスタンダードとなった方式です。

ドライブシャフトは左右不等長となりますが、通常のトルクコンバーターとプラネタリギヤのコンビネーションによるオートマティックトランスミッションの搭載が可能となり、自動車史のエポックメーキング的な大発明といわれています。

アウトビアンキ・プリムラがもう少し早く登場していて、スバル1000の開発開始時期に間に合っていたら、SUBARUの伝統?水平対向エンジン縦置きシステムは生まれなかったかもしれません。

SUBARUも前途した1984年2月登場の5ナンバー小型車初代ジャスティではこの方式を採用しました!

さらにWRCからSUBARUが消えて以来、変わって王座に就いたランサーエボはこのシステムの延長です。

参※9-1)Wikipediaの該当記事サー・アレック・イシゴニス(Sir Alexander Arnold Constantine Issigonis はこちら。

参※9-2)Wikipediaの該当記事ダンテ・ジアコーサ(Dante Giacosa)はこちら。

※1963年当時、町内屈指の秀才!だったタヌキ少年は、ロータスを起こしたコリンチャップマン(※9-3)を含めたこの3人にあこがれ、将来は自動車技術者になることを夢見ていました!

参※9-1)Wikipediaの該当記事 コーリン・チャップマン(Anthony Colin Bruce Chapman )はこちら。

1972年スバル初の四輪駆動車レオーネエステートバン1400 4WD登場

本格的な量産ラインで生産される自動車としては世界初の四輪駆動乗用車となった。《Wikipediaより抜粋引用。》

但しこの時はパートタイム4駆でフルタイムAWDオートマチックの登場は1981年になってからで後輪駆動用トランスファーに世界で初めてビスカスカップリングと電磁式油圧多板クラッチを併用したフルタイムAWDオートマチックが発売開始されました。

軽自動車レックスから派生した1000㏄ジャスティで浮気?

1984年2月には軽自動車レックスの派生車種として1000ccの5ナンバー小型車・初代ジャスティーが4ストローク水冷直列3気筒エンジン(EF10型)を搭載して登場しました。さらに1985年には1.2リッター迄スープアップしていました!がこの車は1994年12月に販売終了しました。

また1983年からレックスで採用されていたパートタイム4WDシステムが搭載されていました。

※当時30歳代の気鋭?の小生が名古屋で出張所の所長を任されていた時に東京から転勤してきた新人が所有していたので、試乗させてもらったことがあります。

この方式は2WD走行時も走行抵抗(引きずり抵抗)が大きくかなりの低燃費!車両でした。

デジタヌの思い出と勝手な...

参※91)当時小生の親父がトーハツ、ラビット、シルバーピジョンと歴代の名車?を乗り継いでいた思い出があります。

但し、シルバーピジョンになったころには、(3段変速機の)操作も面倒だし、20km/h!ぐらいで未舗装の市道を"のんびり走る"親父にとっては2ストロークエンジンではすぐにプラグがカブッテしまい単気筒?になり、2ストオイルの混入も面倒で、さらには体力(気力)も衰えてきたために、"銀鳩号"はガレージに身を潜めて"音無しく?"していた姿を目にすることが多くなっていました。

参※92)実兄が最初に購入した新車がスバル1000でした、世界的にみても当時としては新機軸満載の画期的な大衆車でしたが、その割には故障も少なく安定したマシンでした。

参※93)小生が一番最初にマイカー(といっても実兄名義)としたのが兄貴のお古スバルレオーネでした、

実兄は、中古のマツダR360になじまり、スバル1000、スバルレオーネ、セドリック、ローレル、そしてベンツと乗り継いだ後に、帰らぬ旅路に先立ちました。

このレオーネは、先代のロングホイールベースのスバル1000とは異なり、極端なフロントヘビーのFFで、「猛烈なタックインを見せる曲者」でした!、このために何度か死にそうな目に?にも会いましたが、DUNLOPSPラジアルとの相性は抜群で、雪道特に坂路の走破性は抜群で、最近の4駆にも負けないグリップ力を見せてくれました。

但し、最初期のノンサーボのディスクブレーキには手こずり、つま先踏みなどはもってのほか、土踏まずで力いっぱい思いっきり踏み込まないと、ロックどころか停止させることすら難儀する代物でした。

更にパーキングブレーキが非力で、10%を超えるような坂道(京都市内にはざらにある!)、ワイヤーが切れるぐらい!思いっきり引いても、ずるずると後ずさりして、坂道での渋滞などでは本当に苦労させられました。

というわけですっかり"土踏まずツッパリブレキング"に慣れてしまい、"ヒール&トウ"なる技に開眼したのは、24歳を過ぎて営業車?に「サニートラック」なるピックアップトラックを与えられてからでした。

当時はまだまだあったダートトラック(空き地、造成地)で(勤務時間中!に)スピンターンや、ドラフト走行?でよく遊びました。

小生は、その後自力?でランサーセレステ1600(AT)、セリカWX(AT)、ダイハツミラ!(4速MT)三菱ミニカターボ!(5速MT)マツダルーチェ(AT)、SUXUKIキャリーターボ(5速MT)と乗り継いで、自動車は卒業して(維持できなくなり!)、大型車のトラックヤローに転身して!59歳まで過ごし、60歳からは全く運転しなくなり、電動アシスト自転車にハマり?(※99)現在に至っています!

参※99)当サイトシリーズ記事 ブリジストン・ アルベルトe その1はこちら。

提案

入らぬお節介ですが、外野から見る限り、トーシバ、トーヨーゴム、同様に"すばーる"も根本的に体質改善を図らないといけない時期に差し掛かっているのではないでしょうか。

一部のジャーナリストは、工場サイドが強すぎて、経営側の改善が進めなかった?などとたわごとを言っているようですが。

時系列を客観的に追う限りは、まったく逆で、営業サイドに立つ経営陣が「中島飛行機」の良き伝統を技術力をダメにしたように感ぜられます。日産時代に送り込まれた社長以降も生え抜きの富士重工で固められていますが...。

これだけ腐りきった体質がさらけ出されてくると、親会社であるTOYOTAにとっても

長年かかってコツコツと築いてきたTOYOTA Qualityに対する高評価・安心感が損なわれTOYOTA ブランドに傷をつけてしまうことになりTOYOTAも手を引かざるを得ないでしょう!

ここは思い切って航空宇宙部門と自動車部門を分離してさらに自動車部門は完全な工販分離を場合によっては、はんばいもトヨタ自販に任せてしまい、さらに大幅な人事作新でTOYOT本社から、生産技術・製造管理の専門家を派遣してもらい、構造改革を断行したほうが良いのではないでしょうか?

現在SUBARUで働いている人たちの将来のためにも、嘗ての中島飛行機の高品質・高性能・高信頼性の技術力を取り戻し技術のSUBARUを復活させるためにも、メインバンク、大 株主 のTOYOTAとよく話し合って、場合によっては"昴超新星爆発"を起こして 新星スバルをTOYOTA様に立ち上げていただき「自動車部門」の若手技術者、若手従業員まる抱えで工場設備一切合切を"格安で!"(いまのSUBARUの工場設備ではかつてのBLMCの各工場程度の資産価値しかないでしょう!)購入していただき、TOYOTA式の最新設備で高品質化を図り、早期退職を募って悪しき伝統が染みついた"製造部門患部"の人たちには退職していただいて、当分は自社開発はあきらめてTOYOTAの関東地区の一工場から出直したほうが、未来を託して入社してくれた若い世代のスバルニストと将来のSUBARUにとっては良いのではないでしょうか。

毎度内部告発?で「腐敗が暴露されるたびに」経営陣が見かけ上反省した態度で頭を下げて、生え抜きの役員達で"経営トップを"たらい回し"していて一向に良くはならないでしょうし、株価にも影響が及び、さらには 総会屋 の食い物にされるだけでしょう。

ダイハツ工業のように「非上場の100%TOYOTAの完全子会社」になったほうが良いのではないでしょうか!

狸穴総研・経済研究所 出自多留狸

 

公開:2020年8月 1日
更新:2022年10月10日

投稿者:デジタヌ


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