狸穴ジャーナル・別冊『旅するタヌキ』

郡山市《 タウンヒストリア 》

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福島県と郡山市のこれ迄の歩み

福島県

推計人口、1,867,150人/2018年4月1日

新潟県の東隣で東北の県では関東に一番近い、古来より奥州の表玄関に当たる。

日本海には達していないが東西に長い形状をしており2つの山地(阿武隈高地と奥羽山脈)によって「浜通り」「中通り」「会津」の3つの地域に分かれている。

郡山市

旧陸奥国安積郡にあった、仙台市、いわき市に次いで東北第3の人口を有する。郡山都市圏の中核市でもある。

推計人口、332,824人/2018年4月1日

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている。

陸奥国

令制国が制定された当時は日本はまだ統一されておらず、陸奥国が(現福島県域)が大和朝廷の勢力の北限で陸奥国以北は(大和朝廷が)「蝦夷」と呼ぶ大和朝廷の勢力範囲外であった。

其の後陸奥国は、蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、最終的に突出して面積の大きな国になった。

802年1月9日 都が京に移った平安京時代に田村麻呂が陸奥国に派遣され同年4月15日に、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したと『日本紀略』に記されており。この日を持って東北に於ける大和朝廷の東北平定が終わったとされている。。

其の後、幾多の変遷の後に平泉を本拠地とする奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。彼らは、朝廷から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏は自治的領域を築くようになった。

奥州藤原氏の勢力圏は陸奥国全域におよび、現在の福島県中通りは、信夫佐藤氏が現宮城県南西部、現山形県南部、中通り中部、会津迄支配した。中通り南部は石川氏が統治し浜通り南部は岩城氏が統治していた。しかし、信夫佐藤氏、石川氏、岩城氏のいずれも、平泉の奥州藤原氏に服属していた。

奥州藤原氏は後の陸中国域(岩手県)にあたる平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。

郡山市の所属していた旧陸奥国安積郡

906年 陸奥国安達郡から「安積郡」が分立。

1189年 源頼朝の攻撃を受け奥州藤原氏滅亡。

戦国時代に北関東・東北においては一国以上の領国を持つ戦国大名は少なく中小の地域勢力が分立する傾向をもっていて、栄枯盛衰は止むことはなく、隣接する常陸国佐竹氏や越後国上杉氏の影響も受けるが、一時期伊達政宗が、福島県域の浜通りを除く大半を領有していた。

豊臣秀吉による奥州仕置により伊達政宗が伊達氏の元の本領以外没収れる。

紆余曲折の後、越後国の上杉景勝が会津120万石を得て福島県の中通り以西のほとんどの地域と山形県の置賜地方を領有した。

江戸幕府の「入組支配」


入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

関ヶ原の戦いによって上杉景勝は信夫郡伊達郡を除く福島県域の所領を失い、30万石となる。

代わって会津には蒲生秀行が再度入封し、会津藩60万石が成立するがあ其の後蒲生氏は伊予松山藩に転封(国替え)。其の後の領主が変わり幕府領となり。

1643年に松平氏保科正之が23万石で入封し、この松平氏会津藩が戊辰戦争まで続く。

但し領地は城下と各郡域にある飛び地、で大幅に縮小されている。

1664年 上杉氏米沢藩から信夫郡と伊達郡が召し上げられ、会津藩以外の大藩はなくなり、会津と浜通り夜ノ森以北(相馬氏領)を除く県内のほとんどの地域で、江戸時代を通じて小・中藩、天領が入り乱れて激しく変遷した

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日/旧暦6月24日)を挟み、1871年7月14日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革で、その後の離合も含め陸奥国も幾多の目まぐるしい行政変遷にさらされた。

1868年11月6日(明治元年旧暦9月22日) - 会津戦争で会津藩が新政府軍に降伏、新政府に領地没収となる。
同年11月14日(旧暦10月1日) - 旧会津藩領に若松民政局を設置。
1869年1月19日(旧暦12月7日)陸奥国が分割され、郡山は岩代国の所属となる。

1869年6月13日(旧暦5月4日) - 若松民政局を廃し若松県を設置。
1871年7月14日(明治4年旧暦8月29日) - 廃藩置県布告により諸藩領が二本松県(第1次)となる。
同年12月13日(旧暦11月2日) - 第1次府県統合により二本松県(第2次)の管轄となる。
同年12月25日(旧暦11月14日) - 二本松県が福島県に改称。

1873年(明治6年)1月1日(旧暦明治5年12月4日)新政府太陽暦採用を布告。

1876年(明治9年)8月21日に、福島県(第2次)、若松県、磐前県が合併され、現在・福島県(第3次)が成立した。

1879年1月27日 - 郡区町村編制法の福島県での施行により行政区画としての安積郡が発足。郡役所を郡山村に設置。

1887年7月16日:黒磯 - 郡山間開通、豊原駅、白河駅、矢吹駅、須賀川駅、郡山駅開業。

同年。 明治政府の士族授産と殖産興業の方針のもと決まった国営安積開拓事業「安積開拓」始まる。 安積疏水の開削の決定を機に、当時約5,000人のまちの周辺に、第一陣久留米士族をはじめ9藩から約500戸、2,000余の人々が従事した。

疏水に伴う水力発電事業により。 郡山市街地まで国内初の長距離送電を行った水力発電所「沼上水力発電所」として利用され、電力を自給すると共に余剰電力を安く供給して多くの工場を誘致。 郡山には信州を始めとする各地の資本により紡績工場が多数進出し、鉄道網の拡充とともに近代化が加速された。

やがて製糸業、窯業、機械工業、化学工業などの製造業も盛んとなり人口も増え続け、

1889年(明治22年)4月1日 - 郡山村が単独で町制施行し安積郡郡山町が発足
1891年(明治24年)9月1日、盛岡 - 青森間延伸開通により東北本線上野 - 青森間全通。

1924年(大正13年)9月1日 - 小原田村と合併し郡山市が発足。
1926年(大正15年)7月1日 - 郡役所が廃止。

1964年 、新産業都市に指定される、

1986年、郡山地域テクノポリスに指定をされる。

1997年4月 東北初の中核市となる。

1974年(昭和49年)12月20日 : 東北自動車矢板IC - 白河IC間延伸開通により首都圏と高速道路でつながる。

1982年(昭和57年) - 東北新幹線 大宮 - 盛岡駅間開業

1985年(昭和60年) - 東北新幹線 大宮 - 上野駅間開業

1987年(昭和62年)9月9日 : 浦和IC(1980年3月26日開通)-川口JCT間開通により東北自動車道全線開通、川口JCTで首都高速川口線と接続、都心部直結。

1991年(平成3年) - 東北新幹線 上野 - 東京駅間開業

楽都郡山?への歩み

明治時代の「安積開拓」に始まり、高度経済成長期にかけて商工業都市として急速に発達する一方で、全国からさまざまな人々が集まり急激な都市化により暴力団抗争が相次いで起こり、戦前は治安の悪い街「東北のシカゴ」等悪いイメージが広がってしまった。

戦後全国で「素人のど自慢大会」などが人気をあつめるようになり、郡山でも町内会の演芸会などで音楽活動が盛んになり、いつしか音楽が市民の心の拠り所となっていった。

演奏会開催を望む市民の機運が高まり、1954年(昭和29年)、郡山音楽協会と郡山青年文化協会主催の「NHK交響楽団公演」が国鉄郡山工場の大食堂を会場として開催された。

その後も合唱運動、吹奏楽運動、学校音楽コンクール活動などが盛んに繰り広げられ、「東北のシカゴから東北のウィーンへ」を合言葉にイメージ改善を進め、

2008年(平成20年)に「音楽都市宣言」を行い、「楽都郡山」をキャッチフレーズに音楽活動が盛んな街として情報発信を行っている。

 

公開:2018年6月 8日
更新:2022年9月10日

投稿者:デジタヌ


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