狸穴ジャーナル・別冊『旅するタヌキ』

福島県いわき市《 タウンヒストリア 》

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福島県といわき市のこれ迄の歩み

福島県

推計人口、1,867,150人/2018年4月1日

新潟県の東隣で東北の県では関東に一番近い、古来より奥州の表玄関に当たる。

日本海には達していないが東西に長い形状をしており2つの山地(阿武隈高地と奥羽山脈)によって「浜通り」「中通り」「会津」の3つの地域に分かれている。

いわき市(旧平市)

浜通りにあり旧令制国陸奥国・磐前郡に属していた。

いわき駅ー(郡山)―福島駅 3時間13分/2590円/JR在来線乗り継ぎ

いわきー東京 2時間24分/6,170円/JR特急/215.2㎞

福島県浜通りの南部に位置する旧城下町。平安時代末期から戦国時代までは岩城氏の本拠地として、江戸時代には磐城平藩の城下町として盛えた。

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている。

旧陸奥国

令制国が制定された当時は日本はまだ統一されておらず、陸奥国が(現福島県域)が大和朝廷の勢力の北限で陸奥国以北は(大和朝廷が)「蝦夷」と呼ぶ大和朝廷の勢力圏外であった。

其の後陸奥国は、蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、最終的に突出して面積の大きな国になった。

802年1月9日 都が京に移った平安京時代に田村麻呂が陸奥国に派遣され同年4月15日に、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したと『日本紀略』に記されており。この日を持って東北に於ける大和朝廷の東北平定が終わったとされている。

磐城国は明治に行ってから後の廃藩置県を念頭に置き陸奥国が分割されて設立された!

1869年1月19日(明治元年旧暦12月7日)磐城国は明治に入ってから、陸奥国が分割されて設立された!。

現いわき市の属した磐前郡、刈田郡、伊具郡、亘理郡、行方郡、標葉郡、楢葉郡、磐城郡、菊多郡、田村郡、石川郡、白川郡、白河郡、の14郡を分立させた便宜上の模擬令制国。

其の後、幾多の変遷の後に平泉を本拠地とする奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。彼らは、朝廷から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏は自治的領域を築くようになった。

奥州藤原氏の勢力圏は陸奥国全域におよび、現在の福島県中通りは、信夫佐藤氏が現宮城県南西部、現山形県南部、中通り中部、会津迄支配した。中通り南部は石川氏が統治し浜通り南部は岩城氏が統治していた。しかし、信夫佐藤氏、石川氏、岩城氏のいずれも、平泉の奥州藤原氏に服属していた。

奥州藤原氏は後の陸中国域(岩手県)にあたる平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。

いわき市の属していた磐前郡

1180年頃、石城郡の三分割により成立したとされている。

1189年 源頼朝の攻撃を受け奥州藤原氏滅亡。

戦国時代に北関東・東北においては一国以上の領国を持つ戦国大名は少なく中小の地域勢力が分立する傾向をもっていて、栄枯盛衰は止むことは無かった。

江戸幕府の「入組支配」

入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

江戸時代末期の磐前郡支配別

幕府領・天領(29郷)陸奥磐城平藩領地(41郷)、陸奥湯長谷藩飛び地(25郷)、常陸笠間藩飛び地14郷

陸奥棚倉藩飛び地1郷、湯長谷藩預かり地1郷

1664年 上杉氏米沢藩から信夫郡と伊達郡が召し上げられ、会津藩以外の大藩はなくなり、会津と浜通り夜ノ森以北(相馬氏領)を除く県内のほとんどの地域で、江戸時代を通じて小・中藩、天領が入り乱れて激しく変遷した。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日/旧暦6月24日)を挟み、1871年7月14日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革で、その後の離合も含め陸奥国も幾多の目まぐるしい行政変遷にさらされた。

1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)大政奉還

1868年9月23日(旧暦8月8日) - 戊辰戦争後の処分により、幕府領・磐城平藩領・棚倉藩領が磐城平民政局の管轄となる。
1869年1月19日(旧暦明治元年12月7日)陸奥国が分割され、本郡は磐城国の所属となる。


1871年8月29日(旧暦7月14日) - 廃藩置県布告により藩領が磐城平県・湯長谷県・笠間県となる。
1871年12月13日(旧暦11月2日) - 第1次府県統合により平県の管轄となる。
1872年1月9日(旧暦11月29日) - 平県が磐前県に改称。

1873年(明治6年)1月1日(明治5年旧暦12月4日)新政府太陽暦を採用・告示

明治7年(1874年) - 上北方村、下北方村の所属郡が石川郡に変更。
明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により福島県の管轄となる。
明治12年(1879年)1月27日 - 郡区町村編制法の福島県での施行により行政区画としての磐前郡が発足。「菊多磐前磐城郡役所」が平町に設置。

1889年4月1日 - 町村制の施行により現・いわき市域に平町を含む2町16村誕生

1937年6月1日:平町が平窪村と合併して平市となる。

1963年(昭和38年)7月12日 - 当地を含む「常磐・郡山地区」が新産業都市に閣議決定[4]。7月14日に新産業指定都市祝賀パレードを開催[4]。
1964年(昭和39年)3月3日 - 当地を含む「常磐・郡山地区」が新産業都市に指定。

1966年(昭和41年)10月1日 -5市・4町・5村が新設合併し、いわき市が成立。

1973年(昭和48年)3月20日 - 現在の市役所本庁舎開庁。

1976年(昭和51年)9月1日 - 常磐炭鉱完全閉山。
1979年(昭和54年)4月23日 - 「いわきナンバー」の交付開始。自動車のナンバープレートとしては初のひらがなナンバーとなる。
1984年(昭和59年)4月28日 - いわき市立美術館オープン。
同年10月18日 - いわき市石炭・化石館オープン。
1985年(昭和60年)8月1日 - いわきマリンタワーオープン。

1988年(昭和63年)3月24日 - 常磐自動車道・日立北IC-いわき中央IC延伸開通により全線開通。首都圏と高速道で結ばれる

1994年(平成6年)12月3日 - 平駅がいわき駅に名称変更。
同年7月25日 - いわき・ら・ら・ミュウオープン。
同年10月1日 - 西会津IC-津川IC開通により磐越自動車道全線開通
1999年(平成11年)4月1日 - 中核市に指定される。
2000年(平成12年)7月15日 - アクアマリンふくしまオープン。
2007年(平成19年)10月25日 - いわき駅を橋上駅舎化。
2010年(平成22年)8月3日 - 小名浜港が重点港湾に指定される。
2011年(平成23年)3月11日 - 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。いわき市で震度6弱を観測。
同年4月11日 - 福島県浜通り地震が発生。いわき市で震度6弱を観測。翌12日にも6弱を観測。以降、震度5以上の余震が頻発する。

2013年(平成25年)9月1日 - いわき市発足以来初めて福島県内最大都市でなくなる(この日 時点の推計人口がいわき市:327,993人、郡山市:328,112人となり県内最大都市の座を郡山市に明け渡す)。
2015年(平成27年)3月14日 - 上野東京ライン開業により、常磐線の特急列車が品川駅乗り入れを果たし、東京駅までダイレクトアクセスできるようになる。
5月22日 - 第7回太平洋・島サミット(いわき太平洋・島サミット2015)開幕。福島県初の各国首脳級の国際会議となった。
2016年(平成28年)1月1日 - 、この日時点の推計人口が郡山市:335,933人、いわき市:349,190人となり再び県内最大都市となる。
10月27日 - 中核市サミットを本市で初開催。
2018年(平成30年)5月19日 - 第8回太平洋・島サミット開幕。2年ぶりの開催。

 

公開:2018年6月 8日
更新:2022年9月10日

投稿者:デジタヌ


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