狸穴ジャーナル・別冊『旅するタヌキ』

由利本荘市《 タウンヒストリア 》

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秋田県と由利本荘市とは

秋田県

旧令制国出羽国に属していた。
推計人口、985,021人/2018年4月1日

由利本荘市

由利郡に属して本荘城があった旧城下を中心に旧本荘市を中心に平成の大合併で生まれた。
推計人口、76,904人/2018年4月1日

これまでの歩み

今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、定住生活も始まった。縄文時代である。縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。縄文後期の墓地遺跡であるストーン・サークル(環状列石・石籬;せきり)が1931年(昭和6年)に確認された。1951年(昭和26年)と翌年の1952年(昭和27年)にも考古学研究の国営事業として発掘調査が行われたので全国的に知られるようになった。その遺跡は鹿角市の大湯にあり、同規模の2つの環状列石で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡である。やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルある。太平洋戦争中は「神代」(かみよ)の遺跡として扱われた。

大和朝廷と呼ばれる渡来人集団?との闘い


この縄文人に加え西日本では、弥生時代頃から弥生人と呼ばれるユーラシア大陸東部からの移住民が増えたが「雑多な民族」は次第に統一され、近畿地方を中心に統一国家が形成され後に「朝廷」と呼ばれるようになる。

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年大和朝廷の国王に即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.

大和朝廷は8世紀に国号を「日本」と改めた。

秋田県を含む東北地方北部はこの時点で、朝廷に属していなかったために、大和朝廷による侵略活動を進めた。

8世紀の前半に朝廷により、日本海沿岸北辺の交易・征服などの拠点として「出羽柵」が現在の山形県庄内地方に設置されるが、

天平5年12月26日(734年2月4日)、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田市寺内)へ移設されたと大和朝廷側の記録に残っている。

秋田県の所属していた出羽国

現山形県域に当たる出羽郡、田川郡、村山郡、最上郡、置賜郡、櫛引郡

現秋田県域に当たる山本郡、秋田郡、河辺郡、由利郡、仙北郡、平鹿郡、雄勝郡、飽海郡、の14郡からなり、現在の秋田県、山形県、にまたがる広大な郡部を擁していた。

出羽郡 出羽国の祖となった郡で、当初は旧越後国に属していたが、出羽国誕生の際に出羽郡、飽海郡、田川郡の3郡に分かれ、その後中世以降田川郡に編入され消滅した。

由利郡;現由利本荘市、にかほ市、秋田市の一部

760年頃に出羽柵は秋田城に改称された。

780年には出羽国府が秋田に移されたが、蝦夷(エミシ)民族(朝廷に属さない蝦夷:縄文人の末裔?)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び移されることになった。

元慶2年(878年)重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反抗として元慶の乱が起こった

朝廷は新任出羽守の藤原保則を派遣した。保則は反乱の平定に「朝廷側のエミシ」を使うことで成功した。

天慶2年に再び天慶の乱が発生した。

当時はこのようにエミシに対する朝廷の力は絶対的なものでは無かったがその後朝廷に服属する「俘囚の長」と呼ばれたエミシ民族の地方豪族の力は強大になっていった。


朝廷の律令政治が衰えるとともに、(荘園の管理者に当たる木っ端役人供による)私有地の占拠が次第に増え、農民は有力豪族に頼り、蝦夷地の各所には豪族を中心とする武士集団ができた。

豪族は重要拠点に分家を配して勢力を拡げていった。その中から陸奥の(現安倍首相の先祖!)、出羽の清原氏が現れた。

しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が陸奥守として向けられ、七年以上にわたり戦いを繰り広げた。

頼義もわずか三千の自軍のみでは討伐できず、横手付近に根拠をおいた豪族清原光頼に臣下の礼(家来)の形を取り援軍を依頼した。清原光頼は弟・武則を大将とする一万余の兵を出し、安倍氏の討伐に成功した。

しかしこの後、一族争いが起こり、この後に、清衡が奥州藤原氏となった。

奥州藤原氏は四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄え、東北の天地は完全に豪族の自治支配になった。

藤原氏の統治方法は、代々押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使し、併せて朝廷側の「公家供の荘園の管理」も請け負うというものであった。

そこでミニ京都と言われるほどの平泉などに代表される「植民地政策(公家志向)」における「総督」のような立場であった。

つまりは「都」の回し者、「傀儡(かいらい)政権」の親玉に過ぎなかった!

さらに出羽北部である秋田地方では荘園そのものも存在せず、公領(朝廷領地)制一色であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んでいたかは不明であると言われている。

文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設し征夷大将軍となった源頼朝が19万の軍勢を率いて奥州討伐に向かった。

※その後の徳川家康も武家の総領として朝廷より「征夷大将軍」に任じられたが、征夷大将軍とはエミシ(蝦夷)を征伐(征服)する将軍という意味であり、武力をもって領土拡張する為の遠征軍の総大将を任じられたようなものであった。東北各地にとっては随分と失礼な称号でもある!

隆盛を極めた藤原氏も、鎌倉幕府を創設した源頼朝が弟義経が頼った藤原氏を追討することによって打ちくだかれ、藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡を始めたが、河田次郎の裏切りに遭い討ち取られる。

同年12月に挙兵した大河氏の大河兼任も挙兵3か月で討ち取られた。

数世紀にわたった豪族の自治も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となった。

藤原氏を倒した頼朝は、御家人、地頭職を新たに東北各地に配し、東北における大きな政治的転換点となった。頼朝が秋田に配した御家人は成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などであった。

また由利氏は藤原氏に仕えていたが、そのまま由利地方を治めることとなった。

その後、室町幕府のころ日本海北部に勢力を持った安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下し、安東愛季の時代に最盛期を迎えた。

横手盆地には戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力を持っていた。

由利郡は由利氏の一族と地頭であった小笠原氏の子孫などが中小の豪族に分かれ、由利十二頭と呼ばれる勢力になった。

江戸幕府の「入組支配」

入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

複雑に入り組んだ支配で、各支配地(郷)間で待遇(身分)・処遇(年貢)に大きな格差が生じていた。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いて天下の実権を握った。

秋田県下の諸大名は西軍についた小野寺氏以外は一時的に所領は安堵されたが、

慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封(国替え)され、鎌倉以来となる長年の領主と住民のつながりは切れた。

由利郡諸藩

元和8年(1622年)、山形藩主最上氏が改易され、旧最上領は幕府領と中小の大名領に分割された。

由利郡には、関ヶ原の戦い後に転封ないし改易されていた六郷政乗(2万石)、岩城吉隆(2万石)、仁賀保挙誠(1万石)、打越光久(3,000石)などが入部し、それぞれ本荘藩、亀田藩、仁賀保藩、旗本になった。

後に仁賀保氏と打越氏は改易され(仁賀保氏は分家2家が旗本として存続)代わって讃岐国高松藩主だった生駒高俊(1万石)が転封され、矢島藩となっている。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日/旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め武蔵国も幾多の行政変遷にさらされた。


明治維新時点で後の秋田県下に政庁を置いていた藩は以下の5つ(石高は廃藩置県時の値)。この他に盛岡藩領と旗本領(仁賀保二千石家・千石家=旧仁賀保藩主の分家、生駒伊勢居地家=矢島藩主の分家、六郷氏=本荘藩主の分家)があった。

本荘藩 ;出羽国(後の羽後国)の由利郡にあった藩。藩庁は本荘城(現・現由利本荘市の一部)に置かれた。

検地など初期の藩政に久保田藩が協力していたが、その後も藩政干渉を受けたため久保田藩との関係は良くなかった。

矢島藩 ;二代藩主生駒高清が弟の俊明に領地を分知したため大名と見なされなくなり、以後は江戸時代を通じて旗本。戊辰戦争後の明治元年(1868年)に高直しを受けて再度立藩した

亀田藩(、出羽国(羽後国)由利郡現由利本荘市の一部)

久保田藩に同調して新政府軍へ転向したが、山口藩から派遣された監軍の横暴な振る舞いに堪えかね、新政府軍が本荘・亀田を見捨てた際に同盟軍へ再加入して久保田方面の新政府軍を攻撃した。しかし新政府軍の反撃で亀田城も焼失することになった。


1869年6月22日(明治2年旧暦7月30日) - 本荘藩主六郷政鑑、亀田藩主岩城隆彰、矢島藩主生駒親敬が版籍奉還し、各藩知事に就任する。
同年7月26日(旧暦9月2日) - 酒田県が発足し、由利郡の旗本領および亀田藩の減封分を管轄。
1870年9月28日(明治3年旧暦10月17日) - 酒田県が山形県に移転改称する。

1871年7月14日(明治4年旧暦8月29日) - 廃藩置県布告に伴い、秋田県・本荘県・亀田県・矢島県を設置(これを記念して8月29日は県の記念日となっている)。
11月2日(旧暦12月13日) - 第1次府県統合に伴い、上記5県と江刺県のうち鹿角郡全域、および由利郡の山形県管轄分を併せて秋田県(第2次)を設置。

1872年2月4日(旧暦12月26日) - 初代秋田県権令に侍従の島義勇が就任。当面は東京築地新富町の秋田県支庁にて勤務。

1873年(明治6年)1月1日(明治5年旧暦12月4日)新政府太陽暦を採用・告示

1876年(明治9年)2月29日 - 秋田県聴訟課を秋田県裁判所と改め県庁内に開設する。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制が施行され、本荘城下28町と出戸町村、石脇村が合併し、由利郡本荘町が発足する。

1920年(大正9年)2月22日:羽越本線 秋田駅 - 道川駅間 (19.9km) が羽越北線として開業。。

1921年(大正10年)11月15日 - 国鉄陸羽西線・吹浦 - 象潟間延伸開通時 小砂川駅新設

1922年(大正11年)6月30日 羽越線・羽後本荘駅開業

1922年(大正11年)8月1日 横荘鉄道が西線として旧矢島線(現由利高原鉄道鳥海山ろく線)羽後本荘 - 前郷間 (11.6km) を開業

1924年(大正13年)4月20日:羽後亀田駅 - 羽後岩谷駅間 (7.7km) が延伸開業し羽越線秋田県内全通。

7月31日 - 村上駅 - 鼠ヶ関駅間 (41.6km) が延伸開業により羽越本線全線開通。

1936年(昭和11年)
7月30日 - 五能線全線開通。
11月20日 - 尾去沢鉱山鉱滓ダム決壊、死者・行方不明者380名。
1938年(昭和13年)4月27日 - 雄物川放水路の掘削工事完成。
1944年(昭和19年)9月18日 - 台風により死傷者5名。


1954年(昭和29年)3月31日 - 由利郡本荘町が、周辺6村を編入し、市制施行して本荘市となる。

1997年(平成9年)3月22日 - 秋田新幹線開業。
同年4月1日 - 秋田市が中核市へ移行。
同年11月13日 - 秋田自動車道全線開通。同日: 北陸自動車道(現 日本海東北自動車道)として新潟亀田IC - 新潟空港IC間が開通する。

1997年(平成9年)3月22日:秋田新幹線、開業。東

2002年(平成14年)5月26日 : 新潟中央JCT - 新潟空港IC間を北陸自動車道から日本海東北自動車道に改称する。

2002年(平成14年)10月26日 : 日本海東北自動車道岩城IC - 秋田空港IC間が延伸開通する。

2005年(平成17年)本荘市と周辺7町が合併し由利本荘市誕生。

2007年(平成19年)9月17日 : 両前寺仮出入口 - 岩城IC間が開通し本荘インターチェンジ供用開始。秋田市、および秋田自動車道経由で首都圏と繋がる。

 

公開:2018年6月 8日
更新:2022年9月10日

投稿者:デジタヌ


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