狸穴ジャーナル・別冊『旅するタヌキ』

秋田市《 タウンヒストリア 》

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秋田県民会館のある秋田県・秋田市とこれ迄の歩み


今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、定住生活も始まった。縄文時代である。縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。縄文後期の墓地遺跡であるストーン・サークル(環状列石・石籬;せきり)が1931年(昭和6年)に確認された。1951年(昭和26年)と翌年の1952年(昭和27年)にも考古学研究の国営事業として発掘調査が行われたので全国的に知られるようになった。その遺跡は鹿角市の大湯にあり、同規模の2つの環状列石で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡である。やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルある。太平洋戦争中は「神代」(かみよ)の遺跡として扱われた。

大和朝廷と呼ばれる渡来人集団?との闘い


この縄文人に加え西日本では、弥生時代頃から弥生人と呼ばれるユーラシア大陸東部からの移住民が増えたが「雑多な民族」は次第に統一され、近畿地方を中心に統一国家が形成され後に「朝廷」と呼ばれるようになる。

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年大和朝廷の国王に即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.

大和朝廷は8世紀に国号を「日本」と改めた。

秋田県を含む東北地方北部はこの時点で、朝廷に属していなかったために、大和朝廷による侵略活動を進めた。

<※「歴史は繰り返される」の通り江戸末期になって「朝廷」を担ぎ上げた、薩摩、長州を中心とする、「官軍」と奥州連合の東北軍との戊辰戦争が起こり、再度「錦の御旗」の下につるんだ新政府軍に屈することとなり、「白河の関より北にはぺんぺん草も生えない!」と東北日報を引き継いだ現河北新報の創始者「一力健治郎」が嘆いた程の貧困が第2次大戦後の1970年代まで続くこととなった。>

8世紀の前半に朝廷により、日本海沿岸北辺の交易・征服などの拠点として「出羽柵」が現在の山形県庄内地方に設置されるが、天平5年12月26日(734年2月4日)、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田市寺内)へ移設されたと大和朝廷側の記録に残っている。

秋田県の所属していた出羽国

山形県域に当たる出羽郡、田川郡、村山郡、最上郡、置賜郡、櫛引郡

現秋田県域に当たる山本郡、秋田郡、河辺郡、由利郡、仙北郡、平鹿郡、雄勝郡、飽海郡、の14郡からなり、現在の秋田県、山形県、にまたがる広大な郡部を擁していた。

出羽郡 出羽国の祖となった郡で、当初は旧越後国に属していたが、出羽国誕生の際に出羽郡、飽海郡、田川郡の3郡に分かれ、その後中世以降田川郡に編入され消滅した。

田川郡 山形県、東田川郡・鶴岡市および酒田市の一部(概ね最上川以南)にあたる

飽海郡(遊佐郡) 山形県・酒田市の一部と遊佐町(ゆざまち)

村山郡 山形県東村山郡・西村山郡・北村山郡・山形市・寒河江市・上山市・村山市・天童市・東根市・尾花沢市および上山市の大部分(中山を除く)、西置賜郡白鷹町の一部(針生)にあたる
最上郡 山形県東・村山郡・山形市・天童市および西村山郡朝日町、上山市の大部分(中山を除く)、西置賜郡白鷹町の一部(針生)にあたる。
置賜郡 、山形県 南置賜郡が、 東置賜郡 西置賜郡に当たる区域
櫛引郡  現在の山形県・鶴岡市の一部(旧櫛引町、旧藤島町、旧羽黒町、旧朝日村)、庄内町、三川町、酒田市の最上川以南を含むものであったとされている。

檜山郡 現秋田県山本郡・藤里町(ふじさとまち)、三種町(みたねちょう)、八峰町(はっぽうちょう)に当たる。


秋田郡(1878年12月23日に南秋田郡(久保田藩領であった現秋田市の一部地域)と北秋田郡(現、大館市、北秋田市、能代市の一部(二ツ井町小繫・二ツ井町麻生)

河辺郡  現秋田市の一部、大仙市の一部(協和船岡・協和船沢)

由利郡  由利本荘市、にかほ市、秋田市の一部

山本郡( 仙北郡)秋田県大仙市の大部分(協和船岡・協和船沢・角間川町を除く)横手市の一部(金沢・金沢本町・金沢中野・安本) 

平鹿郡 、秋田県横手市の大部分(金沢・金沢本町・金沢中野・安本・雄物川町大沢・増田町荻袋・増田町狙半内・増田町吉野・増田町湯野沢・増田町熊淵・増田町戸波・増田町三又を除く)大仙市の一部(角間川町)

雄勝郡 秋田県羽後町(うごまち)東成瀬村(ひがしなるせむら)湯沢市、横手市の一部



760年頃に出羽柵は秋田城に改称された

780年には出羽国府が秋田に移されたが、蝦夷(エミシ)民族(朝廷に属さない蝦夷:縄文人の末裔?)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び移されることになった。

元慶2年(878年)重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反抗として元慶の乱が起こった。

朝廷は新任出羽守の藤原保則を派遣した。保則は反乱の平定に「朝廷側のエミシ」を使うことで成功した。

天慶2年に再び天慶の乱が発生した。

当時はこのようにエミシに対する朝廷の力は絶対的なものでは無かったがその後「俘囚の長」と呼ばれた朝廷に服属するエミシ民族の地方豪族の力は加速度的に強大になっていった。


朝廷の律令政治が衰えるとともに、(荘園の管理者に当たる木っ端役人供による)私有地の占領が次第に増え、農民は有力豪族に頼り、蝦夷地の各所には豪族を中心とする武士の集まりができた。

豪族は重要拠点に分家を配して勢力を拡げていった。その中から陸奥の(現安倍首相の先祖!)、出羽の清原氏が現れた。

北上川中流以北に勢力を広げていた安部氏に対して朝廷は討伐を企てたのが前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)。

しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が陸奥守として向けられ、七年以上にわたり戦いを繰り広げた。

頼義もわずか三千の自軍のみでは討伐できず、横手付近に根拠をおいた豪族清原光頼に臣下の礼の形を取り参戦を依頼した。光頼は弟・武則を大将とする一万余の兵を出し、安倍氏の討伐に成功した。

しかしこの後、武則の孫の代にいたって一族争いが起こり、これが後三年の役(永保3年(1083年) - 応徳4年/寛治元年(1087年))であり。この戦の後に、清衡が奥州藤原氏として栄えた

奥州藤原氏は初代の清衡から二代基衡、三代秀衡を経て四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄え、東北の天地は完全に豪族の支配下になった。

藤原氏の支配原理は、代々押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使し、併せて荘園の管理も請け負うというものであった。出羽北部である秋田地方では荘園が存在せず、公領制一色の世界であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問であるとされている。

頼朝は文治5年(1189年)、19万の軍勢を率いて奥州討伐を行った。隆盛を極めた藤原氏も、鎌倉幕府を創設した源頼朝が平泉の藤原氏にのがれた弟義経を追討することによって打ちくだかれ、藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡を始めたが、裏切りに遭い、河田次郎によって討ち取られる。同年12月に挙兵した大河氏の大河兼任も挙兵3か月で討ち取られた。

数世紀にわたった豪族の天下も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となった。

藤原氏を倒した頼朝は、御家人、地頭職を新たに東北各地に配し、東北における大きな政治的転換点となった。頼朝が秋田に配した御家人は成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などであった。

また由利氏は藤原氏に仕えていたが、そのまま由利地方を治めることとなった。

その後、日本海北部に勢力を持った安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下し、安東愛季の時代に最盛期を迎えた。

横手盆地には戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力を持っていた。

由利郡は由利氏の一族と地頭であった小笠原氏の子孫などが中小の豪族に分かれ、由利十二頭と呼ばれる勢力になった。

江戸幕府の「入組支配」


入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

複雑に入り組んだ支配で、各支配地(郷)間で待遇(身分)・処遇(年貢)に大きな格差が生じていた。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いて天下の実権を握った。秋田県下の諸大名は西軍についた小野寺氏以外は一時的に所領は安堵された。

慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封(国替え)され、鎌倉以来となる長年の領主と住民のつながりは切れた。

久保田藩

出羽国(後の羽後国)秋田・現秋田市域

慶長7年(1602年)、秋田郡を領有していた秋田実季(安東氏から改姓)などと入れ替わりで、関ヶ原の戦いで西軍に内通していた佐竹氏が常陸国から転封され、久保田藩を立藩する。初代藩主は佐竹義宣。義宣ははじめ秋田氏の居城であった湊城(現在の秋田市土崎港)に本拠を置いたが、まもなく神明山(秋田市千秋公園)に久保田城を築いて居を移した。また、一国一城令の例外として、横手城・大館城が支城として存続した(檜山城・角館城などは破却)。組織としては、領内統治を担当する家老の下に財政担当の勘定奉行、城下支配の久保田奉行、そのほか能代奉行、各郡の郡奉行、鉱山支配の銅方奉行、山林支配の木山奉行などを配した。このような藩の組織機構の下、直接生産を営む農民と、その中間の商人・職人が位置づけられ、新たな時代の生活が始まった。

常陸時代には54万石の大大名であった佐竹氏は、明治まで表高20万石の久保田藩を治めることになった。実高は新田開発などで田地が増し、40万石くらいであったとされる。領内に存在した院内銀山や阿仁銅山などの諸鉱山、および全国的に著名な秋田杉なども久保田藩の収入源となったが、常陸時代以来の過大な家臣団が財政を圧迫し、幾度も財政改革を行う必要に迫られた。

久保田藩からは思想家の佐藤信淵・平田篤胤・安藤昌益や、秋田蘭画を切り開いた佐竹義敦・小田野直武らが出ている。「エレキテル」で知られる博物学者平賀源内は久保田藩の依頼で阿仁銀山をおとずれ、途中立ち寄った角館で小田野直武に遠近法を伝えたといわれる。享保年間には鈴木定行と加藤政貞の2名が古来の観音信仰にもとづき、秋田六郡三十三観音霊場の古跡をたずね、巡礼歌を添えた巡礼記をのこした。

由利郡諸藩


元和8年(1622年)、山形藩主最上氏が改易され、旧最上領は幕府領と中小の大名領に分割された。このうち由利郡には、関ヶ原の戦い後に転封ないし改易されていた六郷政乗(2万石)、岩城吉隆(2万石)、仁賀保挙誠(1万石)、打越光久(3,000石)などが入部し、それぞれ本荘藩、亀田藩、仁賀保藩、旗本になった。後に仁賀保氏と打越氏は改易され(仁賀保氏は分家2家が旗本として存続)、代わって讃岐国高松藩主だったがお家騒動で改易された生駒高俊(1万石)が転封され、矢島藩となっている。

本荘藩領にあった象潟は全国的に著名な景勝地であったため、松尾芭蕉・雷電爲右エ門らがこの地を訪れている。文化元年(1804年)の象潟地震で隆起し、潟湖から陸地へ、そして農地へと変わったが、蚶満寺住職の覚林による自然保護運動により、かつての小島であり景観の基である丘が残された。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日/旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め武蔵国も幾多の行政変遷にさらされた。


明治維新時点で後の秋田県下に政庁を置いていた藩は以下の5つ(石高は廃藩置県時の値)。この他に盛岡藩領と旗本領(仁賀保二千石家・千石家=旧仁賀保藩主の分家、生駒伊勢居地家=矢島藩主の分家、六郷氏=本荘藩主の分家)があった。

久保田藩(ほぼ現秋田市域)

- 藩主は佐竹氏。225,800石。うち5,800石は下野国にあった飛び地の分、2万石は戊辰戦争後の加増。


岩崎藩

久保田藩の支藩で「久保田新田藩」と呼ばれ、江戸時代を通じて領地を持たず本藩から蔵米を支給されていた。終戦後、雄勝郡岩崎へ移転して岩崎藩と改称したがの廃藩置県のため、僅か3ヶ月しか存続しなかった。

※(明治初期の久保田藩・岩崎藩)
1869年6月17日(旧暦明治2年7月25日) - 久保田藩主佐竹義尭が版籍奉還し、久保田藩知事に就任する。久保田城は陸軍省の管理下に置かれ、政庁は三ノ丸下中城の渋江内膳邸(後に新築された佐竹義尭邸)へ移る。
6月 - 久保田新田藩が岩崎藩へ移転改称。
10月 - 岩崎藩が久保田藩保証の下で、高知藩を通じオランダ・アテリアン商会から15万5千両を借り受け、蒸気船「八坂丸」を購入し国際貿易に着手しようとする。八坂丸が回航中に難破したこともあってこの事業は失敗し、最終的に久保田藩が33万4千両の不渡りを出して国際問題になる(八坂丸外債事件)[9]。
1870年2月24日(旧暦明治3年3月25日) - 岩崎藩主佐竹義理が版籍奉還し、岩崎藩知事に就任する。
明治4年(1871年)
1月9日(2月27日) - 久保田藩が政府へ藩名変更の願書を提出する。理由は、当地方は古来「秋田」と呼ばれたものであり、「久保田」は300年来の称とはいえ一小村の俗称に過ぎないことから[10]。
1月13日(3月3日) - 久保田藩を秋田藩と改名[10]。
4月 - 岩崎藩が岩崎藩陣屋を建立。

本荘藩 -

、出羽国(後の羽後国)の由利郡にあった藩。藩庁は本荘城(現・現由利本荘市の一部)に置かれた

検地など初期の藩政に久保田藩が協力していたが、その後も藩政干渉を受けたため久保田藩との関係は良くなかった

矢島藩 -

藩主は生駒氏。15,200石。二代藩主生駒高清が弟の俊明に領地を分知したため大名と見なされなくなり、以後は江戸時代を通じて旗本。戊辰戦争後の明治元年(1868年)に高直しを受けて再度立藩した


慶応4年(1868年)に起こった戊辰戦争で、久保田藩ら出羽諸藩は朝敵扱いされた会津藩・庄内藩の赦免嘆願のため奥羽越列藩同盟に加わる。しかし、久保田藩内の勤皇派がクーデターを起こして久保田藩は一転新政府側となったため(前後して久保田新田藩=後の岩崎藩、本荘藩、矢島藩および現山形県の新庄藩も転向)、他の奥州諸侯の標的とされて秋田戦争が勃発した。

佐賀藩や鹿児島藩などの救援を受けて最終的に勝利したものの、大館城・横手城・本荘城と矢島陣屋は落城し、広範囲の土地が荒廃した。

亀田藩(、出羽国(羽後国)由利郡現由利本荘市の一部)

久保田藩に同調して新政府軍へ転向したが、山口藩から派遣された監軍の横暴な振る舞いに堪えかね、新政府軍が本荘・亀田を見捨てた際に同盟軍へ再加入して久保田方面の新政府軍を攻撃した。しかし新政府軍の反撃で亀田城も焼失することになった


※(明治初期の由利郡)
1869年6月22日(明治2年旧暦7月30日) - 本荘藩主六郷政鑑、亀田藩主岩城隆彰、矢島藩主生駒親敬が版籍奉還し、各藩知事に就任する。
同年7月26日(旧暦9月2日) - 酒田県が発足し、由利郡の旗本領および亀田藩の減封分を管轄。
1870年9月28日(明治3年旧暦10月17日) - 酒田県が山形県に移転改称する。

※(明治初期の陸奥国(陸中国)鹿角郡)


明治元年12月7日(1869年1月19日) - 盛岡藩領の鹿角郡が弘前藩取締地になる。
1869年2月8日(明治2年旧暦3月20日) - 鹿角郡が黒羽藩取締地に変更され、北奥県を称する。
同年8月7日(9月12日) - 北奥県の区域をもって九戸県を設置。
9月13日(10月17日) - 九戸県が八戸県に改称。
9月19日(10月23日) - 八戸県が八戸藩との混同を避けるため三戸県に改称。
11月28日(12月30日) - 三戸県が斗南藩と江刺県に分割され、鹿角郡は江刺県管轄となる。

1871年7月14日(明治4年旧暦8月29日) - 廃藩置県布告に伴い、秋田県・本荘県・岩崎県・亀田県・矢島県を設置(これを記念して8月29日は県の記念日となっている)。
11月2日(12月13日) - 第1次府県統合に伴い、上記5県と江刺県のうち鹿角郡全域、および由利郡の山形県管轄分を併せて秋田県(第2次)を設置。県令・権令の発令はなく、江刺県大参事の村上光雄が秋田県参事に任じられる[11]。
11月14日(12月21日) - 久保田藩の飛び地からそのまま秋田県管下となっていた、下野国河内郡の7ヶ村が宇都宮県へ、同都賀郡の4ヶ村が栃木県へ移管される。これにより、十和田湖上の境界未定箇所を除き現在の県域が確定(十和田湖上の確定は2008年)。
12月26日(1872年2月4日) - 初代秋田県権令に侍従の島義勇が就任。当面は東京築地新富町の秋田県支庁にて勤務[12]。
明治5年(1872年)
2月26日(4月3日) - 島権令、秋田長野町の旧佐竹北家邸に入る[8]。
3月13日(4月20日) - 久保田城本丸に秋田県庁を開庁。
7月20日(8月23日) - 第2代秋田県令に宮内大丞の杉孫七郎が任命される[13][14]。
10月12日(11月12日) - 県庁を秋田東根小屋町の本部学校(旧明徳館)へ移す[13][15]。

1873年(明治6年)1月1日(明治5年旧暦12月4日)新政府太陽暦を採用・告示

1873年(明治6年)2月18日 - 秋田東根小屋町に秋田県初の公立小学校(変則小学校、後の日新学校)が設立される[16]。
5月? - 第3代秋田県権令に木更津県参事の国司仙吉が任命される。
8月24日 - 県庁聴訟課より出火し庁舎全焼。下中城の渋江邸に県庁を移す]。


11月27日 - 秋田長野町の空き官舎(旧佐竹北家邸、初代島権令の離任後は使われていなかった)を改築して県庁とする。
12月 - 秋田五丁目横町に聴訟課監視掛付属屯所を設立し「巡邏逮捕之事務取扱」を発令。秋田中央警察署の起源とされる。

1874年(明治7年)1月22日 - 県病院を開設。
2月2日 - 遐邇新聞(秋田魁新報の前身)が創刊。
3月25日 - 秋田郵便取扱所を開設。
5月12日 - 秋田東根小屋町の旧県庁跡[21]に、伝習学校と洋学校を併せた太平学校の校舎が新築落成[22]。
7月1日 - 太平学校が開校[22]。
8月 - 羽州街道・雄物川・米代川を二等道路・河川(県費で維持管理する道路・河川)とする[23]。

1875年(明治8年) - 県庁内に警察署を、秋田町・大館町・横手町に警察出張所を、県内35か所に分屯所を設立[20]。
3月5日 - 北国街道(酒田街道)が二等道路に昇格する[23]。
5月19日 - 第4代秋田県権令に工部省記録局長の石田英吉が任命される[18][24]。

1876年(明治9年)
2月29日 - 秋田県聴訟課を秋田県裁判所と改め県庁内に開設する[25]。
3月
秋田土手谷地町の佐竹義純邸を県が購入し秋田博物館とする[26]。
八橋村の官有地3,888坪を県が確保し、八橋植物園を創設する[27]。
4月
県庁警察署内にあった第一警察出張所が秋田大町三丁目に庁舎新築し、秋田警察署となる[25]。
広小路が二等道路に昇格する[23]。
12月 - 秋田県裁判所を青森裁判所秋田支庁とし、秋田区裁判所と共に県庁内で事務を行う[25]。
1877年(明治10年)
1月 - 秋田東根小屋町に裁判所庁舎を新築し、青森裁判所秋田支庁・秋田区裁判所とも移転[25]。
1月15日 - 太平学校が焼失する[28]。
4月 - 青森裁判所の弘前移転を受けて、青森裁判所秋田支庁を弘前裁判所秋田支庁に改める[25]。
5月15日 - 秋田博物館にて第1回秋田博覧会を開催する[26]。
1878年(明治11年)
4月12日 - 太平学校を同地に再建する[28]。
4月17日
太平学校を秋田県師範学校と改称する[28]。
県内の区長・戸長・町村総代人、計36人を集めて県会を設立[29]。
8月 - 八橋植物園に秋田博物館を新築移転[27]。
8月10日-10月8日 - 八橋植物園にて第2回秋田博覧会を開催[27]。
11月29日 - 第1回種子交換会(秋田県種苗交換会の前身)開催。
12月10日 - 秋田電信分局が開局。
12月23日 - 郡区町村編制法施行にともない、秋田郡を分割して北秋田郡と南秋田郡を設置。
1879年(明治12年)
1月4日 - 秋田茶町菊ノ丁に第四十八国立銀行(秋田銀行の前身)が開業[30]。
2月下旬 - 第1回県会議員選挙が行われ、33人が選出される[29]。
3月20日 - 第1回秋田県議会が秋田東根小屋町の秋田県師範学校にて開会[31]。
1880年(明治13年)4月19日 - 秋田土手長町に県庁新庁舎が落成。昭和32年に全焼するまで使用された[32]。
1889年(明治22年)
4月1日 - 市制・町村制施行により明治の大合併が行われる。県内では南秋田郡秋田町が唯一市制施行し、秋田市となる。
7月3日 - 秋田馬車鉄道(秋田市電の前身)、秋田・土崎間で営業開始。

1894年(明治27年)12月1日:奥羽本線大富本銭青森駅 - 弘前駅間が開業。

1895年(明治28年)5月3日 - 増田銀行(北都銀行の前身)が開業。
1898年(明治31年)9月20日 - 歩兵第十七連隊、仙台から秋田への移駐を完了。
1899年(明治32年)6月21日 -

1899年(明治32年)6月21日:奥羽本線碇ケ関駅 - 白沢駅間が延伸開業し 陣場駅・白沢駅(県内初の鉄道駅)が開業。。
同年11月15日:白沢駅 - 大館駅間が開業。


1901年(明治34年)11月14日 - 近江谷発電所が秋田市、南秋田郡土崎港町に電力供給を開始。

1902年(明治35年)10月21日 奥羽本線五城目駅 - 秋田駅間が延伸開業により秋田駅開業。

1904年(明治37年)
8月21日:奥羽本線和田駅 - 神宮寺駅間が開業。
12月21日:奥羽本線神宮寺駅 - 大曲駅間が開業。
1905年(明治38年)6月15日:奥羽本線大曲駅 - 横手駅間が開業により秋田と繋がる。

1905年(明治38年)7月5日:奥羽本線院内駅 - 湯沢駅間延伸開業により秋田県内全通。

1905年(明治38年)9月14日:奥羽本線湯沢駅 - 横手駅間が延伸開業により福島駅 - 山形ー秋田ー青森駅間が全通。


1905年(明治38年) - 9月14日 - 奥羽本線全線開通。

1914年(大正3年)
3月15日 - 強首地震、死者94名。
5月26日 - 日本石油黒川油田でロータリー式五号井が大噴油。

1914年(大正3年)7月1日 大館 - 扇田間を秋田鉄道(旧花輪線)新規開業、片山停留場・東大館駅・池内停留場・扇田駅を新設[7]

1915年(大正4年)12月25日 秋田鉄道・大滝温泉 - (貨)毛馬内間を延伸開業、十二所・尾去沢・毛馬内(初代)の各貨物駅を新設[9]

1916年(大正5年)12月16日 - 船川軽便線(現在の男鹿線)全線開通。
1917年(大正6年)8月1日 - 日本銀行秋田支店を開設。
1919年(大正8年)8月24日 - 小坂鉱山労働争議。

1920年(大正9年)2月22日:羽越本線 秋田駅 - 道川駅間 (19.9km) が羽越北線として開業。。

1921年(大正10年)2月25日 - 『種蒔く人』発行。

1921年(大正10年)6月25日:盛岡 - 雫石間 (16.0km) が橋場軽便線として田沢湖線(現秋田新幹線)新規開業

1921年(大正10年)11月15日 - 国鉄陸羽西線・吹浦 - 象潟間延伸開通時 小砂川駅新設

1922年(大正11年)6月30日 羽越線・羽後本荘駅開業

1922年(大正11年)8月1日 横荘鉄道が西線として旧矢島線(現由利高原鉄道鳥海山ろく線)羽後本荘 - 前郷間 (11.6km) を開業

1923年(大正12年)11月10日 毛馬内 - 陸中花輪間(現鹿角花輪駅)を延伸開業、

1924年(大正13年)4月20日:羽後亀田駅 - 羽後岩谷駅間 (7.7km) が延伸開業し秋田県内全通。
7月31日 - 村上駅 - 鼠ヶ関駅間 (41.6km) が延伸開業により羽越本線全線開通。
11月12日 - 横黒線(現在の北上線)全線開通。
1926年(大正15年)3月8日 - 小坂鉱山煙害賠償労働争議。
1929年(昭和4年)11月27日 - 前田村争議が和解。
1931年(昭和6年)10月17日 - 国鉄花輪線・田山 - 陸中花輪間延伸開業により花輪線全線開通。
1932年(昭和7年)7月5日 - NHK秋田放送局が放送開始。

1934年(昭和9年)6月1日 秋田鉄道を買収・国有化し花輪線に編入。

1934年(昭和9年)12月10日 阿仁合線(現秋田内陸鉄道)鷹ノ巣 - 米内沢 (15.1km) 【駅新設】羽後上大野、米内沢

1935年(昭和10年)3月20日 - 日本鉱業八橋油田で上総式四号井が大噴油。
1936年(昭和11年)
7月30日 - 五能線全線開通。
11月20日 - 尾去沢鉱山鉱滓ダム決壊、死者・行方不明者380名。
1938年(昭和13年)
4月27日 - 雄物川放水路の掘削工事完成。
1938年(昭和13年)10月21日 西滝沢 - 羽後矢島間 (7.3km) 延伸開業で矢島線・全線開通。
1939年(昭和14年)5月1日 - 男鹿地震、死者26名。
1940年(昭和15年)9月26日 - 山本郡能代港町・東雲村・榊村が合併・市制施行し、能代市となる。
1941年(昭和16年)10月20日 - 秋田・第四十八・湯沢の各銀行が合併して秋田銀行となる。
1944年(昭和19年)
5月9日 - 花岡鉱山で落盤、遭難22名。
9月18日 - 台風により死傷者5名。
1945年(昭和20年)
7月5日 - 第1次横手空襲。
8月10日 - 第2次横手空襲。
8月14日 - 土崎空襲。
1949年(昭和24年)5月31日 - 秋田師範学校、秋田青年師範学校および秋田鉱山専門学校を母体として、秋田大学が発足。
1951年(昭和26年)
1月19日 - 秋田港を重要港湾に指定。
4月1日 - 旧横手市、大館市発足。
1954年(昭和29年)
3月31日 - 旧男鹿市、旧湯沢市、本荘市発足。
5月3日 - 大曲市発足。
1957年(昭和32年)8月12日 - 県庁全焼[32]。
1959年(昭和34年)12月 - 秋田市川尻町字八千刈(現在の山王四丁目)に新築した県庁新庁舎へ移転[32]。
1961年(昭和36年)
9月26日 - 初代・秋田空港が開港。
10月8日-13日 - 第16回国民体育大会(秋田国体(民泊国体、まごころ国体))秋季大会を開催。

1963年(昭和38年)10月15日  阿仁合 - 比立内 (13.0km)延伸開業・阿仁合線 全通。

1964年(昭和39年)9月15日 - 八郎潟干陸式、大潟村発足。
1965年(昭和40年)11月1日 - 秋田湾地域を新産業都市に指定。
1966年(昭和41年)10月20日 - 1966年(昭和41年)10月20日:生橋線赤渕 - 田沢湖間 (18.1km) の延伸が完成し開業、田沢湖線全線開通。
1970年(昭和45年)4月1日 - 秋田大学に医学部を設置。

1970年(昭和45年)11月1日 角館線 角館 - 松葉間 (19.2km)延伸開業により角館ー鷹ノ巣間現秋田内陸鉄道全通
1972年(昭和47年)4月1日 - 鹿角市発足。
1978年(昭和53年)11月15日 - 大沢郷郵便局および強首郵便局の電話交換業務廃止。秋田県内の電話通話が完全自動化。
1981年(昭和56年)6月26日 - 新・秋田空港が河辺郡雄和町(現:秋田市)に開港(滑走路2,500m)。
1982年(昭和57年)8月4日 - 秋田市、河辺郡河辺町、雄和町がテクノポリス開発構想策定地域に指定。
1983年(昭和58年)5月26日 - 日本海中部地震が発生、県内で死者83名。

1983年(昭和58年)10月20日 :東北自動車道 安代IC - 鹿角八幡平IC間開通。県内初の高速道路となる。

1984年(昭和59年9月27日 : 東北自動車道鹿角八幡平IC - 十和田IC間延伸開通。

1986年(昭和61年)7月30日 : 十和田IC - 碇ヶ関IC間開通。


11月20日 - 鹿角市がテレトピア構想モデル都市に選定。
1989年(平成元年)4月1日 - 秋田内陸線全線開通。

1991年(平成3年)7月25日 秋田自動車道・横手IC - 秋田南IC間開通。これにより、秋田市を通過する初めての高速道路が開通した。

1993年(平成5年)4月1日 - 羽後銀行と秋田あけぼの銀行が合併し、北都銀行が発足。

1994年(平成6年)
8月4日:北上JCT - 北上西IC間秋田自動車道延伸開通により東北自動車道と接続。

1997年(平成9年)
3月22日 - 秋田新幹線開業。
4月1日 - 秋田市が中核市へ移行。
11月13日 - 秋田自動車道全線開通。

1997年(平成9年)3月22日:秋田新幹線、開業。東京 - 秋田間に「こまち」がE3系5両編成で運行開始。東北新幹線内は200系やE2系と併結。

1998年(平成10年)7月18日 - 県営・大館能代空港開港(457億円)。
1999年(平成11年)7月9日 - 秋田港に定期フェリー便就航(新日本海フェリー:苫小牧 - 秋田 - 新潟 - 敦賀)。
2000年(平成12年)8月22日-25日 - 「2000年国連軍縮秋田会議」を開催。
2001年(平成13年)
8月16日-26日 10月29日 - 秋田空港に国際定期便就航(大韓航空:秋田 - ソウル)。
2005年(平成17年)
3月22日 - 男鹿市・若美町が合併し、新たに男鹿市となる。湯沢市と雄勝郡2町1村が合併し、新たに湯沢市となる。由利本荘市、潟上市、大仙市、北秋田市発足。
9月20日 - 仙北市発足。
10月1日 - 横手市と平鹿郡5町2村が合併し、新たに横手市となる。にかほ市発足。
2006年(平成18年)3月21日 - 能代市と二ツ井町が合併し、新たに能代市となる。
2007年(平成19年)
1月27日-10月9日 - 第62回国民体育大会(秋田わか杉国体)を開催。

2007年(平成19年)8月12日:秋田自動車道・能代東IC - 二ツ井白神IC間が一般国道7号琴丘能代道路として開通。

10月13日-15日 - 第7回全国障害者スポーツ大会(秋田わか杉大会)を開催。
2008年(平成20年)12月25日 - 廃藩置県以来境界未定のままであった、十和田湖上の秋田県・青森県境が確定する。

2013年(平成25年)11月30日:大館北IC(釈迦内仮出入口から改称) - 小坂JCT間開通により東北自動車道と秋田県内で初接続。

2017年(平成29年)4月1日 - 県全体の推計人口が100万人を下回る。

2018年(平成30年)3月21日:大館能代空港IC - 鷹巣IC間(一般国道7号鷹巣大館道路)が開通。

 

公開:2018年6月 8日
更新:2022年9月10日

投稿者:デジタヌ


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