祇園祭 《 お祭り ナビ 》山鉾巡行 夏の京都の恒例イベント
2018年のこのイベントはすでに終了しています。
次回をお楽しみに!
Official Website https://www.kyokanko.or.jp/gion/
祇園祭のあらまし
- 7月23日四条烏丸 (午前9時00分) →四条河原町(9:35) → 河原町御池 (10:20) → 新町御池(11:20)
- 24日後祭巡行コース;(約2.5km)
- 7月24日 烏丸御池駅前(9:30)→京都市役所前(10;00)→河原町駅前→四条・烏丸駅(11:20)
- ※公式ガイドはこちら
毎年7月1日(吉符入)から31日(疫神社夏越祭)まで、1ヶ月にわたっておこなわれる、夏の京都の風物詩祇園祭は、八坂神社の祭礼で、大阪の天神祭・東京の神田祭とともに、日本三大祭のひとつに挙げられており、その歴史の長いこと、またその豪華さ、祭事が1ヶ月にわたる大規模なものであることで広く知られている。
祇園御霊会としてこの祭は1000年の伝統を誇っており、再三中断、再興をかさねて京都の歴史とともに歩んできた。
一般には、17日(前祭・山鉾巡行と神幸祭)と24日(後祭・山鉾巡行と還幸祭)その宵山が広く知られているが、実に多彩な祭事もおこなわれる。
およそ1100年前、神泉苑に日本全国の国の数の鉾66本を立て、祇園の神を祀り災厄の除去を祈る祇園御霊会を行ったのが始まりと伝承されている。
祭のハイライト、17日と24日に行われる33基の山鉾巡行
「京都祇園祭の山鉾行事」はユネスコ無形文化遺産にされている。
2014年には49年ぶりに、7月17日の前祭巡行(23基の山鉾)と24日の後祭巡行(10基の山鉾)の2度の祇園祭山鉾巡行が再現された。
鉾が今のような形になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて貿易がおこり、町衆階級が勃興して舶来のゴブラン織や西陣織などが競って用いられるようになってからと言われている。
祇園祭の観光プラン
イベントデータ
- 開催地 京都市
- 開催要領 毎年
- 運営組織/主催者 町衆/広域財団法人京都市観光協会。
- イベント内容 お祭り、イベント
- 併催イベントその他
デジタヌの知っておきたい豆知識
祇園祭の催行される京都市とこれ迄の歩み
京都府の府庁所在地で1000年の都として有名な古都。
歴史におんぶされ、歴史にしがみついている、町であると同時に、一方では日本初の「水力発電所」日本初の「チンチン電車」「近畿初の地下鉄道」など数多くの時代の最先端をゆく事業も興している。
又1966年日本で最初の国立の会議施設として国立京都国際会館をいち早く完成させ、国際会議を定着させ近年1997年には第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)を開催し「京都議定書」を採択するなど、国際都市としての活動も活発。
2016年に 左京区と右京区の一部が京都丹波高原国定公園に指定され、都道府県庁所在地にある国定公園は珍しい存在となっている。
推計人口、1,466,937人/2018年4月1日
京都-品川 2時間11分/13,910円/新幹線/506.8km
京都市のこれまでの主立った出来事
京都は、桓武天皇が784年の長岡京に続いて、794年平安京に遷都したことに始まる千年の都。
建設開始から12年後に、民苦を理由として新京造営を司る造宮職(ぞうぐうしき)が廃止され、計画された右京区の約半分が未完成のまま、平安京の建設は終了したらしい。
近年・考古学的には平安京は整然とした都市ではなく、左京に偏った都市になっていたと判明している。
その後南朝が衰微して室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる市民による自治の伝統が生まれた。
応仁の乱で市街北側の大半が焼失し荒廃した。その後もたびたび戦乱に巻き込まれることとなる。
この頃、京都はそれぞれ「構」によって囲まれていた上京と下京に分かれ、その間は畑になっていたといわれ、室町通でかろうじてつながっていたとされている。
この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。
秀吉の都市改造は大規模なもので、巨大な環状の御土居(おどい)の築造による、戦乱によって領域が曖昧になっていた京都の内側と外側(洛中、洛外)の確定(線引き)を行い、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、御土居の構築、洛中に散在していた寺をあつめた寺町や寺之内の建設などを行い、現在の京都の町並みの基礎を造った。
秀吉の没後も徳川家康が伏見城に入り伏見は引き続き政治の中心地であった。
1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が伏見城にて征夷大将軍に任官され、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。
江戸幕府が誕生すると政治の中枢は徐々に伏見から江戸に移ったものの、こうした政都の移動にもかかわらず京都は国都であることに変わりはなく、徳川政権は、幕府の京都の拠点として二条城を築き、京都所司代・京都町奉行を設置して直轄下に置いた。
政情が不安定になった幕末には京都守護職が置かれ、その下で新撰組や見廻組が倒幕派の摘発を担ったのはよく知られている。
1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。京都には京都府が置かれた。しかし、天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された。
慶応4年4月25日(新暦1868年5月17日)- 京都裁判所を京都府に改称。
明治元年10月13日(1868年11月26日) - 明治天皇が初めて東京に行幸し、江戸城西の丸に入った時をもって江戸城は行宮となり、その名は「東京城」へと改称される。これら一連の手続きをもって東京奠都が推し進められ、京都は事実上の"旧都"となってゆく。
12月8日(1869年1月20日) - 天皇が、京都の御所へひとまず還幸すべく、東京城を出立する。御所には12月22日(同年2月3日)到着。
明治2年1月末3月28日(1869年5月9日) - 東京奠都の完遂(天皇の東京への完全移転)/天皇の東京への2度目の行幸で、崩御するまで、東京城を拠点として東京に居住し続けることとなり、東京城はその名も「皇城」と呼ぶこととなった。
1871年(明治4年)までに、刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃止され、中央行政機関が京都から消えていった。
明治5年3月13日(新暦1872年4月20日) 5月某日 - 天皇が京都御所に戻る際、「還幸」ではなく「行幸」という語が初めて用いられる。
1877年(明治10年)某月某日 - 「即位の礼」と「大嘗祭」は(従来と変わらず)京都で行うと規定される。
同年以降現在まで日本の首都は東京と認識されている。それにより以前の人口の3分の2まで落ち込み、京都の急激な衰退を招いた。
同年2月6日 - 工部省管轄の官設鉄道東海道本線の京都線(国鉄京都線、JR京都線の前身)が開通し、終着駅として京都停車場(現・京都駅)が開業/神戸と大阪を結ぶ神戸線(国鉄神戸線、JR神戸線の前身)を延伸する形で開通した。
1889年(明治22年)4月1日 - 上京区および下京区が合体(新設合併)したうえで市制を施行し、京都市を発足。
1890年(明治23年)- 琵琶湖疏水の第一期工事が完成。
1891年(明治24年)11月 - 琵琶湖疏水の水を用いて、日本初の水力発電所となる蹴上発電所が稼動開始。
2月1日 - 日本初の電気鉄道として京都電気鉄道(後に京都市電となる)の開業。
10月25日 - 平安神宮が第1回時代行列(後付の名称としては第1回時代祭)を開催
1931年(昭和6年)3月31日 - 京阪電気鉄道新京阪線(今の阪急電鉄京都線)の大宮乗り入れにより、近畿地方初の地下鉄道線開業。
1964年(昭和39年)10月1日 - 東海道新幹線京都駅開業。
2016年(平成28年)3月25日 - 左京区と右京区の一部が京都丹波高原国定公園に指定される。
祇園祭のこれまでの歩み
祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったと伝えられているが定かでは無い。
御霊会とは疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭
863年(貞観5年)朝廷は疫病の流行により、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。
864年(貞観6年)から富士山の大噴火、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、世情不安が深刻化する中で卜部日良麿が全国の国の数を表す66本の矛を立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったなどと伝えられており、公式にはこの時の御霊会が祇園祭の起源とされているが定かでは無い。
考古学的には現在の催事の形態は鎌倉時代末期に確定したのでは...
現在の山鉾巡行の原形とされる行事は、「鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである」と言う内容が鎌倉時代末期の古文書『花園天皇宸記』に元亨元年7月24日(1321年8月18日)付けで残されており、この頃と推察されている。
室町時代に至り、四条室町を中心とする旧・下京地区に町衆の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになったと伝えられている。
室町時代中期には有名な「洛中洛外図」に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したと推察されているが現在見られるような山鉾がともなうようになった時期は正確には判明していない。
応仁の乱による33年間の中断を経て1533年(天文2年)には、延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことをうかがわせる。この時期に現在に続く山鉾の数と名称が固定したと伝えられている。
江戸時代に発生した京都の三大火事によって、祇園祭も大きな被害を受けた。
2度目の天明の大火(1788年(天明8年))の被害は大きく、函谷鉾は復興に50年を要した。
その後の山鉾復興は、化政文化の波に乗り、山鉾の大型化、部品・懸装品の華美化が進み、曳山の多くも仮屋根から、鉾と変わりない千鳥破風をかけるようになった。
幕末「禁門の変」によって発生したどんどん焼け(1864年(元治元年)では、山鉾町に多大な被害をもたらし、ほぼ無事だったのは長刀鉾・函谷鉾・月鉾・岩戸山・霰天神山・伯牙山・保昌山だけであった。
幕末の混乱期以後、菊水鉾・大船鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾は長い間断絶したままであった。
明治維新以後、山鉾巡行を支えていた寄町制度が廃止され、行事の存続が危ぶまれる時期も合ったが町衆の努力で復興した。
第二次世界大戦で中断はあったが、1947年(昭和22年) 長刀鉾と月鉾が戦後初めて建てられ、長刀鉾のみ四条寺町までの往復という形での戦後初の巡行を復活させた。
1980年代に入り中絶していた「休み山」(焼山)菊水鉾を皮切りにして次々に復興した
1986年(昭和61年)以降、各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を勧めるところが多くなっている
1966年〈昭和41年〉 - 2013年〈平成25年〉の、高度経済成長期に交通事情の悪化により前祭・後祭を統合して合同巡行の形態をとっていた。
2013年(平成25年)8月に後祭が復活し2014年(平成26年)の巡行から前祭の23基と後祭の10基に分かれて宵山や巡行を別日程で行うことになった。
公開:2017年8月20日
更新:2018年11月 7日
投稿者:デジタヌ
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