狸穴ジャーナル・別冊『音動楽人(みゅーたんと)』

S. Celibidache《 Maestro Navi 》セルジュ・チェリビダッケ

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若いころから、聴衆を魅了した半面、完ぺきを求めるあまり楽員からは嫌がられ、第2次大戦後WilhelmFurtwängler不在の間、荒廃した旧・西ベルリンの自主運営楽団Berliner Philharmonikerの再建に貢献したにも関わらず、楽員からは総スカンを食らい、H・V・カラヤンにWilhelmFurtwänglerの跡目を継がれ、拠点をシュトゥットガルト等に移さざるを得なかった指揮者。

Sergiu Celibidacheのプロフィール

(生誕)1912年6月28日 - ローマ生まれルーマニア、育ち (没年)1996年8月14日 - パリ

ドイツで活躍した指揮者・作曲家。

ルーマニアのローマン(Roman)で育ち、第一次世界大戦中にヤシに転居、21歳頃まで同地で過ごす。

ゆったりとしたテンポとG,P,(全休符)に代表される「絶妙の間」で有名だが...

晩年の彼の演奏はゆったりとしたテンポと「絶妙の間」で有名だが、それは彼が到達した境地 すなわち「楽曲が持つ響きの時間的流れの必然性」から生じている。(※彼のインタビュー番組から受けたデジタヌの意訳・印象)

実際、晩年の演奏はモダン譜記法によるテンポ指示(♩=xx)にはこだわらず、アンダンテ、モデラートなどといった抽象的な表現の持つ「哲学的な時空」と「音の響き」を大事にした指揮者であったように感じている。

一方数少ない彼の壮年期の記録音源から察っせられる演奏では総じて一般的なテンポ設定となっており極端なテンポ設定は見当たらない。

このテンポ感(理論)は晩年「禅宗」に傾倒したことでもわかるように「幽玄の境地」にも通じる彼の哲学から出たものなのであろう。

実際に、奏者(楽師)はいろんな意味で大変であったろうが、「時々刻々変化する響き」に注目すれば「楽曲(響きの流れ)自体が求めるテンポ」という意味が解かるような気がする。

※例えば90分以上にも及ぶBruckner Symponie ♯9 など決して「おマヌケ」にだらだら遅い!のではなく、心地よい響きの流れで演奏された楽曲は時の流れを忘れてしまい、アっという間に過ぎてしまう!

というわけでデジタヌはSergiu Celibidacheの信者であり、現在入手可能な貴重な「彼の記録音源(CD)」は殆どコレクションしている。今後個々音源(楽曲)についてレビュー記事を起筆するつもりでいる。

Sergiu Celibidacheの音楽歴

6歳頃からピアノを学びはじめるが、長じてブカレスト大学で哲学と数学を学び。

1936年に彼はベルリンに行き、主に波動力学だけでなく音楽研究に関しても彼自身に関して彼の研究を続けた。

27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていたと語っている。

ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したため、イディッシュ語(ユダヤ)も堪能であったばかりでなく、多くの言語に精通したバイリンガーであった。また晩年には仏教に改宗し、日本でも多く参禅を行なっている。

1939年から1945年まで彼は ベルリン音楽院でフリッツスタイン、カートトーマスとウォルターグメインドルの下で学んだ。

1945年第2次大戦終戦後 WilhelmFurtwänglerが不在の間Berliner Philharmoniker(邦名;ベルリンフィルハーモニー管弦楽団)の定期指揮者(※1)となった。

※1、近衛秀麿先生の逸話にも登場するように、設立当初からBerliner Philharmonikerは「自主運営の同人組織」であり、他の歌劇場レジデンス団体などとは違い自主開催コンサート以外にも「チャーター演奏」(雇われ仕事)も受けており、どういう処遇(常任指揮者、客演指揮者、主催者等)であったかは不明。

戦後3年間、彼はBerliner Philharmonikerのほとんどのコンサートの指揮を行い、並外れた才能で聴衆から熱い支持を得た。

しかしWilhelmFurtwänglerが指揮者として復帰する頃には楽員に対する「不条理?ともいえる要求(※2)」に楽員達の不満は頂点に達しており、以後指揮台に立つことは少なくなり、客演指揮者となった。

※2、若いころから、楽員に対する要求は過酷であったようである。

しかし当時の西・ベルリン市民の人気は高くBerliner Philharmonikerと自由ベルリン放送管弦楽団を客演指揮者として行き来していた。

1948年、ロンドンでデビュー。

1955年4月5日H・V・カラヤンが終身常任指揮者としてBerliner Philharmonikerから任命された後カラヤンの生存中は37年間Berliner Philharmonikerに客演しなかった(要請もなかった?)。

1959年から長年シュトゥットガルト放送交響楽団の客演指揮を勤める。

1962年から1971年まで彼が再建したストックホルム放送交響楽団の音楽監督に就任した。

1973年から1975年まではフランス国立管弦楽団の首席客員指揮者を務めた。

1979年からミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団の音楽監督になり、同団体を世界的レベルに押し上げた。

ミュンヘンでの彼は指揮法の「マスターコース」を主催し 彼の死の数ヶ月前まで後継者の指導を続けた。

ブルックナーの交響曲の大家として有名なSergiu Celibidacheだが、GüntherBialasのLamento di Orlando (1986年)、Harald Genzmerの交響曲第3番 (1986年)、Peter Michael Hamelの交響曲第3部 (1988年)、そしてHans Werner HenzeによるウンディーネとJeux des Tritons等の現代作曲家の作品の初演も行っている。

Sergiu Celibidache自身も作曲を行ったが生前は公開を拒んでいた。

代表的なディスコグラフィー

Bruckner: Symphonies 3-9, Te Deum, Mass in F Minor Box set, Import


 

公開:2020年12月 9日
更新:2022年9月30日

投稿者:デジタヌ


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