狸穴ジャーナル別冊『音楽便利帳』

若林暢《 Virtuoso Navi 》"神童"から" 名演奏家 "になれた数少ない" 努力の人 !"

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愛と希望」といった「生命力に満ちた活き活きとした音楽」が...

「音楽は悲しみから芽生える」彼女が直弟子などに語った言葉らしいが、彼女の演奏は「決して悲痛な魂の叫び」などではない、「伸びやかで千変万化の音色」とロマンチシズムにあふれた演奏であり「希望・愛」と言った生命力に満ちた「生き生きとした音楽」である。人には何かしらの「自己顕示欲や名誉欲」があるものだが...彼女にとってはそんな事はどうでもよかった!のに違いない!

と小生は感じている。

例えばルーマニア民俗舞曲 ルーマニア風ポルカ(Amazon,mp3音楽配信はこちら)

今この人が注目されている

1958年東京生まれ2016年6月8日癌で亡くなった、享年58歳であった。

今朝(2017-08-28)NHK地上波「朝のニュース番組・おはようニッポン」で若林暢と言うバイオリニストが紹介されていた。

不覚にも、はじめて聞いた名であった。

その後、(一財) 若林 暢 音楽財団 が運営する公式HPに行ってプロフィールが判った。

最後の演奏会

医者から、止められながらも「最後の舞台」にたった逸話を聞いて、何となく名歌手・美空ひばりさんを思いだした。

亡くなられる数年前には乳ガンを発病、抗ガン剤治療の甲斐もなく長年の無理がたたり、あっという間に弱り切った全身に転移されたらしい。

それでも薬の副作用に苦しみながらも「音楽活動」を続け、最後の演奏会に際しては医者の静止も聞かず舞台にあがり、そのことを共演者の誰1人にも告げることも無く、ましてや聴衆に悟られもせずに大成功で演奏会を終えられその後まもなく亡くなられた。

「凄絶ではあったが充実した音楽人生」をまっとうなさった。

彼女が一生をかけて目指されたものとは?

西洋音楽の『旋法(インターバル(音程)・イントネーション)』と『和声』の会得

彼女が「欧米で学ぼう」と決心し そして努力の末に得た物は、一般にいわれているように「楽曲に対する深い造詣・解釈」だけでは無い様に感じている。

本場西洋で色々な旋法(インターバル(音程)・イントネーション)と和声すなわち「音律(※1)の会得」も目指したのではなかろうか?

もちろんそれを可能なら占めるバイオリン奏法(※2)そのものの変化にも現れているように思う。

武道家にも通づる「肩から力の抜けた」力まない、軽やかで、柔軟なボーイングから奏でられる千変万化の音色は彼女の魅力の1つでもある。

※1)音律論《書籍 ナビ》 東川 清一 著はこちら

※2)弦楽器(Wikipedia)はとかく日本では、左手の指使いが注目されるが、小生は偉大なバイオリニストに共通しているのは、実は右手の使い方=ボーイングではないかと思っている。

30歳にして「満を持しての楽壇デビュー」と欧米での活躍

1986年30歳になって「自身の音楽」に芽生え、留学先の米国の「ニューヨーク国際芸術家コンクール」に優勝し、同じ年に欧州ポーランドで5年毎に開かれる第9回ヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクール(Wikipedia)で第2位を受賞し、併せて「最優秀音楽解釈賞」「ヘンリク・シェリング賞」等の数多くの名誉ある賞も受賞し、その後に行われたポーランド国内のオーケストラとのコンサートツアーやリサイタルでヨーロッパの楽壇にデビューを果たした。

翌1987年になってカーネギーホールで初リサイタルを開き米国内でコンサート活動開始。そして翌翌年の1988年の10月には日本国内で凱旋コンサート?も行っている。

以後留学先のニューヨークを拠点にヨーロッパにも進出し積極的に演奏活動を行い各地で高い評価を得た。

晩年"業界"からは遠ざかっていたが充実した後半生

後年、病に伏されたご両親の介護を献身的になさりながらも、

アンサンブルを中心とする「地味ではあるが活発な演奏活動<公式サイトより引用>

をつづけ先に述べた後継者の育成にも尽力し続け「彼女なりに充実した音楽活動」を続けておられたでは無かろうか。

しかし「オーケストラとの共演など華やかな舞台」からは遠ざかり「業界・プロモーター」からは忘れられた様な存在に無っていたことも事実ではある。

同時代を生き、次々と神に召された日本のヴィルトーゾ達

21世紀に入って、日本の世界的バイオリニストが次々と亡くなられている、江藤 俊哉さん(1927年11月9日 - 2008年1月22日)潮田益子さん (1942年4月4日- 2013年5月29日) そして若林暢さん(2016年6月8日没享年58歳,)惜しまれながも、世を去った世界的バイオリニストの方々である。

若林暢さんが生まれた1958年というと

  • 東京タワーが完成
  • 関門トンネルが開通、
  • 巨人・長嶋茂雄選手、4打席4三振デビュー。
  • 本田技研工業がいまだに続く永遠のベストセラー「スーパーカブ」を発売。
  • 西鉄ライオンズが巨人相手に3連敗から4連勝を果たし日本一に輝き。
  • 「神様仏さま稲生様」という流行語が生まれた。
  • 朝日麦酒が日本初の缶入りビールを発売。

前前年1956年にやっと全線電化が完成した東海道本線(Wikipedia)に同年「国鉄」初・世界初の「電車特急・ビジネス特急・こだま」がデビューし東京~大阪間を6時間50分で結んだ。...など正に1956年から始まった高度成長壮明期の時代であった。

神童から「偉大な演奏家」に成長できた数少ない人!

あまたいる天才少年・少女から「偉大な演奏家」になれるのは、ほんの一握りの「人一倍の努力」をした人達のみである!

彼女はいわゆる天才少年・少女の1人でもあった。
彼女は、生まれて間もない頃からヴァイオリンの音色に特別な関心をもったと伝えられている。

4才でレッスンを始めると師匠が恐くなるほどの上達ぶりであったらしい。

神童に限らず「子供の能力」はスゴイ!

神童に限らず「子供の能力」には目を見張るほどすごいところがある。

ましてや神童とも成れば、見よう見まねで、「ほとんどのこと」をこなしてしまう能力が備わっている!

そこが天才少年少女が偉大な演奏家になりにくい落とし穴でもある!(※4)

※4)ユーディ・メニューイン(※ヴィルトーソNaviはこちら)は並外れた神童・天才で、幼い頃から数々の独奏曲を難なくこなし、為に「師匠」に恵まれなかったとも言われている。

彼と彼の親はことある毎に当時の名バイオリニストの門を叩いたが、
「彼には教えるテクニックなどもはや無い」
と基本的なテクニック(メソッド・トレーニング)を指導してもらえなかったそうである。

為に、幼年期の基礎トレーニング(メソッド・トレーニング)が不十分で、長じてテクニックの難が指摘されたりもした。

若林さんの場合は

彼女は4歳でバイオリンレッスンを始めたが「徹底的にメソッドを攫い」、基礎トレーニングに明け暮れる日々を過ごしたようである。

芸大付属高等学校・大学・大学院と進む中で優秀な指導者にも恵まれ、優れた「素養」を身に付けはしたが...、この頃に日本で学んだ自身の「演奏技法」「音楽性」に疑問を持ったのでは無かろうか?

彼女が選んだ留学への道

生来「音楽が好き」で「音楽に対する探究心」を持ち合わせた彼女だからこそ、「デビューしても良い年齢」になっているのに、あえて奨学金で「ジュリアード音楽院博士課程」への留学の道を選んだのではあるまいか。

留学先のジュリアード音楽院で博士号を得る

1995年留学先のジュリアード音楽院で念願の博士号を授与された。

この時の博士論文が「悪魔のすむ音楽」久野理恵子訳 音楽之友社刊(Amazon,書籍案内)

博士号取得で「悟り」の境地にも似た「確固たる信念」を

博士号取得で「悟り」の境地にも似た「確固たる信念」を得る事が出来たので翌1996年38歳で母国日本に帰国したのではないかと憶測している。

帰国後の彼女は芸能プロダクションにも属さず、各地の音楽大学などの高等教育機関(Wikipedia)(※3)の要職就任要請も断り、フリーの演奏家としての活動する傍ら、各地で開かれるマスタークラスや公開レッスンなどで後進の指導に熱心に取り組んだ事実がそのことを裏付けている。

自身をここまで育ててくれた日本の音楽界(楽壇)を否定はしないが後進に自分のたどった「回り道の苦労をさせたくは無かった」のでは無かろうか!

だから、「限られた門下生」や「特定大学の学生」だけではなく、できるだけ多くの「演奏家の卵」にチャンスを与えたかったのであろう。

※3)、2017年現在、全国に41校有る大学・短大の内、大学31校、後に大学になった2校を含めて短大8校

人には何かしらの「自己顕示欲や名誉欲」があるものだが...

人には何かしらの「自己顕示欲や名誉欲」があるものだが...彼女にとっては「そんな事はどうでもよかった!」のではなかろうか。

彼女のモットーは「音楽に対する真摯な姿勢」と「基本の大切さ」

波乱万丈の彼女の体験故に、数多く誘いがあったであろう「音楽大学」の要職も断り、全国各地で行われる「地方のマイナーなマスタークラス」や「公開レッスン」で不特定多数の受講者に訴え続けたのは、

音楽に対する「真摯な姿勢」と「基本練習」の大切さを1人でも多くの「音楽家の卵」に伝え、そこから生まれる「本当のバイオリンの音色」から奏でられる「心に訴える音楽」を伝えたかったのであろう!

某個人サイトで以下の様な逸話が掲載されていたので紹介する

ある時、生徒の一人に、『先生のレッスンは厳しいの?』と尋ねると...

『厳しいです。』

『どういう所を一番気を付けるように言われるの?』

音楽を楽しんでいない時です』

『...どういうこと?』

『素晴らしい作曲家が素晴らしい作品を残してくれて、それを演奏出来ることはどんなに素晴らしいことか、世の中には沢山の人がいて、色んな問題もあるのに、今バイオリンを弾けていられるだけでもありがたい事、それなのに、それを感じないで、気のない演奏をするような時、烈火のごとく叱られます。』

順番にレッスンを受けるのだが、行ったかと思ったら戻ってくる生徒がいるので、

『どうしたの?』と聞いたら、

『音程が悪くてレッスンにならないから、1時間スケールを弾いてくるように言われました』

とか、色んな事を思い出す。
<へたっぴセロ弾きの雑記帳>より引用。

ディスコグラフィー

「環境で音色が変化してしまう」ような記録音源・放送の世界、すなわちオーディオの世界(録音機材、再生機器・環境)は彼女のフィロソフィーには合致しないメディアであり、ある種「ライブ至上主義」でいらっしゃったのではなかろうか?

為に彼女は積極的にはレコーディングを行わなかったので、現在残されている記録音源は数少なく、CDとして現在手に入る物は以下の2種だけである。


ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全集

ヴァイオリン愛奏曲集(Amazon,CD案内)

※「活きた音楽」とは

「オーケストラの元意・語源」すなわち奏者・聴衆が居合わ「一期一会の時空間」を共にする「場」でのみ成立する「音の移ろい」「瞬間瞬間のはかない時空芸術」であり、物理的には聴衆の数、室温・気圧変化などで時々刻々変化する「固有の韻」(音響特性)を持つコンサート会場からリアルタイムに感じた奏者のインスピレーションがフィードバックされた、時々刻々と変化する「音の移ろい」であり、決して普段の練習やリハーサルの再現・再生ではない!

すなわち「ライブ」でしか味わうことのできない「空気感」というか「奏者のオーラ」というか、「機械」を通した「再生音」では決して「再現出来ない」究極の4次元芸術・時空芸術が音楽では無いだろうか...

だから暢さんは、一期一会の時空芸術で一番大切な「オーディエンス」がいないスタジオ環境で記録され、ヘッドフォン、スピーカー(と配置)、リスニングルームの設え、室温・湿度などの再生環境が、どれ一つとってもすべて異なる「記録音源」では、

『"その時、ミューズから霊示"を受けた"音の移ろいや韻"などのフィロソフィー・信念・魂"が伝えられない!』

とお考えになったのではなかろうか?

狸穴総研音楽研究室 主観 出自多留狸(デジタヌ)

公開:2020年12月 9日
更新:2022年9月30日

投稿者:デジタヌ


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