狸穴ジャーナル・別冊『音楽便利帳』

舞台芸術評論家?故吉田秀和氏は本当に"音を楽しる感性・音楽心"を備えていたのか?...

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前書き(要約)

嘗てNHK音楽番組担当の某プロディーサーが心酔しきって、持ち上げまくった故吉田秀和氏は本当に音楽(音を楽しむ)を"感性・音楽心"を持ち合わせていたのだろうか...

演奏会評論を見返しても、"演奏者のミス"を論うことは出来ても、「感動を共感・共有できた様な記述・は見つからない...」、つまり彼の唱えた"形而上学"に下ずいた鑑賞ではなく、唯物論的演奏テクニック評価しか記述してい無い!場合が殆ど。

※リンクについて

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プロローグ 死して水戸芸術館を残す?!

水戸芸術館(※00)は故吉田秀和氏の霊が乗り移った活きた記念碑?

初代館長故吉田秀和氏の個人的悪趣味に翻弄された施設で有る...

しかし、彼の愚業のお影?で、その後続々と全国に「6角堂病」(※11)が再燃したのは困り果てた事態でもある!

参※00)当サイト内関連記事 水戸芸術館《ホール音響Navi》 はこちら。

本節 吉田氏に対するデジタヌの個人評

吉田秀和 1913年9月23日→2012年5月22日(98歳没)翻訳家・文系評論家・随筆家。

吉田氏は、徹底して屁理屈!「形而上学(けいじじょうがく)」に拘り、音楽は楽しむものではなく「宗教に近い崇高な哲学表現」である風に「勿体(もったい)を付ける」ことが大好きな御仁であった。

モーツアルトをこよなく愛し?、本来ノー天気な「ただの音楽馬鹿だったモーツアルト!」を神の存在にまで祭り上げてシマッタ御仁でもある。

第1項 音楽は形而上学で"理解する"ものではなく"感性で共感する物!"

彼が好んだ形而上学(けいじじょうがく)と言う表現

彼が好んだ哲学・形而上学(けいじじょうがく)に代表される難解な表現(単語)をふんだんに用いた論調は、

インテリにあこがれる一般凡人に受け、熱心な信奉者を獲得して、特に某国営放送のプロューサーに崇拝されて、彼と組んだ長寿番組は「クラシック音楽嫌い」を増産してしまった?!のではないだろうか...

第2項 音楽家は聴衆の感動を得る為の手段として日々精進する!

もっと言えば、彼吉田氏は「音痴であることを誤魔化す」為に、哲学用語・形而上学(けいじじょうがく)を常用したのではないだろうか...

第1目 現在・バッハとしてもてはやされている人物も

宗教論・形而上学(けいじじょうがく)で音楽を表現したのでは無く!

唯物論的音楽理論で、人々の共感(信仰心)を得ようとしたにすぎない!

ハッキリ言って形而上学(けいじじょうがく)を錦の御旗に掲げていた故吉田氏は"音痴"であり、音楽を語る資格など無かった!のではないだろうか...

作曲家は、技法として音楽論を用いているが、あくまでも"荘厳な雰囲気"や"敬虔な信仰心・感動と言った"実感"が出来るように感性に訴えかけているにすぎない。

つまり感性を超越した「不変の"真理"」を表現しようなどと目論んでいる訳でもないし、

そんなもの「不変の"真理"」等も信じていないだろう。

無調性音楽・現代音楽でも...

唯々、"屁理屈"に拘った無調性音楽では、人の「感性に共振しない」ことぐらいは判っているので、無調性の中にも調性?"自然な移ろい"がある楽曲が広く大衆に受け入れられるわけだ。

第2目 一流の演奏家と呼ばれる人達も同じ

また楽譜に記された単なる記号表記を、"活きた音楽"としてオーディエンスに聞かせて、共感(感動)を得るために、演奏家は日々精進しているのであって、形而上学(けいじじょうがく)の"普及"など目指してはい無い!

幾ら哲学的に優れた理論家であっても、演奏技術が伴わないと、猫が鍵盤を歩くような音しか生まれない!

"時の移ろい"の上に、微妙な音響(音色)、連続性(テンポ)の変化を付けれてこそ、"単純な音列"が、聴衆に感動を与える"音楽"に"昇華"出来るのではないだろうか...

単なる"スケール"でも、ヴィルトーゾが奏でると、音楽を感じるのは"日頃の修練"のなせる"業"で圧と言う事を、肝に銘じて日々鍛錬(修行)に励むんが真の演奏家の姿ではないだろうか?

甘タイル音楽家の卵が「才能だけではプロになれない」のはこの事を忘れているからではないかと、小生は感じている。

故吉田氏が、来日公演のライブを聴き、ケチョンケチョンにこき下ろしたホロヴィッツ氏も、亡くなられるまで日々精進を積まれていたのは有名な逸話でもある!

エピローグ 大被害!にあったデジタヌ

小生も御大のおかげで、一時モーツアルト嫌いになった?

(※但し遊び心に徹したホルンコンチェルトは大好きでした (^_-)-☆ 

前途したように「音楽は理屈で聞くものではなく「感性」で「音を楽しむ」ものであるハズ。

(最近の音楽評論(家)はこの点で共感できる評論が多くなったのは喜ばしい限り!)

小生も年老いて、やっと"粗忽ものモーツアルト"の「"繊細な感性"を持ち合わせた一面としての"音楽性"」を単純に楽しめるようになれた。

まあ「彼の的外れな音楽評に反感を持ち!」(モーツアルト・バッハ嫌い?になり)、思春期の頃からポリフォニーの権化?ブルックナーや、モノフォニー・オクターブユニゾンを多用するマーラーの音楽と言った、両極端の音楽に感動でき!次第にのめり込んだのも事実で、小生に関して言えば「功罪あい半ばだった」と言ったところか...

狸穴総研 音楽評論調査室 出自多留狸

公開:2022年9月30日
更新:2022年9月30日

投稿者:デジタヌ


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