吉本興行 《 芸能プロダクション Navi 》 全国にある直営劇場網ナビ
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関西発お笑い総合商社「吉本興業」。「どぎつい関西ギャグ」で「大衆演芸」にキョーレツなショック?を与え続けている関西発の芸能プロダクション。戦前・戦後を通じ、関西のみならず、全国の「お笑い界」に君臨している。マネジメント、プロモーター、テレビ・ラジオ番組製作、演芸の興行等をグループで行う芸能プロダクション。
Official Website http://www.yoshimoto.co.jp/
「どぎつい関西ギャグ」で「大衆演芸」にキョーレツなショック?を与え続けている関西発の芸能プロダクション。
戦前・戦後を通じ、関西のみならず、全国の「お笑い界」に君臨している。
マネジメント、プロモーター、テレビ・ラジオ番組製作、演芸の興行等をグループで行う芸能プロダクション。
吉本興行のあらまし
吉本興行のなりわい
明治末期の創業以来100年以上にわたり、古くは初代桂春団治、横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼から、現在の明石家さんま、ダウンタウン等、関西に限らず「東西の多くの人気芸人」を輩出してきたお笑い界・演芸界の名門。
芸能プロダクションを中心とし、テレビ番組制作会社、CS放送やケーブル・テレビ向けのテレビ局、不動産事業などを傘下に抱える業界最大手の複合企業である。芸人養成スクールも手がけ、お笑い芸人の所属数では圧倒的な数を誇る。「お笑いの総合商社」「日本最大の芸能プロ」今や「吉本なしでは、TV番組が作れない」とまで言われている。
※ご注意;
- 以下(※XX)は当サイト内の詳細記事リンクです。
- 但し、 その他のリンクは団体・関連団体の公式サイト若しくはWikipedia等のWEB辞典へリンクされています。
大阪吉本の劇場
なんばグランド花月
http://www.yoshimoto.co.jp/ngk/
なんばグランド花月のレパートリー
吉本新喜劇を中心に、落語、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている。
ところ 大阪市中央区難波千日前11番6号
最寄り駅
地下鉄御堂筋線なんば駅3番出口→"NAMBAなんなん"のE5番出口→南海通り商店街に入る→1つ目の四つ角を右へ約30m
南海・近鉄・阪神・JRをご利用のお客様は各線の難波駅下車→高島屋を目印に南海通りを東へ→1つ目の四つ角を右へ約30m
京都市内から約55分、神戸市内から約45分、奈良市内から約50分
なんばグランド花月の公演チケット情報
よしもと西梅田劇場
http://www.yoshimoto.co.jp/nishiumeda-gekijo/
よしもと西梅田劇場のレパートリー
落語、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている。
ところ 「西梅田スクエア」(旧大阪中央郵便局跡地)
最寄り駅
JR西日本
JR京都線・神戸線・大阪環状線 - 大阪駅桜橋口
阪神電気鉄道
梅田駅- 西改札口
大阪市営地下鉄
四つ橋線 - 西梅田駅徒歩2分
よしもと西梅田劇場の公演チケット情報
よしもと漫才劇場
http://www.yoshimoto.co.jp/manzaigekijyo/pc/
よしもと漫才劇場のレパートリー
上方漫才協会のフランチャイズ、漫才・落語・俗曲などの色物芸が演じられている。
ところ 大阪市中央区難波千日前(YES-NAMBAビル5階旧ワッハ上方)
最寄り駅
大阪市営地下鉄・御堂筋線・四つ橋線、千日前線-なんば駅、千日前線・堺筋線-日本橋駅
南海電気鉄道 難波駅
近畿日本鉄道 大阪難波駅、近鉄日本橋駅
阪神電気鉄道 大阪難波駅
JR西日本 JR難波駅
よしもと漫才劇場の公演チケット情報
道頓堀よしもとZAZAライブ
http://www.yoshimoto.co.jp/zaza/
道頓堀よしもとZAZAライブのレパートリー
、落語、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている。
ところ 大阪市中央区 道頓堀1-7-21中座くいだおれビル地下1階
最寄り駅 難波駅
新世界朝日劇場
http://www.yoshimoto.co.jp/asahiyoshimoto/
新世界朝日劇場のレパートリー
映画館が少なくなった新世界の核的存在ともいえる大衆演劇の殿堂、大衆演劇、歌謡ショー・大衆演劇等、資料を展示する「朝日劇場資料館」も併設。
ところ 大阪市浪速区恵美須東2丁目1−26
最寄り駅 新今宮駅、
YES THEATER
/blogs.yahoo.co.jp/owarai_live_yestheater
YES THEATERのレパートリー
吉本を中心に、落語、漫才ライブなど。
ロケーション
ところ 大阪市中央区難波千日前・なんばグランド花月地下
最寄り駅 なんば
YES THEATERの公演チケット情報。
よしもと祇園花月
http://www.yoshimoto.co.jp/gion/
よしもと祇園花月のレパートリー
吉本新喜劇・漫才・俗曲などの色物芸が演じられている。
よしもと祇園花月のロケーション
ところ 京都市東山区祇園町北側323
最寄り駅 京阪本線祇園四条駅下車徒歩5分
よしもと祇園花月の公演チケット情報
東京・吉本の劇場
ルミネtheよしもと
http://www.yoshimoto.co.jp/lumine/
ルミネtheよしもとのレパートリー
吉本新喜劇を中心に、落語、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている。
R1ぐらんぷり開場の1つにも成っている。
ルミネtheよしもとのロケーション
ところ 新宿区新宿3-38-2 ルミネ新宿2 7F
最寄り駅 JR新宿駅南口・東南口より徒歩すぐ
ルミネtheよしもとの公演チケット情報
よしもと∞ホール
http://www.yoshimoto.co.jp/mugendai/
よしもと∞ホールのレパートリー
落語、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている。
よしもと∞ホールのロケーション
ところ 渋谷区宇田川町31-2 渋谷ビーム
最寄り駅 渋谷駅
よしもと∞ホールの公演チケット情報
神保町花月
http://www.yoshimoto.co.jp/jimbocho/
神保町花月のレパートリー
吉本新喜劇を中心に、落語、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている。
神保町花月のロケーション
ところ 千代田区の神保町シアタービルの2階
最寄り駅 東京メトロ半蔵門線・都営三田線・都営新宿線神保町駅下車
神保町花月の公演チケット情報
よしもと幕張イオンモール劇場
http://www.yoshimoto.co.jp/makuhari/
よしもと幕張イオンモール劇場のレパートリー
若手芸人を中心とした平日夜のライブスペシャルや、夕方の生配信ライブ「爆ハリ!」(ライブの模様は千葉テレビ放送の『バチッと!爆ハリ!』→『ジャルッと!爆ハリ!』内でも放送)、週末ネタライブなどが行われテいる。
よしもと幕張イオンモール劇場のロケーション
ところ 千葉市美浜区豊砂1-1他
最寄り駅
JR京葉線海浜幕張駅3番のりば-イオンバスターミナル(約8分)(京成バス、ちばシティバス)
JR京葉線海浜幕張駅-豊砂公園(約7分)(京成バス)
JR京葉線新習志野駅-グランドモール(約7分)(京成バス「海61系統」)
JR総武線幕張本郷駅-イオンバスターミナル(約19分・神田外国語大経由約22分)(京成バス)
周遊ルート〈ビジネスエリア→ベイタウン地区→海浜幕張駅周辺ホテル群〉(京成バス「イオン71系統」)
JR総武線津田沼駅8番のりば-イオンバスターミナル(京成バス「津46系統」)※本数少ない
JR総武線稲毛駅西口5番のりば-京成稲毛駅-イオンバスターミナル(千葉海浜交通、ちばシティバス「稲91系統」)[13]
空港連絡バス 成田空港-イオンバスターミナル(京成バス、ちばシティバス、成田空港交通)
高速バス「ストロベリーライナー」 成東車庫(山武市)・求名駅入口・東金中学校(東金市)-イオン幕張新都心バスターミナル(ちばフラワーバス)※土休日のみ運行
直行バス「ツインシティライナーちばまく号」 中央二丁目・京成ホテルミラマーレ(千葉中央駅東口)・千葉駅東口-イオン幕張新都心バスターミナル(ちばフラワーバス)※平日の運行
無料お買い物バス(幕張ベイタウン、幕張西、イオン幕張店経由、磯辺・高浜・花見川団地)
よしもと幕張イオンモール劇場の公演チケット情報
大宮ラクーンよしもと劇場
http://www.yoshimoto.co.jp/omiya/
大宮ラクーンよしもと劇場のレパートリー
落語、漫才・俗曲などの色物寄席。
大宮ラクーンよしもと劇場のロケーション
ところ さいたま市大宮区宮町1-60 大宮RAKUUN 6階
最寄り駅 JR・東武鉄道、大宮駅東口より 徒歩 約1分
大宮ラクーンよしもと劇場の公演チケット情報
沼津ラクーンよしもと劇場
http://www.yoshimoto.co.jp/numazu/
沼津ラクーンよしもと劇場のレパートリー
落語を中心に、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている老舗。
吉本新喜劇を中心に、落語、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている。
沼津ラクーンよしもと劇場のロケーション
ところ 沼津市大手町3丁目4番1号 沼津RAKUUN 4階
最寄り駅 JR沼津駅南口まえ。
沖縄県
よしもと沖縄花月
http://www.yoshimoto.co.jp/okinawakagetsu/pc/index.php
よしもと沖縄花月のレパートリー
- 365日年間を通じて、「おきなわ新喜劇」「おきなわNewコメディ」を目玉とした寄席公演を開催
よしもと沖縄花月のロケーション
ところ 覇市前島3‐25-5 とまりんアネックスビル2F
吉本興行の持ち株会社「クオンタム・エンターテイメント株式会社」とは
「クオンタム・エンターテイメント株式会社」の主な株主
フジ・メディア・ホールディングス、電通、BM総研(ソフトバンクの完全子会社)、大成土地(創業家の資産管理会社で、吉本、林両家が40%ずつ、吉本興業が20%の株を持っている)、大成建設などが名を連ねていた。
主要子会社
(株) よしもとクリエイティブ・エージェンシー 100%
(株) よしもとデベロップメンツ 100%
(株) よしもとアドミニストレーション 100%
(株) よしもとアール・アンド・シー 100%
(株) 吉本音楽出版 100%
他
売上高 (営業収入)
連結:488億7108万0千円(2009年3月期上場廃止前公開資料)
従業員数 グループ全体:610名
今の吉本興行
正式名称 吉本興業株式会社
創業 1912年(明治45年)4月1日
設立 1932年(昭和7年)3月1日
旧吉本興業(株)設立 1948年(昭和23年)1月7日。
資本金 1億円 (上場廃止前の吉本興行の資本金125億450万円/2010年6月1日の公開資料)
吉本興業(株):21名(2009年3月31日現在)
本社所在地
(本店・大阪本部) 大阪府大阪市中央区難波千日前11-6
(東京本部) 東京都新宿区新宿5-18-21
新時代の「ショウビジネス」を目指すよしもと
戦前の1935年以来の「阪急・東宝グループ」との提携で学んだアメリカ的ショウビジネスを取り入れた当時最新の「制作技法」「プロデューサー」制度や「現代的マネージメント」制度を導入し、戦後は1958年東京タワーから放送開始しだした民法TV業界にいち早く着目、当初は映画館から改装した花月劇場の劇場中継でコンテンツ提供を開始、この頃から「TV局」から学んだ最新の経営手法で、芸人だけでなく、一般の社員の採用・育成にも力を入れ興行以外にも多くの事業を展開しだした。
地方展開
大阪に本店、東京に本社を置き、それぞれ「大阪吉本」「東京吉本」と呼ばれている。
それ以外に、名古屋に東海支社、札幌、福岡、広島に事務所を置き、それぞれ「名古屋吉本」「札幌吉本」「福岡吉本」「広島吉本」と呼ばれ地元で親しまれている。
各地方事務所は、それぞれ地元のローカルタレントをマネジメントしている。
地方における吉本興行の中でも、最も独自色が強いのが福岡吉本で大阪や東京のお笑いを持ち込むのではなく「福岡発のお笑いを育てる」という方針を当初から貫いている。
2011年以降 「あなたの街に"住みます"プロジェクト」をスタートさせ「Jターン芸人」を各事務所に「転属」させ、地方に根ざした「ローカルスター」の創成プロジェクトも積極的に展開しだした。
若者の「就職先」としても人気が出ている
主要5社を中心に営業している「お笑い総合商社グループ」は「ビジネス」正社員600名以上(2009年現在)を抱える年商:約490億円(2009年3月期上場廃止前公開資料)の大企業でもあり、若者の「就職先」としても人気が出ている。
社員教育は徹底しており、古い体質が残っている所属芸人達に対し、社員である「マネージャー」はあくまで「芸人のマネジメントをする専門職」で、荷物持ち・弁当手配等の「雑用」は一切させず、
タレントの弟子・見習い芸人等いわゆる「付き人・個人秘書」とは一線を画し、担当芸人を「師匠」と呼ぶことも禁じている。
「所属芸人」は「タレント契約(専属マネジメント契約)」
他の日本の多くの芸能プロダクション同様 吉本興業もタレント自身の芸能活動のマネジメントの一切を芸能プロダクションに「委任」する「専属マネジメント契約」という形態を取っている。
「社員制度」で生活保障された、「ホリプロ」とは好対照。
封建社会を受け継ぐ所属タレントの世界
所属芸人の上下関係も「お笑い事務所」の中では厳しいとされる。
かつては「年齢が何歳であろうと先に入ったものが先輩」(※1)で後輩は先輩に対して敬語を使うというルールが根底にあった。
現在では後輩は先輩に対して敬語を使う、「○○さん」及び、「○○兄さん」と呼ぶくらいである。
立身出世・下克上・使い捨て
ハングリー精神、成り上がり意識、出世欲、が無いと脱落する
まるで戦国時代の「織田信長」の織田政権?の様な組織である種「侠客社会」にも通じる実力主義の「伝統的運営」形態に「近代ショービジネス界」の「プロデューサー」&「マネージャー制度」を持ち込んだようなプロダクションでも有る。
吉本興行のこれまでの歩み
創業者とその生い立ち
阪急東宝グループ同様「興行主」以外から「興行界」に転身。
当業者「吉本吉兵衛」「吉本せい」は共に高級料亭に「箸」を納める「老舗荒物問屋」と「米穀商」の出で「松竹」の様に創業者が「興行主」を親に持つ家系とは事なり、興行とは全く縁の無い「カタギの商人」の世界で育った。
吉本吉兵衛が若い頃から落語や芝居見物に夢中で、自らも剣舞演者として全国巡業に出たりしていたので興行界に参入した、いわば「カタギ衆の素人興業主」から始まった。
しかし松竹と同様にスポーツ興行の世界にも進出し、戦前は巨人軍設立にも関与し草創期のプロ野球界を支え、戦後は「力道山」の日本プロレスの興行なども行っていた。
近年はスポーツ選手のマネジメントを数多く手がけるなど、スポーツ界とのつながりも深い。
戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本といわれた
東京の二大落語家団体の一つ、「落語芸術協会」の創設にも関与した。
創業期の吉本
1912年(明治45年)4月1日。始まりは吉本吉兵衛(本名:吉次郎、通称:泰三)・せい夫婦が大阪市北区天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、寄席経営を始める。
1913年(大正2年)1月には大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に吉本興行部が設立される。
1915年(大正4年)には傘下の端席のほとんどを「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから「花月」と改名し花月派(無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派)結成。
1921年(大正10年)に非主流の浪花落語反対派と提携して勢力を伸ばし、後に反対派を吸収。そして翌年、三友派の象徴ともいえる寄席「紅梅亭」を買収して三友派も吸収。上方演芸界全体を掌握。
大正末期「東京・横浜進出」
1922年(大正11年)1月 神田「川竹亭」を買収、「神田花月」としてリニューアルオープン。
- 同年5月横浜伊勢佐木町「新富亭」を買収、
1923年「新富亭」を「横浜花月」に改称。
1924年(大正13年)に泰三が急性心筋梗塞で死去、妻「せい」が経営を引き継ぐ。せいの二人の実弟、林正之助が大阪で、林弘高が東京で活躍し営業継続。
その後大正時代にすでに大阪だけでも20あまりの寄席を経営し、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開していた。
初代春団治騒動以来放送業界と接近
春団治の無断出演事件の顛末を伝える大阪朝日新聞1930年12月8日(左)と12月10日(右))
当初は当時の林正之助総支配人が「ラジオでタダで芸を聞かせたら寄席に客が来なくなる」として、専属芸人のラジオ(当時のJOBK・大阪放送局)出演を堅く禁じていたが、
1930年(昭和5年)12月7日に桂春団治が無断でJOBK(NHK)に初出演。その後しばらく寄席出演を禁じた、春団治が寄席に復帰後、以前にも増して来場者が増え、放送番組出演の宣伝効果を知り、
1930年(昭和5年)には漫才(当時の万歳)専門の寄席小屋「南陽館」を開館、当時としては破格の値段10銭という安い入場料で横山エンタツ・花菱アチャコ、芦乃家雁玉・林田十郎、桜川末子・花子、都家文雄・静代、秋田Aスケ・Bスケらが出演し人気を博す。
昭和期の東京拡充策
昭和に入り「昭和座」「公園劇場」「万成座」を買収。
1932年3月1日に吉本興行部を改組する形で吉本興業合名会社発足。東京支社を開設。林弘高が支社長に就任。
1933年(昭和8年)吉本の社内に映画部を設立。
1934年(昭和9年)5月4日にJOBK(NHK)と吉本は和解を果たし、プロモーション活動の一環として積極的に「ラジヲ番組出演開始」
- 同年、正力松太郎の音頭で、京成電鉄や東芝等と共同出資して、プロ野球球団の大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍、現:読売ジャイアンツ)を設立。
1935年11月 東京吉本の本拠地「浅草花月劇場」をオープン
東京吉本は「伝統的演芸路線」を取る大阪吉本と異なり、徹底した「モダン・ハイカラ路線」を展開
「浅草花月」オープン時には当時の流行歌手やレビューの「吉本ショウ」も上演している。専属のバンドと歌手ダンサー・チームを抱える「吉本ショウ」は、やがて「浅草花月」の目玉となっていた。
当時の東京吉本は、柳家金語楼、柳家三亀松を筆頭に、多くの東京の人気芸人を専属に抱えていた。コメディアンの堺駿二(堺正章の父)、も当時、東京吉本に所属していたことがある。
東京の演芸会をほぼ独占していた全盛期の戦前
この時期、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市に47館の直営劇場・寄席・映画館を所有し、所属の芸人数は約1300人に上った。
1935年(昭和10年)には、映画会社東宝の前身の一つであるピー・シー・エル映画製作所(PCL)と提携。
1936年(昭和11年)東宝映画配給と提携し、林正之助が東宝映画配給の取締役に就任。
以後、横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼ら吉本所属の喜劇人の映画が、続々と東宝から封切られることになった。
1937年(昭和12年)の日中戦争の開始、
1938年9月、常設興行場 東宝との合弁企業で東宝演芸を東京に設立。
1938年 大阪名物と謳われた新世界の通天閣を買収
- 当時の国策に協力することで、戦時下を乗り切ろうとしからは、大阪朝日新聞(現:朝日新聞大阪本社)(※2)と協力して「わらわし隊」という戦地慰問団を結成し、エンタツ、アチャコ、金語楼、三亀松ら自社の人気芸人を続々と中国大陸に派遣した。
1939年 「新興引き抜き騒動」おこる。
東宝と吉本が急接近したことに反発した松竹が傍系の映画会社「新興キネマ」に演芸部を設立させ、吉本の人気芸人を引き抜きいた事件。
大阪吉本では、漫才コンビのミスワカナ・玉松一郎、松葉家奴・松葉家喜久奴、西川ヒノデ・サクラ等、
東京吉本では、川田義雄を除く「あきれたぼういず」、東京漫才の若手・香島ラッキー・御園セブン等が松竹に移籍した。
1941年 の太平洋戦争の開始と戦時下の締め付け強化で、当局の台本への検閲が厳しくなり、レビューへの風当たりがきつくなった。東京吉本の「吉本ショウ」は「吉本楽劇隊」と改称させられている。
- 同年、情報局や大政翼賛会の主導により「日本移動演劇連盟」が設立されると、「吉本移動演劇隊」を結成してこれに加盟し、全国を巡演した。
1942年、後のミヤコ蝶々が旅回り一座からスカウトされ、吉本入り。
1943年映画館の火災で損傷した初代通天閣を解体し、政府に軍需資材として献納
1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で、「神田花月」「江東花月」が焼失。神奈川県下に所有していた劇場も空襲で全て焼失、関東地区には「浅草花月劇場」「浅草大都劇場」「銀座全線座」の3館のみが残った。
吉本興業は終戦直前に花菱アチャコを除く全所属芸人との専属契約を解消。(同時に会社に借金がある芸人についてはその借金を棒引きした。)
敗戦後の復興期
終戦後、吉本興業は演芸による復興をあきらめ、「映画の製作と上映」に活路を見出すこととなった。
1946年10月には京都で進駐軍専用のキャバレー「グランド京都」をオープン
- 同年同月、林弘高率いる東京吉本は、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立。銀座に本社とスタジオを構え、東京・横浜の劇場・映画館経営と共に、デビュー当時の江利チエミのマネジメントや力道山のプロレス興行も手がける。
- 同年11月には、映画会社東映の前身の一つ、「太泉映画」を設立。東京練馬区大泉に映画スタジオを創設して、「肉体の門」(主演・轟夕起子 監督・マキノ正博/小崎政房)など数々の映画を製作した。
- 「浅草花月」は、浅草公園六区の他の劇場と同様、ストリップや「大江美智子の女剣劇」を上演する一方、引き続きトニー谷、由利徹ら、多くの東京の芸人を出演させ、人気を博した。
- その後東京吉本「吉本株式会社」は業績が悪化し、最終的には会社更生法の適用を受ける。
1948年1月7日に大阪吉本が現在の「吉本興業株式会社」となり復興発足。
- 同年2月に封切公開された大映映画「大島情話」(主演・坂東好太郎 監督・木村恵吾)を皮切りに、次々と映画を製作、所有していた寄席・劇場の多くも映画館に切り替えた。
1949年(昭和24年)5月14日に大阪証券取引所(現・東京証券取引所)上場。
1950年3月14日 創業者の1人吉本せいが死去。
テレビ時代のビジネスモデルを目指した昭和30年代
1953年8月28日 - 日本テレビ、テレビ放送開始(民放での初のテレビ放送の開始)。
1955年4月1日 - ラジオ東京(KRT・KRテレビ、現:TBSテレビ)がテレビ放送開始。
1957年
- 11月1日 - 日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)設立。
- 11月18日 - 富士テレビジョン(開局前の1958年12月にフジテレビジョンに改称)設立。
1958年12月23日 - 東京タワーから放送開始。
「テレビの隆盛」と「映画の衰退」を見据えて再び演芸部門を復活。コメディを中心にすることにし、それをテレビで中継させて客を呼ぶ作戦に出た。
1959年3月1日 手持ちの映画館を演芸場に改装した「うめだ花月」開場、演芸再開に乗り出す。
- 同月同日 - フジテレビ(略称:CX)開局。
演芸再開当初は所属芸人がおらず、佐々十郎、茶川一郎、大村崑、芦屋小雁といった「東宝系のコメディアン」や、中山千夏、雷門五郎といった既存のスターのほか、松竹と袂を分かった「千土地興行」の「千日劇場」の芸人を借りたり東京吉本の客演で凌いだ。
1961年10月2日大阪吉本「吉本興業株式会社」東京証券取引所に上場。
1962年 京都花月オープン。
- 同年「吉本ヴァラエティ」が「吉本新喜劇」改称、白木みのる、平参平、ルーキー新一、花紀京、岡八郎、原哲男、桑原和男、財津一郎らのスターを輩出。
1963年 「なんば花月」オープン。
1965年頃には、落語や漫才でも吉本所属の若手芸人が育ち始め、メディアと連動する形で若者の人気を得ていった。
1976年頃には、上方演芸界の主導権は再び松竹系から吉本興業へ移っていった。
東京再進出
1980年 会社更生法の適用を受け事実上倒産していた東京吉本「吉本株式会社」に代わり、木村政雄を所長として東京連絡事務所(後に東京支社、さらに東京本社に格上げ)を設置、東京吉本の再興にも乗り出した。
この頃 漫才ブームで、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介、明石家さんまら吉本興業から全国区の若手人気芸人を続々と輩出、春やすこ・けいこ以外人気スターを持たなかった松竹に代わり以後吉本興業が上方の演芸界をほぼ独占支配する形となった。
1980年代末以降、名古屋、福岡、札幌、広島に支社または事務所を続々と開いていき、地方のテレビ局への食い込みを図ると共に、ローカルタレントの育成にも乗り出した。
1990年代以降、吉本が「銀座7丁目劇場」「渋谷公園通り劇場」「ルミネtheよしもと」「神保町花月」「よしもとプリンスシアター」と次々と東京に劇場をオープンさせたことに加え、吉本総合芸能学院(NSC)の東京校が開校したこともあり東京吉本出身の芸人が続々と育ってきた。
2005年 吉本興業やフェイス、ファンダンゴ、インテルなどが出資する(株)ベルロックメディアを米国に設立。同時に日本法人も立ち上げ、日米でメディアの多様化にあわせ吉本グループのコンテンツを活かした新たなビジネスモデルを構築を目指している。
直営劇場を東京に2つ、大阪に3つ、さらにテレビ番組収録用のホールを東京・大阪に各1つ持つにいたり、所属タレントは約800人という陣容になった。
2007年(平成19年)10月1日には、持株会社に移行。
マネジメント・制作・営業統括部門を「株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー」、不動産賃貸・その他の事業統括部門を「株式会社よしもとデベロップメンツ」、経理・人事などの統括管理部門を「株式会社よしもとアドミニストレーション」にそれぞれ分社、ファンダンゴを株式交換で完全子会社化し、「株式会社よしもとファンダンゴ」としている。
2008年(平成20年)、東京吉本、新宿区新宿(花園神社隣)に本社ビルを建設、神田神保町から移転、大阪吉本と肩を並べる存在になった。
2009年、アメリカ大手のエージェンシークリエイティヴ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)と業務提携。
2010年、秋元康プロデュースによる、NMB48が、東京・秋葉原のAKB48、名古屋・栄のSKE48に続く地域アイドルとして大阪・難波に誕生。
2011年 「あなたの街に"住みます"プロジェクト」スタート。
2012年 100周年を迎える。
2014年 映画の製作・配給・宣伝を中心とした業務を扱う株式会社KATSU-doを設立。代表取締役に映画プロデューサーの奥山和由が就任
2015年 、洋画の配給に進出することを発表。第1弾はマイケル・ファスベンダー主演の映画『マクベス』で2016年夏公開。
参照覧
※1、年齢に関係なく、「先に入団」した者が先輩という風習は、「侠客社会」から出た風習で、「興行界(ショウ・スポーツ界、芸能界、舞台芸術団体」「古くからの運輸業界(トラッカー)」「広域暴力団」共通の「やくざ思想」である。
※2、戦後の社主追放騒動までは「朝日新聞社」は意外や右翼の巣窟でした!
公開:2020年12月 7日
更新:2020年12月 7日
投稿者:デジタヌ
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