京阪電車 魂!近畿の数多くの 鉄道 建設に関わり経営理念を貫き通し続けた " おけいはん " の歴史...
前書き(要約) 近畿の数多くの鉄道建設に関わり、理想を追い求めたインテリ集団!
創業以来、市内中心部乗り入れを阻まれ続けてきた「京阪電車」がやっと大阪市の居城 "中之島" に上陸!できたましたが...
共存共栄を尊ぶ「はんなりした京都の旦那衆」とは異なり大阪市を牛耳ってきた「転入組あきんど・町衆」は狡猾で「鉄道オタク?」で有り続けてきた"お京はん"には分が悪い!ようですが...
"おけいはん"の歩んだ鉄路とは正しく、"崇高な理念"を貫こうとする『理想家集団』おけいはんと、"利権主義(市営モンロー主義)"を掲げる『なにわ町衆(まちしゅう)』の抗争の歴史だった...といえるのではないでしょうか!
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※本記事は2007年11月6日に初稿を公開したコラムに新たに最新情報を補筆してリニューアルして「令和元年」版としたコラムです。
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※本ファンタジーについて
本レビュー記事は、出来る限りの"記録(時系列)に下ずいた史実に、地政学的!・工学的 な検証"を行ってるセミドキュメンタリー!ですが...
筆者の億測を交えたファンタジー?でもあります。
後述する各団体とは直接関連はありません。
また各団体では"答え難い大人の事情、あまり触れられたくない内容!"も含まれています。
本件に関してのお問い合わせはご無用に願います。
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京阪電車の生い立ち
京阪電車は官設東海道本線のルートから外れた旧京街道に(現国道1号)沿いに、
大阪市 と京都市を結ぶ「高速電気鉄道」インターアーバンとして、日本産業界の始祖渋沢栄一氏が、自ら説いた合本主義に下ずいて、当時の成田鉄道社長佐分利一嗣を中心とした関東の実業家と衆議院議員岡崎邦輔氏らを集め1901年(明治34年)に起案したことに始まり、
これに呼応する形で翌年1902年に京阪神地区の財界人たちが「軌道条例」に基づく「畿内電気鉄道」として事業化して1906年8月25日に大阪市東区高麗橋詰町 ⇔京都市下京区朱雀町五条大橋東詰間の電気軌道敷設の「特許状」と命令書を下付されて、同年8月30日に創立委員6名と共に渋沢栄一氏が創立委員長に選任されて、され9月3日に畿内電気鉄道㈱創立委員会で定款が決定され、1906年12月21日に起案から6年越し!にしてやっと京阪電気鉄道株式会社が発足しました。
つまり「あきんどモンロー主義」(※10)の旗頭で有る日本最初の公営路面電車「大阪市営電気鉄道」が花園橋(現在の九条新道交叉点)と 築港桟橋(現在の大阪港/天保山)間5.1kmを開業させた1903年以前から、「おけいはん」の事業計画が進んでいたことになるわけです。
参※10)当サイト関連記事 大阪市における" 市営モンロー主義 "の起源と変遷はこちら。
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1901年から計画されながら会社設立が遅れ、会社設立後も大阪市から「時間稼ぎの無理難題」が次々と突き付けられて、大阪市がずるずると大市営電車軌道共用、市内乗入契約締結を引き延ばして、
やっと1908年9月26日に契約が締結できて軌道特許が下され、1909年(明治42年)4月になって初めて大阪市北区東野田網島(現・都島区網島町)の車両工場、車庫の建設にこぎつけたわけです。
1910年(明治43年)3月31日:大阪・天満橋 ⇔ 京都・五条(現・清水五条)間46.57kmの軌道敷設工事が竣工し、同年4月15日になって大阪・天満橋 ⇔京都・五条間を1時間40分で結ぶ現在の京阪本線が開業した。
当時の乗入契約は"路線レンタル"契約に近かった!
大阪市との間で交わされた市営電車軌道共用と市内乗入契約は、巧妙な軌道敷設妨害「嫌がらせの手口」として有名ですが、近年のプロダクション制作番組「鉄道伝説」やそれを鵜呑みにした「ニコニコ動画」迷列車シリーズの「某匿名UP主」達が「軌間1067mmの狭軌軌道」を敷設したというは事実と反する作り話!です。
(※「鉄道伝説」「ニコニコ動画」迷列車シリーズには時代考証が欠如!しているコンテンツが多数混ざっています!)
「大阪市営電気鉄道」は開業当初から1435㎜の標準軌で一貫しておりのでしょう!
その1 路線の制約
大阪市営電気鉄道で使用された(8.3m!の2軸車)車両規格(車両限界)が異なり、さらに交差点付近のカーブの最小曲率半径も当時の京阪の中(途半端)型4軸ボギー車両17mでは走行(乗り入れ)不可能?と判断されたことが一つ。
その2 路線レンタル方式をとった当時の乗り入れ契約が
乗り入れ先の運転手と交代する乗り入れ先への「車両レンタル契約」方式の相互乗り入れは、敗戦後になってからの方式で、当時の乗り入れは異なっていました!(※11)
乗り入れ予定区間の天満橋⇔大阪駅前間の料金設定問題がこじれて、実現に至らなかったと考えるのが妥当でしょう。
当時の乗り入れは、まさしく運転手・車掌込みで乗り入れて、後日運行本数に応じて清算する「路線レンタル」形態でした。
大阪市電と京阪電車では運賃設定が異なり、京阪側に無理やり承諾させた片方乗り入れ案(協定)は最初から実現性がなかった!と考えるのが妥当でしょう。
1910年京阪本線天満橋開業時以前から、そのこと(大阪市のペテン)は京阪も承知していたと考えられます。
参※11)1921年に同じように片方乗り入れを条件に、南海鉄道上町連絡線(現阪堺電気軌道)の天王寺区内区間が買収されて、戦時中の1943年に大阪市電市内均一料金制が導入されて完全に追い出された!ように...
『理想家揃いのインテリ集団』であった開業時の京阪電車経営陣が正規の手続きにこだわった!
これは京阪国道(旧東海道)沿線という庶民の住む下町?を通過する路線にしては...
"意外とお上品な学者肌のインテリ集団(理想家?)"の「崇高な理念」に下づいた軌道敷設計画であり、中央政権に寄り添った財界が、あくまでも「正義・手続き」を重視した紳士的手法に拘った為に、「旧大阪三郷」が起源の大阪市「北区職員」の計算高い「町衆的嫌がらせ」に屈してしまったのでしょう。
阪神電車・阪急電車などはあくまでも「既成事実」に徹し、軌道特許の発行を待たずに軌道建設を押し進め既成事実(路線)を追認させる手法で阪神間に近郊電車路線網を構築していきました。
1915年2月6日:臨時株主総会において、京都市長と締結した京都市電気軌道鴨東線 三条 ⇔五条間の軌道使用契約(路線レンタル契約)を承認。
同年10月27日:鴨川線 五条 ⇔ 三条間1.5kmが開業。
※つまり、京都市では早くから市営モンロー主義などは行っていないどころか"共存・共栄・はんなり(上品)路線上"を走っていたわけです!
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その後も、当時は淀川以北の未開の荒野?に、インターアーバン「第2京阪線」を敷設して「超特急」を走らせて京都⇔大阪天神橋間を30分で結び、将来は名古屋まで至る計画「崇高な理想」実現に猛進?したのでした。
1919年には新京阪(現阪急京都線)大阪府東成郡榎並町⇔京都府紀伊郡納所村間30.4kmと、その支線東成郡清水村⇔東成郡城北村間、東成郡城北村⇔西成郡豊崎町川崎間、京都府内の枝線4路線合計43.8kmを軌道法に下ずいて特許収得しています。
ただし特許取得条件として既存の大阪市内側起点天満橋とは別の場所に、もう一か所起点駅を設けることが取得条件の一つでしたが。
鉄道省城東線の高架化工事と跡地利用で梅田乗り入れを目指す
そのころ進んでいた城東線(現大阪環状線)の電化・高架化工事計画は、既設の地上線と平行して用地を取得して、そこに高架を建設するという手法が採られていたため、工事完成後は旧線用地が不要となる予定でした。
そこで京阪は、太いパイプで繋がっていた当時の中央政府の鉄道省に働きかけて、その旧線用地の一部を570万円!という当時でも破格の安価で払い下げてもらい取得して、「野江」から分岐して京阪本線と計画中の「新京阪線」を「梅田へ乗り入れさせる路線計画」を作成しました。
※嘗て事業用地まで確保されていた「京阪梅田線」についての詳細はWikipediaの解説記事へ。
しかし、当時市内交通の市営一元化(市営モンロー主義)に下ずく都市計画?を進める大阪市(北区)が、「自治権の侵害」として横やりを入れて、地上線では都市計画の妨害になるなどの、ヤクザ同様の「因縁話」をつけて猛反対に回ったわけです!
1920年に鉄道大臣が直接第6代大阪市長の 池上四郎(4大区出身)への諮問(事情聴取)を行い、翌年市長が鉄道省に京阪の大阪市内部の路線を"高架線か地下線"にして立体交差することを条件に、一応の話し合いはついたかに見えました?
しかし1923年9月1日発生した関東大震災の影響で、(京阪梅田延長の大前提である)国鉄城東線の高架化工事に国の予算が割り当てられなくなり、城東線高架工事の着工時期の目途が立たなくなりました。
1925年1月27日:京津電気軌道との合併が鉄道大臣、ならびに内務大臣から認可。
同年1月30日:京津電気軌道との合併が逓信大臣から認可。
1932年9月:京阪線の車両の集電装置をトロリーポールからパンタグラフへ変更。
同年10月15日:京阪線の全車両のパンタグラフ化が竣工。
1933年12月29日:京阪本線の蒲生信号所 ⇔守口(現・守口市)間を複々線化!国内私鉄初の快挙!となりました。
新京阪の開業
その後、新京阪線は新設区間の建設工事と旧北大阪電鉄線(現千里線)区間の改良工事を経て、
1928年1月に天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅)⇔高槻町駅(現在の高槻市駅)間で、同年11月には高槻町駅⇔西院駅(仮)間の新京阪鉄道をやっと開業にこぎつけました!
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この時期「阪和電気鉄道」(現在のJR阪和線)、和歌山市内線、奈良電気鉄道(現在の近鉄京都線)などにも多額の積極投資を行っていた京阪系列の経営は極端に悪化して...
1927年の下半期には当時の金額で6752万円、1929年の下半期には1億721万円というにも途方もない巨額に達し、(どこかのXXメトロ某路線同様に)旅客収入では利息の支払いすらまかなえない状況となってしまいました!
昭和大恐慌がとどめを
1929年(昭和4年)10月にニューヨークのウォール街で始まった世界恐慌が1930年(昭和5年)には日本へも飛び火し1931年(昭和6年)にかけて"昭和大恐慌"が発生し、チンチン電車なのに「自転車操業?!」であった京阪電車を襲い、もはや新線建設などの余裕はありませんでした。
倒産寸前の京阪は1930年には野江駅からの延伸申請を取り下げ、戦前の1942年には(天六⇔京阪本線間の)関連免許が失効しました!
その後1940年には巨大負債の一因ともなった「阪和電気鉄道」を南海鉄道に売却。
1943年には陸上交通事業調整法で阪神急行電鉄株と戦時統合して京阪神急行電鉄株式会社(現阪急)の一部に組み込まれました。
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1949年(昭和24年)になってやっと京阪神急行電鉄より、京阪本線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線の各路線が分離譲渡される形で京阪電気鉄道株式会社として再出発できましたが、この時に戦前に京阪電鉄が建設した新京阪は、千里線ともども阪急京都線としてそのまま阪急(※41)に分捕られてしまいました!
1962年には共同出資していた奈良電気鉄道(現近鉄京都線)の株式を近畿日本鉄道へ譲渡(売却)
1963年4月16日:淀屋橋駅 ⇔ 天満橋駅間が地下線で延伸開業。
1968年12月には近鉄京都線(旧奈良電気鉄道)の1500V昇圧のために、1945年12月以来23年にも及ぶ長年に渡る近畿初の相互乗り入れ事業、(近鉄西大寺⇔丹波橋⇔京阪三条)(宇治⇔中条島⇔たん丹波橋⇔近鉄京都)は廃止されて、完全に奈良電とは縁切れ?となりました!
1970年11月1日:京阪本線の天満橋 ⇔ 野江間を複々線化。
1976年9月12日: 京阪本線の守口市 ⇔ 門真市間高架完全緩急分離複々線化。
1978年7月30日:京阪本線の門真市 ⇔ 寝屋川信号所間の高架複線を使用開始。
参※41)当サイト関連記事 『絶対に損はしない 阪急 商法』...日本の私鉄におけるフィロソフィー抗争?の歴史はこちら。
京都市交通局とは永年仲良くしており...
同年10月1日 京都市電全線廃止。河原町線 京都駅前 ⇔七条河原町、七条線 七条河原町⇔東山七条、東山線 東福寺 ⇔高野、北大路線 高野 ⇔ 千本北大路、西大路線 千本北大路⇔西大路九条、九条線 西大路九条 ⇔東福寺を廃止し、市営バスに転換。烏丸車庫廃止。
1980年3月16日:京阪本線の土居⇔ 寝屋川信号所間が高架複々線化。京阪本線の天満橋 ⇔ 寝屋川信号所間14.1㎞が私鉄最長(当時)の複々線区間となる。(※42)
1983年12月4日:京阪本線・宇治線・交野線の架線電圧を直流600Vから1500Vに昇圧。
※42)これにより当時私鉄初の試み!として当時私鉄最長だった京橋⇔寝屋川信号所間12.6km区間の完全緩急分離複々線が完成しました!)
※43)大手私鉄の中で唯一1500v昇圧が遅れたのは、京都市内で平面交差していた京都市電のが1978年まで運行されていたために京都市電(600v)との平面交差が多く、市電の廃止を待って昇圧が実施されたためです、西鉄さんのように市内線との平面交差部分をデッドセクションとする手段も考えられましたが...
交差部分の、真近に駅が設けられていたために、助走区間が設けられなくてこの手も使えませんでした!
地下線・連続高架事業で立体交差事業に貢献!
1987年(昭和62年)5月24日:京阪本線の東福寺 ⇔ 三条間が地下化(総工費580億円)。
1989年(平成元年)10月5日:鴨東線と三条間⇔ 出町柳間を延伸開業して、叡山電鉄(旧京福電鉄2002年より京阪ホールディングス完全子会社化)とつないで、現在の京阪グループ鉄道網が完成しました。
1997年10月 京津線 京津三条 ⇔ 御陵間3.9km廃止。
京津三条駅、東山三条駅、蹴上駅、九条山駅、日ノ岡駅を廃止して御陵府道東踏切付近 ⇔御陵間を同日開通の市営地下鉄新線方乗り入れに変更しました。
同時に前例が少ない(※44)併用軌道区間もあるLRT路線・京津線の架線電圧を600Vから1500Vに昇圧!して、更に新幹線車両より高価な全長60m!4両連結の登山電車?でstreet running(※45)を行い、京都市営地下鉄東西線京都市役所前まで片方乗り入れするという先進的な事業を貫徹しました。(※46)
参※44)当サイト関連記事 第1節 トラムトレイン方式(カールスルーエタイプ)とは?日本初の嘗ての新潟交通電車線 はこちら。
参※45)当サイト関連記事 日本の私鉄は" street running "ではじまった! はこちら。
参※46)当サイト関連記事 京阪電車 と京都市だからなしえた LRT の 地下鉄 乗り入れ! はこちら。
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もしも大阪にも、帝都と同じように♥商都高速度交通"英断"(営団)が存在していたら、大阪都市圏交通網は今とは大きく異なっていた!でしょう。
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鉄道黎明期において日本各地で幹線鉄道を敷設していったのは、民間資本による"民鉄"でした。
幹線の多くはその後お国に買収されて、官営鉄道になり国鉄を経て現在のJR各社となりました。
現在の大手私鉄の殆どはこの時運よく買収を逃れたましたが、第2次大戦中の戦時統合で合併を余儀なくされて、敗戦後に再度独立して現在に至っています。
また大手私鉄の大半が辿ったLRTや新都市交通、バス路線にもスポットをあてて、離合集散、新線建設・廃線を繰り返しながらも"波乱万丈の路"を走り続けてきた公共交通事業者の過去・現在に焦点を当ててみました。
狸穴総研 公共交通網調査室 出自多留狸
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関連団体リンクテーブル
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- 都市・地域整備局 都市計画課(LRTガイダンス)
- ●大阪府 ♥府政へのご意見受付
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- 広域鉄道グループ(北陸新幹線、リニア中央新幹線、大阪モノレール、トラム事業関連)
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- ●大阪市 ♥区政・市政へのご意見等受付ページ
- 大阪市都市交通局、♥市民の声ページ
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- 大阪市計画調整局
- 都市計画課(Email)
- 交通政策課(Email)
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- 中ノ島高速鉄道
公開:2020年10月 7日
更新:2022年7月 1日
投稿者:デジタヌ
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