タヌキがゆく

アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川とロジスティクス ー 中編 ー

前書き 北アメリカ大陸のterritory争奪戦において川は大事なFrontierだった

川は北アメリカ大陸開拓初期において重要なLogistics (兵站)を果たしただけではなく、territory(実効支配地)を別つ重要なFrontier(縄張りライン)として、各国の防衛ライン・最前線として死守されていました。

大河川は水を流していただけではなく、そこで戦った人たちの「多くの血」も流されていたのです。

アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川とロジスティクス ー 中編 ー の目次

※リンクについて

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但し、その他の直接 hyper-link は当事者・関連団体の公式サイト若しくはオリジナル各国語版Wikipediaへ直接リンクしています。

プロローグ 白人耶蘇教徒によるアメリカ大陸侵略!

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別項で記したようにイタリア生まれの奴隷商人!クリストファー・コロンブスが、スペインのCarta(公認・お墨付き)とapoyo(資金供与)を得て、新しい狩猟場?を求めて大海原に漕ぎ出し1492年・1493年の2度の航海で Indias Occidentales(西インド諸島)のイスパニョーラ島を「新大陸?」として誤認して、

ヨーロッパ人初のfort(砦)とcolony(植民地)を築き(※01)、「アメリカ航路」を開いたことが、当時の"崩壊しかけていたカトリック体制」にあった西欧列強が、海洋国家としてアメリカ侵略をするトリガーとなったとされています。

これが"ローマ法王臣下"のスペイン王国とポルトガル王国の間で交わされた(カソリック)世界を2分する??? 1494年6月7日の絵空事 トルデシリャス条約に繋がり、西欧列強による異教徒国家の蹂躙の歴史「大"後悔"時代?」が始まったわけです。

参※01)この時築いたfort(砦)は3度目の航海の時点ではいずれもネイティブ民族により奪回されて、破壊されていました。

第1項 アメリカ大陸最初の"国家"を建国したスペイン王国

その後は、America(アメリカ大陸)の名称の由縁となったイタリア生まれの地理学者・探検家のAmerigo Vespucciが「海洋進出を企てていたスペイン」の要請で。1497年→1505年にかけて4度のscouting(斥候・偵察)航海で新大陸アメリカを確認して、

コロンブスがイスパニョーラ島に再度fort(砦)とcolony(植民地)を築き、息子Diego Columbus(ディエゴ・コロン)が1510年に金鉱を求めてキューバ島に遠征し、1511年に有名なDiego Velázquez de Cuéllar(ベラスケス)が、fort(砦・)とcolony(植民地)を築き総督となり、本格的な大陸遠征の拠点を築きました。

そしてカソリック社会スペイン王国による「土着民族弾圧・殺戮・金銀財宝略奪」のアメリカ大陸蹂躙の世紀に入ったわけです。

と同時に西インド諸島(アメリカ大陸?)の植民地化でアメリカ大陸進出を果たし、アメリカ大陸初の"国家(海外領土)"を建国(主張)して、ヨーロッパ各国に認めさせたのもスペイン王国でした。

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第1節 北アメリカ大陸における国家形成とFrontier確定に係った最初の人物たち

開拓(侵略)初期から、アメリカ大陸でのvirreinato(副王領)dominion(国外領土 )(※10)、そして北アメリカ大陸最初の主権国家USAとそれに続いただ2番目の主権国家Mexicoの成立に関与したのが以下に掲げる人たちです。

参※10)当サイト内関連記事 国際社会(西欧社会)における"主権国家" とは? はこちら。

第1項 スペイン王国の新大陸"領土化"に貢献した?征服者コルテス

前途した海賊の親玉?ベラスケスがメキシコ本土へのSpanish territory 拡大に差し向けたのが、Hernán Cortés(コルテス)でした。

メキシコに上陸して平定(征服)を開始した当初は、ベラスケスが"権力闘争"の標的・政敵として、キューバから討伐隊を送りベラスケスに"粛清"されかけましたが...

1521年にメキシコを実質平定して、スペイン本国にSpanish territory(国外領土)として認めることを進言(直訴)し、

1535年にスペイン王国の飛び地としてVirreinato de Nueva España(副王領ヌエバエスパーニャ)が誕生する路を開きました。

但し彼の、「Virrey(王代理・知事)になる野望」はかなわず、Antonio de Mendoza(アントニオ・デ・メンドーサ)がVirreyとして派遣されました。

Virreinato de Nueva Españaこそ「ヨーロッパ諸国に認知されたアメリカ大陸最初の"国家(領土)"」と言っても差し支えないでしょう。

但しあくまでも「飛び地・領土」として"スペイン王国が併合し"たエリアなので主権国家ではありませんでしたが...

植民地政策をとった嘗ての大日本帝国の朝鮮半島併合はこれに学んだのでしょう?

李氏朝鮮はアステカ文明同様に、多くの反対勢力を抱えた、呉越同舟集団でもあったわけです。

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第2節 USAの国家形成と大河

1651年10月9日、イギリス王国・議会は 航海条例を可決して、アメリカ植民地のイギリス以外との他国貿易を禁止しました...

これは結果的にイギリス本国と民間開拓会社の政治的摩擦を引き起こしました...

1675年から1678年にかけて起こったnative peopleのresistance(抵抗活動)フィリップ王戦争ではイギリス帝国の軍事支援が無く、入植者独自のidentity(主張)が生まれました。《英語版Wikipediaより引用》

第1項 アメリカ独立戦争

アメリカ独立戦争(1775年4月19日- 1783年9月3日)は、Revolutionary War(革命)またはAmerican War of Independence(アメリカ独立戦争)としても知られ、USAがイギリス帝国からの独立を果たす働きをしました。

戦闘は1775年4月19日に始まり、1776年7月4日の独立宣言に繋がりました。

アメリカ人はフランスとスペインに支援されて、北アメリカ、カリブ海、大西洋でも紛争が起こりました。

そしてTreaty of Paris (1783)(1783年のパリ条約)でイギリス帝国がUSAの独立を受け入れて1783年9月3日に停戦しました...《英語版Wikipediaより引用》

しかし、その後もnative peopleのAmerican indian各種族のresistance(抵抗活動)が続き、条約に記されたミシシッピー川、五大湖、セントローレンス川で囲まれた、USA territory(領有地)の平定?(占拠)を終えるにはさらに数年を要しました。

なのでUSAでは1783年9月3日のパリ条約締結を独立戦争の終結とは考えずに、American indian討伐?Northwest Indian Warの停戦した1795年8月3日のTreaty of Greenville(グリーンビル条約)をもって独立戦争の終結と主張する共和党War hawk

を支持する人たちも多数います!

Revolutionary Warの背景と経緯

1680年代にチャールズ2世は航海条例をたてに植民地会社に迫り、従わない植民地会社のCharter(憲章:認可状)を無効としました。

1686年に後継者ジェームズ2世が各地の会社組織のcolony(植民地)を王家直轄のdominion(領地、自治領 )としました。

しかしイギリス王家のdominion(海外領地、自治領 )施策は入植者独自の入植者独自のidentity(自立心)と激しく衝突して、ジェームズ2世が事実上退位し本国の政権が交代すると、イギリス王国に対する反乱1689年4月18日の Boston revoltに繋がりました。

その後のイギリス帝国内閣は...特定の商品に課税する行為を続けました...1733年の糖蜜法(課税)はNew England経済に深刻な打撃を与え、密輸、賄賂、税関職員への脅迫などにも波及しました...《英語版Wikipediaより引用》

更に、1744年から1748年にかけてアメリカとフランスとのterritory(領有地)争いKing George's Warの戦後処理もNew England植民地の不満要素となりました。

戦争中にNew England民兵が多くの血を流して奪取したルイブール要塞をイギリス政府は、Treaty of Aix-la-Chapelle (1748)アーヘン和平条約でFrontier(縄張りライン)を明確にしないままにフランスに返還してしまいました!

さらには、つまりは北アメリカ大陸でのterritory問題は解決しなかったわけです。

さらに、1764〜 11775年にかけて砂糖法、通貨法、四半期法、印紙法1765、タウンゼンド諸法と茶法など次々に新たな課税と更にはQuebec ActIntolerable Actsがもうけられて、プロテスタントへの弾圧、Boston revolt首謀者に対する「落とし前!粛清」等次々とイギリス本国の締め上げが厳しくなりました。
これ等の圧政がAmerican War of Independenceに繋がりました。
※おとぎ話が大好きな日"教祖"の患部たちは、 Boston revoltなどを面白おかしく?強調して、"民衆の勝利"おとぎ話をでっち上げたわけです。実際には「商人共の利権争い」が主流を占めていたわけです。

第2項 riverは大事なFrontierだった

(※地図は面白い事(地政学?)を学ばせてくれる!)

このRevolutionary Warの注目すべき点は「riverが死守すべきFrontier」とされたことです。

セントローレンス川、五大湖、ミシシッピー川は勿論、ハドソン川、ポトマック河、オハイオ川、St. Croix River (Nova Scotia)、セントメアリーズ川などが大事なFrontierとして流域で戦いが繰り広げられたわけですが...

これは後の南北戦争でも同じで、Potomac River(ポトマック川)を挟んだWashington, D.C.(ワシントンDC)& Maryland(メリーランド州)とが対峙した Virginia(バージニア州)の州境は、

Potomac Riverの中央ではなく右岸沿いに設定されています!

これは、戦時中にVirginiaと袂を分かちUSA側(北軍)となったWest Virginia(ウェストバージニア州)とMaryland(メリーランド州)の州境North Branch Potomac River(ノース・ブランチ・ポトマック川)も同様ですが、つまりConfederate States of America(CSA;アメリカ連合国:南軍)と対峙していたUSA(北軍)勢力としては、Frontier防衛がしやすかったからでしょう!

つまり、USA防衛隊は川船で巡視して、イギリス軍(or CSA軍;南軍)が渡河しようとしたら、対岸にUSA軍を配備して、速攻が可能だったからだと推測できます!

この州境配置は、当初New York (state)ニューヨーク植民地とNew Hampshire(ニューハンプシャー植民地)との間で争奪戦のあったVermont(バーモント共和国)とNew Hampshireその州境を流れるConnecticut River(コネチカット川)でも同様に設定されています。

USA側についたSpanish territoryのLouisianaと分かつミシシッピー川では、その後のFrench territory(Louisiana)買収時の旧河川の流れに忠実なラインとなっていて、独立戦争当時は緊張が無かったことを物語っています。

但しオハイオ川では旧British territory側つまり右岸に州境が設定されていて、イギリス軍とUSA独立軍の両陣営が対峙していたことを物語っています!

第3項 1803年 French territory(Louisiana)を買収してさらにterritory(領有地)を拡大

第1目 Mississippi RiverとFrench territory(Louisiana)だった各都市

フランス人たちは、5大湖に辿り着くと、南下して、ミシシッピー川の支流に辿り着き、多くの支流域を探検し、スペイン王国の脅威が及ばない流域に、Fortとcolonyを展開して、地道に!開拓をはじめ、ミシシッピー川流域にFrench territory(Louisiana)を展開しましたが、スペインに目を付けられて、Spanish territory(Louisiana)に組み入れられ、北部のセントローレンス川に押し戻されてしまいました。

1800年10月1日にナポレオンが武力を背景としたサン・イルデフォンソ条約西部ルイジアナとニューオーリンズをスペイン王国から取り戻しました。

権力者となったナポレオン・ボナパルトが国力(武力)による政治圧力でスペインからSpanish territory(Louisiana)を"奪い返し!"て、その後ヨーロッパ統一に向かい、強大な海軍力で大西洋のterritory(制海権)を手中に納めていたイギリスとの軍事費捻出の為に、1803年に新生USAに売り飛ばしたわけです!

また1808年には ナポレオンがスペインで、武力を背景に「兄ジョゼフをホセ1世」とした傀儡政権を樹立しましたが、ナポレオンの失墜と共に1814年にブルボン朝のフェルナンド7世が再びスペイン国王に返り咲きましたが、時すでに遅し。

French territory(Louisiana)はAmerican territoryとなっていました。

District of Louisianaが誕生

更に1805年にAmerican territoryのLouisianaが誕生しました。

第4項 ここまでの主だった出来事まとめ

1775年4月19日(から1783年9月3日) 独立戦争

1789年3月4日アメリカ独立宣言

参)独立宣言に参加した13植民地

ニューハンプシャー植民地(ニューハンプシャー)
マサチューセッツ湾直轄植民地(マサチューセッツ)
ロードアイランド植民地(ロードアイランド)
コネチカット植民地(コネティカット)
以上は後に「ニューイングランド」と総称されるようになる各地域。

ニューヨーク植民地(ニューヨーク)

ニュージャージー植民地(ニュージャージー)

ペンシルベニア植民地(ペンシルベニア)
デラウェア植民地(デラウェア)

メリーランド植民地(メリーランド) en:Chesapeake Colonies
バージニア植民地(ヴァージニア) en:Chesapeake Colonies
ノースカロライナ植民地(ノースカロライナ)
サウスカロライナ植民地(サウスカロライナ)
ジョージア植民地(ジョージア)

1783年大英帝国がUSA独立を承認

1783年 パリ条約で大英帝国とUSAの"休戦"が成立して大英帝国がアメリカ合衆国独立を承認。

1783年のパリ条約大英帝国がUSAと停戦して主権国家として承認した時点で、大西洋岸からミシシッピー川までの先住民族が暮らしていたエリアを「アメリカ合衆国のterritory」として密約を交わしました。

この時点で、大英帝国との米英戦争は終結しましたが、ネイティブ民族アメリカインディアンとの間でterritoryをめぐる小競り合いが?その後も繰り広げられたので...

1789年5月4日アメリカ合衆国憲法 施行以降

1789年5月4日アメリカ合衆国憲法 施行

1791年3月4日、バーモント共和国が大英帝国を離脱してアメリカ合衆国14番目の州としてUSA加盟

参※)イギリス帝国に対する反乱(独立戦争)を開始した発起人?のcolony(植民地は)は前途したようにアパラチア山脈以東の13colonyでしたが、バーモント共和国が大英帝国を離脱してアメリカ合衆国14番目の州として加盟しているので、建国時の元祖USAHは14州となります。

1795年「独立戦争の終結」

1795年に北西部を制圧してミシシッピー河以東のterritoryを確定する。

大英帝国との独立戦争は終結しましたが、ネイティブ民族・アメリカインディアンとの間でterritoryをめぐる小競り合いがその後も繰り広げられたわけです。

正に、大国のご都合主義の象徴的出来事です!

1795年独立戦争停戦後に昇格した州

ケンタッキー州  15番目1792年6月1日(バージニア州より分離)現州都;フランクフォート

テネシー州 16番目1796年6月1日(USAのテリトリーから昇格)現州都;ナッシュビル

1803年フランス領ルイジアナ買収でterritory拡大

オハイオ州がルイジアナ買収後の最初のstate(州)として1803年3月1日17番目の州に。州都コロンバス

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第3節 テキサス革命に係った人たち!と大河

前途したような経緯でアメリカ大陸初の主権国家USAが誕生したわけですが...

嘗てのアステカ帝国の金銀財宝は、最早第一次メキシコ帝国では枯渇して?新たな鉱山開発の時代になっていました。

第1項 Mexico建国の英雄?独裁者 Santa Anna

"殲滅を好むカソリック"の血を引く独裁者Antonio López de Santa Anna(以下Santa Anna)は、1794年2月21日にSpanish territoryだったVirreinato de Nueva España(ヌエルエスパーニャ)の支配者階級だったスペイン人の家庭に生まれました。

つまり、「殺戮を好む征服者スペイン人の家庭」に生まれたわけです!そして、若いころ、メキシコ独立戦争初期の"農民一揆"の時期に、"政府軍の兵士"として加り、下士官に昇進しています。

この時、上官からスペイン伝統の「容赦ない殲滅戦法」を学んだわけです。

その後、彼の所属していた王党派のIturbide(政府軍)が、スペイン本国の共和国政府に対抗してメキシコ独立戦争に加わったので、今度はIturbideの指揮下に入り革命軍(反乱軍)に加わって新生メキシコ政府に参加したわけです。

そして前途したように1821年8月24日に王党派のクーデターが起こりVirreinato de Nueva Españaの副王(知事)との間で政権交代が行われ、メキシコが独立を宣言したわけですが...

※しかし、当事者のスペイン協和国は、この条約を批准しなかったので、1836年12月28日(サンタマリア-カラトラバ条約締結)まで、15年間両国の国交は断絶したままでした。

つまり、親(スペイン王国)に認知(承認)されない私生児のMexico!は西欧社会からは主権国家としては認められていなかった!わけです。

Santa Annaの解任

新たに、皇帝!となったIturbideがSanta Annaを解任したために、実権を握っていた故郷のベラクルスで、自らの軍を組織して1822年12月に反乱を起こしました。

Iturbideの国外逃亡

Iturbideの配下だった将軍たちが反旗を翻し、1823年5月にIturbideを更迭(スペインに亡命)して、1824年にメキシコ連邦憲法を制定して共和制を復活させましたが...

Santa Anna独裁体制下のMexican territory時代

一時政界からは引退(失墜)したものの、策謀を駆使(暗殺)して敵対勢力との権力闘争に見事勝利して政界に返り咲いたSanta Annaは、憲法をも無視した"独裁者"となりました!正にスターリンそっくりです!

更に1834年、Santa Annaは議会の解散と市民軍の武装解除、「1824年憲法の廃止!」まで行いました。

つまりMexico革命以前のVirreinato de Nueva España当時より状況が悪化したわけです。

更に、元々「ならず者集団の正規軍?」に、強姦・強奪・殺戮を許可(奨励!)して、ユカタン、サカテカス、コアウイラの反乱地域の制圧を命じ、あらぬ限りの非道を繰り広げました!

1836年

独裁者 Santa Annaは「刑務所に収監されていた犯罪者!」を含む約6000名の「ならず者部隊」を編成し、自ら率いて"Texas反乱軍(革命軍)討伐"に向かいました。

3月中旬から始まったアラモ砦への総攻撃では、

13日間の戦闘の末に3月6日にTexisas民兵189名全員の玉砕(抹殺)で幕を閉じました。

更に、ゴリアドでは降伏した革命軍テキサス民兵342名全員を処刑!しました。

正に、スペインの新大陸遠征軍と同じ、"殲滅作戦"をとったわけです。

第2項 Texas 開拓の先駆者 Stephen F. Austin

テキサス開拓の先駆けとなった「テキサスの父」、Moses Austinは、州都Austinの町の名の起源にもなったStephen F. Austinの父親に当たります。

彼は正しく「テキサス開拓の道を切り開いた預言者?Moses 」なわけです。

Moses Austinは1819年恐慌で鉱山事業を失い、新生MexicoのTexsasを訪れた際に、アメリカ人のPioneer(開拓者)を呼び入れてTxsasを開拓することを思いつきました。

前途したように当時、Mexicoは独立戦争中でしたが、San AntonioにあったスペインのTexsas colony(植民地)に赴き、総督と交渉を重ね1820年に"スペイン国王の臣民"(つまりはカソリックに改宗すること)になることを条件に、300家族が入植できる「公有地払い下げ(移民)契約」を交わしました。

しかし翌年に志半ばにして無くなりました。

Stephen F. Austin が

Moses Austinの遺志を継いだ息子のStephen F. Austin(以下. Austin)が、USAで"入植移民"を募ったところ、不況の最中だったので移民希望者が集まりましたが、

1821年8月にテキサスが新生メキシコ政府の手に移り、Mexican territoryのCoahuila州となったので、改めて新政府のCoahuila州知事との交渉に出かけて、Coahuila州の行政庁 (ayuntamient) と再度契約を交わしました。

そして最初の「入植地調査」も行い、最初の入植者(移民)300家族は、無事にブラソス川、とコロラド川(Texsas)流域の入植地に入植しました。

その後更に、追加の入植(移民)契約を取り付けるために交渉に出かけましたが、メキシコ州知事からメキシコ政府の移民拒否を知らされました。

彼は臨時政府の有ったメキシコシティーまで赴き、新政府との交渉には3年間を要しましたが、1823年1月3日に何とかスペイン王国と交わしていた契約書に「同意のサイン」を取り付けて、契約を成立させました。

1823年3月メキシコ皇帝アグスティンを追い出した共和国新政府が再び契約(継続)の不履行を伝えてきて、再度交渉に当たった結果、

新移民法が成立して、権限がかねてから懇意にしていたCoahuila州(知事)に移り、知事の計らいで引き続き入植が認められました。

1925年中に300家族、1825年から1829年にかけて900家族の追加入植契約が結ばれて、入植出来ました。

そして後のテキサスレンジャーの起源となった自衛組織が創設されました。

更にUSA政府が1827年、に100万米ドル、2年後の1829年、500万米ドルで「テキサス買収提示」をしましたが、メキシコ政府は拒絶しました(はっきり言って阿保です!)。

"アメリカからの不法入国者!"が多かった1830年代

1830年になると、"今とは逆に!"USAからメキシコへ越境して不法入国するアメリカ人が多くなりました。

1832年までに Austinの功績で11,000人を超える入植者が入植(移住)して、人口は30000人に達していましたが、最早入植者に対する Austinの発言力(指導力)は無くなっていました!

その後、 AustinはメキシコCoahuila州からの分離と、"テキサス州の自治権"を得るために、当時のMexico副大統領のバレンティン・ゴメス・ファリアスなどにも謁見して交渉を続けましたが、反逆罪を問われて収監(投獄)されて入出所を繰り返し、やっと1835年7月にになって無罪方面となり釈放されて帰郷しましたが時すでに遅しで、

不法入国者が占拠したテキサス州では独立運動が活発化していて、もはや平和的手段(Mexico国内のTxiss州成立)ではなく、"完全独立・独立闘争しか道は残されていない"と悟らされました。

1835年

F. Austinは独立軍(民兵)の総大将に祭り上げられて1835年10月1日に進撃を開始してベハル包囲戦(1835年10月12日から12月11日)に参戦しました。

当初は(突然の蜂起で)不意を突かれたMexcoの守備隊に対して、後込めライフル銃を装備した反乱軍・民兵は善戦しましたが...

※当時のMexcoの守備隊では旧式な「先込め銃」を使用していました。

第3項 Texasの英雄 liberalなUSAの代表Sam Houston将軍

テキサス共和国初代大統領となり、ヒューストン市の名前の由来にもなったSam Houston将軍は、

幼年時代に家出してnative peopleの"誇り高きAmerican indian"の下で数年間暮らした経歴を持つ異色の政治家でした!

そして、彼は一生を通じてAmerican indianのよき理解者であり人種差別反対論者でもありました!

独立戦争で一兵士から少尉に昇進!

USA独立戦争では一兵士として従軍して、少尉迄昇進しました、そして1818年に除隊しました。

その後テネシー民兵の大将にも任命された経験があります。

そして、テネシー州知事を経験した後に、旧知の仲のチェロキーインディアンの代理人としてワシントンで政府と交渉に当たたこともあります!

つまり軍隊で「敵を"殲滅」する戦術を学んだおバカなSanta Annaとは異なり、「和平交渉」で停戦を実現!する交渉術を学んだわけです。

Texsasへは1832年に移り住み、革命軍の臨時政府によりテキサス革命軍の総大将に選ばれていました。

Texas革命で劣勢に回った反乱軍は

開戦後劣勢に回った革命軍(反乱軍)は"海賊船"まで認めて戦費の足しにして、更には戦費10万ドルの融資を得るためにUSAに代表団を差し向けて、USAで義勇軍("傭兵")を募りました。

逆背水の陣?で勝利

Stephen F. Austinに代わってSam Houston将軍が陣頭指揮に立ち、守備隊を率いることになりましたが、戦況の悪化と共にUSA国境まで、撤退することを決意して、町に火を放って焼き払い「小麦粉一サジも残さず?」町を引き払い退却しました。

メキシコ軍のLogisticsを断つことには成功しましたが、敗走を続ける民兵の間では、一見弱腰のヒューストン将軍への不満が増していきました!

馬鹿将軍Santa Annaのスタンドプレイが4月20日の奇跡!に繋がる

700名の分隊を率いていたMexico鎮圧軍総大将Santa Annaがスタンドプレイで突出して、ヒューストン率いる民兵900名を追走して、サンジャシント川を境に両軍が対峙しました。

更に、コス将軍率いる540人以上のMexico部隊も援軍として到着して、1200名以上に膨れ上がりましたが...

賢将ヒューストン将軍の軍勢は、あほなメキシコ軍を渡河させてからヴィンスィズ橋を燃やして退路を断ちました!

4月21日早朝、テキサス軍は攻撃を開始して、「Santa Anna率いるならず者たち」を押し戻しました。

「Logisticsを絶たれ」て飢えと疲れで弱り切っていたSanta Anna軍は敗北を喫し、生き残ったならず者ともどもに総大将Santa Annaも俘虜となり降伏文書に署名しました。

(※同じ独裁者でも、命乞いをして降伏文書に署名したSanta Annaより、自決したヒトラーのほうが潔いといえるかもしれません?!)

ベラスコ条約による停戦でリオグランデ川がborder に

そしてその後5月14日に卑怯者のSanta Annaがベラスコ条約に署名して、停戦となりますが...

そして、卑怯者のSanta Annaは命乞いをして「助命を条件」にワシントンD.C.へ出向き、テキサス共和国独立を承認することを確約させられました。

しかしこの間、メキシコでは卑怯者Santa Annaを「大統領から解任」していたので、Mexico政府は停戦成立とは考えずに(現在の朝鮮半島と同じ)"休戦"としてテキサス共和国を承認しませんでした。

その後、彼はスペインとの間で起こった1838年のパストリー戦争で英雄?となり再び大統領に返り咲きました!

ヒトラー同様に総大将・軍最高司令官としては無能!で単に"殺戮を好む独裁者"でしたが、巧みな話術(演説)一般大衆の人心掌握には長けていた!ようです。

Mexicoでは英雄かもしれませんがSanta Annaは阿保です!

性懲りも無く米墨戦争を引き起こしアメリカ大陸最古?の独立国家Virreinato de Nueva España エリアを手放す羽目に...

しかし性懲りも無く「米墨国境はヌエセス川 (Nueces River) だ...!」、と再びUSAに「ケンカを売り」米墨戦争(1846→1848年)に発展して、旧Spanish territoryのVirreinato de Nueva EspañaエリアをUSAに売却せざるを得ない羽目になり、現在のborder リオグランデ川が確定したわけです。

第4項 ここまでのまとめ

1812年4月30日ルイジアナ州が18番目の州(現州都;バトンルージュ)として昇格して ミシシッピー川以東北緯33度線以南を「Orleans準州」としました。

北緯33度線以南がオーリンズ準州となり、更にそれ以外は政府直轄American territoryとしてDistrict of Louisianaと呼ばれました。

ルイジアナ州成立後は、混乱を防止するために北緯33度線以北のDistrict of Louisianaは一時期Missouri territory と呼ばれました。

インディアナ州 19番目1816年12月11日(オハイオ州から1800年準州分離)現州都;インディアナポリス

ミシシッピー州 20番目1817年12月10日( 1798年4月7日ミシシッピ準州)現州都;ジャクソン

イリノイ州 21番目 1818年12月3日(1809年2月3日にイリノイ準州)現州都;スプリングフィールド

アラバマ州 22番目1819年12月14日(1817年3月3日ミシシッピー準州から分離アラバマ準州)現州都;モンゴメリー

ミシガン州 26番目1837年1月26日(インディアナ準州より分離1824年、ミシガン準州昇格)現州都;ランシング

ウィスコンシン州 30番目1848年5月29日 (1836年にウィスコンシン準州)現州都;マディソン

ミネソタ州 32番目1858年5月11日(1849年3月3日ミネソタ準州) 現州都;セントポール

ウェストバージニア州 35番目1863年6月20日(南北戦争時にバージニア州が分裂)現州都;チャールストン

1819年 スペイン領フロリダを買収、territory(領有地)を拡大。

(1821年スペインからメキシコが独立)

1836年のメキシコ領テキサスでの一種の内乱でテキサス共和国を樹立!

1845年 テキサス共和国をアメリカへ併合してterritory(領有地)する。

1846年6月15日 オレゴン条約締結

グレートブリテン・アイルランド連合王国(大英帝国)とアメリカ合衆国との間で調印された条約(密約?)で北緯49度線をfrontier (縄張り境界)として設定してオレゴン州がアメリカのterritoryとなり、実質北緯42度までの領有権を放棄した。

1846年から1848年 メキシコとの間で国境紛争勃発

1848年アメリカの勝利により、現アリゾナ州(後にガズデン購入によって併合した南部地域を除く主要部分)コロラド州(旧テキサス共和国の境界以西)ニューメキシコ州(ガズデン購入地を除くリオ・グランデ川以西)ワイオミング州(旧テキサス共和国の境界以西および北緯42度線以南)をメキシコより買収し!さらにterritory拡大。

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エピローグ コロコロと表情を変えるUSA?

ご覧の通り、『自由・平等・博愛』を信条とするPuritan達が宗教弾圧にさらされていたイギリス本国を逃れてメイフラワー号で"新天地"に渡り、独立独歩のidentityを確立して、liberalを旨とするUSAの礎となったわけですが...

独立後も商人共をバックした共和党のWar hawk(タカ派)と呼ばれる輩共が、時折政権をとると、軍事力にものいわせた強硬な姿勢を示すわけです。

付き合っている方(諸外国)から見れば、正しくジキルとハイドの2重人格を持ち合わせているように見えるのがUSAです。

つまり、liberal派が政権を取っているときには、例え戦争に巻き込まれても、米穆戦争終結後のSpanish territory 買い上げのように、領土を略奪するのではなく買収で穏健に拡張して、紳士的な外交を行い西欧世界からも批判を浴びないのですが...

Republic of Texas 併合やその後のRepublic of Hawaii 併合のように,共和党の鷹派が政権を握ると、自国民(経済人)サイドに立った、傲慢で強肩な外交を行うわけです。

後年のアラスカ買収も、当時のロシアが強大だったからterritory奪取を諦めたのではなく...

当時の政権が穏健かつ紳士的だったので、買収と言う紳士的な手法をとったわけです!

Star Wars は"おとぎ話"ではないアメリカ社会風刺!

某思想家であり有名な映画作家がシリーズ化した"Star Wars "は単なるおとぎ話ではなく...

現在アメリカ社会を痛烈に批判した社会風刺でしょう!

レイア姫を指導者に仰いだ、反乱同盟軍はリベラル派の象徴であり、

ダースベーダーを率いる帝国軍の総帥「悪の権化」銀河帝国皇帝は...

赤狩り」が横行した戦後すぐのアメリカだったら、J・ルーカス監督もチャップリン同様に「国外追放!」されていたでしょう...

狸穴総研 考現学 研究室 出自多留狸

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《アメリカから学ぶ持続可能な鉄道事業》シリーズ のご案内

2022年6月 2日更新版・公開

当サイト内関連記事リンクです。

Chapter Ⅰ 鉄道育ての親 アメリカ 鉄道網から学ぶべき点!とは...

日本の"鉄オタ"は maniac の域を超えて正しく鉄道狂(railway mania)となっている方が多い要で...特に鉄道系Youtuberと言われるひとの殆どが...更に独自サイトを展開している"鉄道教"入信者は...、

Chapter Ⅱ アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川 ー 序章 ー 

アメリカ大陸は、コロンブスがアメリカ航路を見つけるずっと以前の11世紀初頭にヴァイキングが現カナダのNewfoundland一帯を発見して、ネイティブアメリカンと毛皮交易を始めたのが最初と言われています

Chapter Ⅲ アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川 ー中編ー

嘗て、大河・運河に代表される水運は快適な移動手段でもあり、大量貨物を扱える重要な輸送手段でもありました。

Chapter Ⅳ BNSFとMilwaukee Roadから学ぶ「持続可能な鉄道事業」実現のための教訓とは...

嘗て黎明期の動力鉄道は、passenger trafficにしか対応できないtransporterで、public transportationとして利用するには不完全なtransit(交通機関)でした。正しく19世紀の新幹線だったわけです!

Chapter Ⅴ USAから学ぶ 海コン ( Intermodal container ) 鉄道 輸送の必要性について

世界の貿易貨物は Intermodal container 輸送の時代に入っています!アメリカ大陸、ユーラシア大陸ではリスクの大きいcontainer shipからrailroadを利用した cargo transportation に注目が集まっています。

後書き 《アメリカ交通発達史から学ぶ持続可能な鉄道事業とは》シリーズについて

"温故知新"と言う格言があります。

「人は歴史から多くのことを学んだ」と言われていますが、「railway mania(鉄道狂!)は同じ失敗を繰り返している!」といえるのではないでしょうか!

旧建設省派の運輸族は、"鉄拳公団"解体後、羽振りが悪くなり、政治献金・票田確保の為に、"こうそく(拘束?)passenger trafficである"整備新幹線建設推進プロジェクト"に躍起になっていますが...

欧米では

彼ら日本の運輸族(とその"親派")が、"蔑視!"しているcargo transportation(貨物輸送)に基軸を置いたrailway system、Canal networkが"欠かすことのできない存在"として今も重宝がられています。

また欧米先進諸国では、air lineとrailway systemが競合するのではなく、お互いに補完し合って"共存"しています。

更に発展途上国では高速バス(長距離バス)がrailway systemの活き渡っていないareaをカバーして大活躍しています。

更にさらに...中国では

高鐵(高速新線)とhighway(自動車道)がほぼ同時に並行して建設されて全土をカバーしています!

つまり、highway(自動車道)は鉄道の敵(かたき)ではなく、お互いを補完し合う"相棒"なのです。

そんなtraffic networkの代表格アメリカにスポットをあてて、21世紀を行く抜く"鉄道の存在意義"を改めて考え直してみました。

狸穴総研 地域交通問題研究室 出自多留狸

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参)当サイト内関連記事 海外版Youtube 鉄道動画 と 各国語版ウィキペディアの勧め はこちら。

参)当サイト内関連記事 海外鉄道・ 空港関連 ご当地Wikipedia リンク集 はこちら。

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特に歴史・イデオロギーに関するイエローフラッグは、ボランティア?で"管理人"としてウィキペディア事務局に関与している平和ボケした理想主義者、有識者?達が日"教祖"の偏向教育(大衆洗脳)方針に沿うように"注意喚起?"されており、ハッキリ言って"糞"フラッグです!

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交通施策に関するcontentは運輸族のプロパガンダの温床に

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公開:2022年1月 9日
更新:2022年6月 5日

投稿者:デジタヌ

英語圏 の 鉄道 関連 Web コンテンツ で用いられる 慣用句 ・ 記述 についてTOP下北半島 ⇔ 函館 間に 第2青函トンネル を建設しないと "手遅れ!" になるかも?...


 

 



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