アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川 ー 序章 ー
副題 交通網の発達とアメリカ大陸開拓?の歴史
(要約)
アメリカ大陸にエスキモー、アメリカインディアン、インディオなどのnative people"新人類"が到達して移り住んだ時期は、不明とされていますが...
"異教徒"の海洋民族Vikingたちが、10世紀ごろには新大陸に至る航路を発見して「新大陸そのものの存在は知られていた」とされていて、(奴隷貿易!でない)「まともな毛皮交易」を行っていた!とされています。
新大陸アメリカ大陸は、15世紀の終わりにコロンブスがアメリカ航路を見つけるずっと以前、約500年前!の11世紀初頭にヴァイキングが現カナダのNewfoundland一帯を発見していて、ネイティブアメリカンと毛皮交易を始めたのが最初と言われています。
(※但し、毛皮交易(物々交換)の対価として"何"が用いられていたかは不明です。)
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第1項 ローマ法王庁の権威失墜・カソリック世界の崩壊
カソリック圏王国に関する記述
- ●独語版Wikipedia Heiliges Römisches Reich
- ●独語版Wikipedia Römisch-deutsche Kaiser (※ローマドイツ帝国)
- ●ラテン語版Vicipaedia Sacrum Romanum Imperium
- ●英語版Wikipedia Holy Roman Empire
- ●日本語版ウィキペディア 神聖ローマ帝国/
宗教改革運動で「カソリック指導体制と言う桶」の「箍」(たが)が緩み始め...
結束を保つための新しい「箍」(たが)"となるはずだった一手、1494年6月7日のTratado de Tordesillas(トルデシリャス条約)(※01)、も"緩んだ桶(カソリック世界)"を引き締めることは出来ず...
カソリック世界の"桶(法王庁の権威)"をバラバラに打ち砕いたヨーロッパ諸国が、絵空事Treaty of Tordesillasを完全無視!して、貿易風に乗って?一斉に海外侵略を始めたわけです!
そして、北アメリカ大陸も各国の植民地政策(搾取)のターゲットとなり、それぞれの思惑で大西洋岸の河川を遡り「河川沿いにfort(砦・交易所)」築き周辺にcolony(植民地)を開き定住して、territory(実効支配地)を広げていったわけです。
参※01)
- ●葡萄牙語版Wikipedia Tratado de Tordesilhas
- ●西班牙語版Wikipedia Tratado de Tordesillas
- ●英語版Wikipedia Treaty of Tordesillas
- ●日本語版ウィキペディア トルデシリャス条約 ※日本の世界史教育に合うように「かなり歪曲さらた内容」となっています、はっきり言って"糞"です。
第1項 新大陸への"アメリカ航路"の発見?
カスティーリャ王国(後のスペイン王国)イザベラ女王がグラナダ陥落でイベリア半島からイスラム勢力を一掃した1492年に、女王の臣民であり、奴隷商人!だったイタリア出身?のCristóbal Colón(クリストファー・コロンブス)が西インド諸島を発見して、
1494年6月7日にカスティーリャ王国とポルトガル王国の間で結ばれた密約Treaty of Tordesillas(トルデシリャス条約)で「大後悔?時代」が始まり、カソリック布教の名のもとにスペインの、"南北アメリカ大陸蹂躙(じゅうりん)"の歴史が始まったわけですが...(※00)
スペイン王国は、交易・開拓(移民)が目的ではなく、
カソリック世界復興"!のための戦費捻出が目的の「金銀財宝の強奪!」が目的だったので、中南米のアステカ、マヤ、インカなど、カソリック未承認"インディオ国家"を布教の名目で荒らしまくったわけです!
なので、財宝が枯渇?して入植に転じたSpanish territory時代のカリフォルニア、Texas以外では Spanish colony(植民地)は現USAエリアには少ないわけです。
参※00)
実際には2国間の密約にしかすぎずローマ法王庁に追認されてからも、英語版にも記載されていますが後述するように両国以外の他国はこのアホラシイ条約を「完全に無視」していました!
つまりハッキリ言って、現在日本の交通政策審議会 答申に書かれている『提言』どうように"描いた餅"そのものでした。
当サイト内関連記事 日本人(日本国政府)には、理解しにくい大陸民族の"ご都合主義"とは はこちら。
第2項 スペインはカソリック指導体制の希望の旗手だった
- ●Formación territorial de España/西班牙語版Wikipedia
- ●Spain/英語版Wikipedia
- ●スペイン/日本語版ウィキペディア
711年以来イスラーム支配下にあったスペインは、
1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、(カソリックの)カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合され...(イベリア半島)再統一の最終段階となり...1492年にグラナダが陥落した。
これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。
この年、イサベル女王が資金を出した(奴隷商人!の)クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。《日本語版ウィキペディアより引用》
またこの年に、スペイン異端審問(粛清?)が始まり、グラナダ条約(停戦条約)でムスリムの信仰が保障されていた!にも関わらず、カソリックへの改宗を拒むムスリムはユダヤ教徒共共も追放(一掃)されてカソリックの国となりました。
つまり1494年6月7日のトルデシリャス条約(密約)はローマ法王のご褒美?とも受け取れるわけです。(実際には追認ですが!)
更に、その後も
1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。《日本語版ウィキペディアより引用》
と言う事で同時期(16世紀)に起こった宗教改革と、イギリス国教会の成立(反乱?)によるカソリック指導体制の崩壊を防ぐ「立役者:旗手」となった訳ですが...
最早緩み始めたカソリック社会を結束する「箍」(たが)とはなりえなかったわけです!
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前途したように、ポルトガル・スペインの両カソリック海洋国は、1494年の"密約Tratado de Tordesillas"を結びterritory(実効支配域)のoutlineを取り決めたわけです。(※10)
さらにローマ法王庁に追認させて、"世界制覇"に向かったわけですが...
しかし1588年のアルマダの海戦で「スペインの無敵艦隊」が英国に敗れ、その後何とか立て直して大西洋のterritory(制海権)を"意地"しましたが、1805年に有名なトラファルガーの海戦で、連合を組んだナポレオンのフランス艦隊諸共、英国艦隊に惨敗してスペイン海軍が壊滅して大西洋におけるterritory(制海権)を無くし、その後は坂道を転がり落ちるように衰退して、1819年にはフロリダterritoryをcolonyごとUSAに売却!し、1821年にはSpanish territoryであるMexicoの独立を認め、どんどん衰退したわけですが...
参※10)実際には、当時のならわしで、明確なものではなく、お互いの「利害を尊重?」した曖昧なものでした。
第1項 カソリック世界再興の為に世界の2分を認められた、スペインとポルトガル!
ポルトガルは、喜望峰航路で、亜細亜に至り、香辛料貿易で巨額の富を手に入れ、海軍力を増強して海洋国家としてますます発展しました。
略奪(奴隷狩り!)が目的の侵略戦争だったので鼻から友好貿易などする気も無く!「統治国家も糞も無かった」わけです!
だから、その後も"国の体裁を整えていた統治国家・自治国家"のアステカ文明諸国・インカ帝国などの独立国家を次々と蹂躙して、略奪した金銀財宝を本国スペインに持ち帰り、カソリック世界の復興のための軍事費に充当したわけです!
彼らは「カリブ海の海賊」をののしりますが、彼らのfort(砦)にあるcolony(植民地)の総督とその手下共"略奪軍(傭兵山賊?)"は、それ以上の悪行(殺戮と略奪)を重ねていたわけです!
第2項 アメリカ大陸最初の"国家"を建国したスペイン王国
前途したようにカスティーリャ王国(後のスペイン王国)イザベラ女王(カスティーリャ女王在位:1474年 → 1504年)の資金援助で、イタリア生まれの奴隷商人!のクリストファー・コロンブスが1492年・1493年の2度の奴隷狩り?遠征で、西インド諸島のイスパニョーラ島(現ドミニカ&ハイチ両共和国)を「新大陸?」として誤認して、ヨーロッパ人最初のfort(砦)とcolony(植民地)を築き、「アメリカ航路」を開いたことが、当時カトリック支配がほころび始めた西欧列強が、海洋国家としてアメリカ侵略を画策するトリガーとなったとされています。
これが前途した"ローマ教皇臣下"のスペイン王国とポルトガル王国の間で交わされた(カソリック)世界を2分するトルデシリャス条約(1494年6月7日)に繋がり、大"後悔"時代?が始まったわけです。
スペインはフェリペ2世の在位中(1556年1月16日- 1598年9月13日)に最盛期を迎えた。1580年から1640年にかけての王朝連合によってスペイン王がポルトガル王も兼ねる(1580年9月12日→)になり、中南米やアジア・アフリカ沿岸に点在するポルトガルの海外植民地も統合した...フィリピンなどの従来植民地と併せた広大な領土を統治する大国となった。《日本語版ウィキペディアより引用》
第1目 アメリカ大陸進出を始めた カトリック両王体制下のスペイン
●カトリック両王(日本語版ウィキペディア)(1492年 →1516年)の統治時代。
その後は、America(アメリカ大陸)の名称の由縁となったイタリア生まれの地理学者・探検家のAmerigo Vespucci(アメリゴ・ヴェスプッチ)が「海洋進出を企てていたスペイン」の要請で。1497年→1505年にかけて4度のscouting(斥候・偵察)航海で新大陸アメリカを確認して、
コロンブスがイスパニョーラ島に再度fort(砦)とcolony(植民地)を築き、息子Diego Columbus(ディエゴ・コロン)が1510年に"金鉱"を求めてキューバ島に遠征していますが...(※11)
真の目的は生業としている"奴隷狩り"でした!
参※11)この時築いたfort(砦)は3度目の航海の時点ではいずれもネイティブ民族により奪回されて?、破壊されていました。
海賊上がりのベラスケスが最初の海外領土としての植民地をを
1511年にDiego Velázquez de Cuéllar(ベラスケス)が、fort(砦・)とcolony(植民地)を築き総督となり、本格的なアメリカ大陸本土遠征の拠点としました。(※12)
つまり、アメリカを侵略し始めた当初のスペインは、入植・開拓が目的ではなく!
その後の遠征は全てキューバから行われています。
そしてカソリック社会スペイン王国による「大陸蹂躙・ネイティブ民族殺戮・金銀財宝略奪」の南北アメリカ大陸蹂躙の世紀に入ったわけです。
と同時に西インド諸島(アメリカ大陸?)の植民地化でアメリカ進出を果たし、アメリカ大陸最初の国家"Virreinato de Nueva Españaを建国して国際認知(ローマ法王庁の承認)を得たのもスペイン王国でした。
参※12)イザベラ1世 はスペイン王国のcolony(植民地=領土)として、キューバ島に総督府を置いて以降は、colonyの先住民は"臣民"として市民権を認め、奴隷狩りを禁止しましたが...
コロンブス達"初期の入植者"は、"奴隷の繫殖"と奴隷貿易を続けました!
なので、コロンブスを探検家として美化して、新大陸発見の功労者のように、持ち上げる日"教祖"検定?教科書の編集方針には強い怒りを禁じ得ません!
第1目 スペインの新大陸"領土化"政策と征服者コルテス
ベラスケスがメキシコ本土へのcolony(搾取領域)拡大に"傭兵(山賊?)"の隊長として差し向けたのが、Hernán Cortés(コルテス)でした。
メキシコに渡り平定(征服)を開始した当初は、ベラスケスが植民地での"権力闘争の政敵"として、キューバから討伐隊を送り込み"粛清"されかけましたが...
1521年にメキシコを実質平定した彼は、スペイン本国にスペイン王国のvirreinato(副王領・飛び地)として認めることを進言(直訴)しました。
※コルテスはベラスケスが単なる1colony(植民地)のGobernador(総督)にすぎず、身分も低く、軍人でもない、自分と同じただの"盗賊集団の首領"であることを承知していました!
だから、直接の雇用主であるベラスケスを無視して、"スペイン国王に直訴"したのでしょう。
戦前朝鮮併合を行った大日本帝国はこれを前例に
植民地政策をとった嘗ての大日本帝国の朝鮮半島併合はこれに学んだのでしょう?
朝鮮半島最後の統一国家であった李氏朝鮮は、アステカ文明同様に、多くの対立勢力を抱えた、呉越同舟の連合国家でもあったわけです。
第2項 その後の本格的入植と領土拡大
ほぼ同時期に、スペイン王国カルロス1世が派遣した、Ferdinand Magellan(マゼラン)艦隊が足掛け3年の大航海(1519年9月20日→1522年9月6日)の末地球球体説を実証しました。
マゼラン艦隊が世界一周を果たしたので、神聖ローマ帝国の皇帝にもなっていたカール5世(スペイン国王カルロス1世)(※13)が、ポルトガル王国ともう一つの条約1529年のサラゴサ条約で東南アジア(太平様)にもFrontier(縄張りライン)を引きました。
●日本語版ウィキペディア サラゴサ条約
●西班牙語版Wikipedia Tratado de Zaragoza
●英語版Wikipedia Treaty of Zaragoza
1535年にSpanish territory(海外領土・飛び地)Virreinato de Nueva Españaが誕生
Virrey(副王)になるコルテスの野望はかなわず、Antonio de Mendoza(アントニオ・デ・メンドーサ)がvirrey(副王)(※14)に選ばれました。
参※13)前途したように、スペイン王国カルロス1世(在位1516年 →1556年)と神聖ローマ帝国のカール5世(位1519年 →1556年)は同一人物です。
Virreinato de Nueva Españaこそアメリカ大陸最初の"国家"と言っても差し支えないでしょう。
但しVirreinato de Nueva Españaはあくまでも「飛び地の領土」として"スペイン王国が併合したdominion(領地)"なので主権国家ではありませんでしたが.
- ●日本語版ウィキペディア ヌエバ・エスパーニャ
- ●英語版Wikipedia New Spain
- ●西班牙語版Wikipedia Virreinato de Nueva España
参※14)当サイト内関連記事 総督(軍司令官)と副王(知事)の違いは? はこちら。
副王領となってからのVirreinato de Nueva España
内陸部・太平洋岸にもterritoryを拡張する姿勢を取り、
1568年から1587年の間に、スペインは現在のアメリカ合衆国南部のジョージアやサウス・カロライナへのキリスト教宣教活動を行なっている...これは現在のフロリダでは一部成功し、セントオーガスティン(1565年)が設立され...現在のアメリカ合衆国の中ではヨーロッパ人によって最も古くに設立された街である。
アメリカ合衆国南西部の探検(1540-1542年)...太平洋岸の探検(1542-1543年、この探検では初めてヨーロッパ人としてカリフォルニアを見つけた)...スペイン領東インド諸島の探検(1542-1543年)が行われた。《日本語版ウィキペディアより引用》
しかし1588年のアルマダの海戦の敗北で一時期制海権が失われ、大陸進出は停滞しますが、3角貿易(奴隷貿易)で巨額の富を得ることができたスペイン王国は、再び制海権を手中に収めます。
...スペイン人はさらにヌエボ・メヒコ州の領土拡大を行い、主要な都市としてサンタフェ(1607年)が設立された。
宣教活動と軍事力による北アメリカの入植は、スペイン人による都市建設の原動力となった。《日本語版ウィキペディアより引用》
更に、マゼラン隊遠征の記録を活かし、アフリカ南端の喜望峰を回らずに、南太平洋から得られる香辛料を...
アジアからの貿易品は、太平洋を渡りアカプルコに送られ、そして陸路でベラクルスへ、インディアス艦隊によって大西洋を渡りスペイン本国へ送られた。(※15)
参※15)カトリック両王(1492年 →1516年)の統治時代。スペインの海外territory(領有地)での奴隷狩りは禁止されていましたが...、他の大帝国同様に各地のLocal rules(因習・風習・制度)は容認されていました。
なので、フィリッピン⇔メキシコ間の南太平洋航路は、ガレー船(奴隷船)で航行されていました!
第2目 太平洋岸西海岸では
(現カリフォルニア州以南の)Alta California(Spanish territory)は、1635年以来Virreinato de Nueva Españaとなりスペイン王家の直轄領でしたが...
金銀財宝の略奪にしか興味の無かった当持のスペイン王国は、元からこのエリアにはあまり執着はありませんでした。
なので当初は「献身的なカソリックの聖職者」が中心となって、メキシコ湾沿岸から北上して、このエリア(空き地)での布教活動と、農業・漁業を推し進めたわけです。
第3項 元々はSpanish territoryだったカリフォルニアを流れる河川
元々カリフォルニアは、現ネバダ州、現ユタ州、現アリゾナ州北部、現ワイオミング州南西部などからなるAlta California(Spanish territory)として誕生しました。
そして、スペイン王家の緒直轄領これらのSpanish territoryは1821年にスペインから独立(宣言)しましたが、スペイン帝国から独立した初代メキシコ合衆国 (1824年-1864年)は、スペイン本国が承認しないので、国際社会からは"主権国家"としては認められず、スペイン帝国の territoryと見做されていました。
しかしいち早く承認したUSAとの間で、テキサス共和国をめぐる承認問題で紛争が起こり、その後に再燃した国境紛争・米墨戦争(1846年→1848年)の結果、USAに買収されてUSA territoryとなりました。
そしてカリフォルニアは1850年9月9日に31番目の州に昇格しました。
Sacramento River
アメリカ西海岸カリフォルニア州を流れるSacramento River(サクラメント川)は、流域に金鉱が発見されていEldorado(黄金郷)として有名になり、東部から開拓者(入植者)がパナマ鉄道経由やロッキー越えのtrailで大挙して入植しました。
現在は大西洋岸のロサンゼルス、サンディエゴ、サンノゼ、サンフランシスコの陰になって存在の薄いサクラメントですが...
サンフランシスコ湾岸のオークランドと共にEldorado(黄金郷)への玄関口、重要な西部開拓拠点でした。
なので1869年にFirst Transcontinental Railroadも彼の地に敷かれたわけです!
また鉄道が開通する前のサクラメント川はミシシッピー川同様に西部開拓ゴールドラッシュの重要なtransfer lineでした。
Sacramento Riverとサクラメント市
前途したように1808年にスペインの探検家によりサクラメント川と命名されまた。
米墨戦争停戦前の1848年にこの川の上流部で金鉱が発見されたことにより、流域にサクラメント市を含む多くのFort(砦)とTownが誕生して、同時に海の玄関口オークランドも栄ました。
ミシシッピー川同様に、19世紀な中ごろにはから外輪船(蒸気船)が河口のOaklandと州都Sacramento とを結んでいました。
Oakland
San Franciscoの対岸にあるOaklandは1772年にスペインのcolonyとして、Fort(砦)と共に建設されました。
その後、西海岸一帯が前途したようにUSAの territoryとなりさらに、1855年のPanama Canal Railway Companyの開業でSacramento River上流のEldorado(黄金郷)への西の玄関港として、発展しだしたわけです。
San Francisco
日本人(移民)にもお馴染みのサンフランシスコは、その名が示すように、1776年3月28日にスペインの探検家により起源となるYelamu villagesが彼の地に築かれて、対岸のOaklandと共に発展しました。
つまり、オークランドが鶏なわけです!
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いずれの国(ウィキペディア)でも、「歴史は自国"目線"」で語られますが...
仏語版Wikipédiaは特にその傾向が強く、彼の地では"国粋主義者"がいかに多い(大多数)かがうかがえます。
最早USAでも、アメリカインディアンの"侵略者闘争"に対する、"インディアン討伐"を美化して"侵略者の正義"だけを語ることは無くなっていますが...
フランスでは、つねに"勝者の主張"で貫かれ、権力闘争(暗殺・粛清・宗教弾圧)や海外侵略"は美化して、侵略された敗者は"負けて当然"的に"悪者"に仕立て上げる思想教育で徹底されているようです。
カソリック圏王国に関する記述
- ●仏語版Wikipédia Royaume de France ※フランス王国・フランス王室の変遷)
- ●英語版Wikipedia Francis I of France
- ●日本語版ウィキペディア フランス
アメリカ大陸進出で後塵を拝したフランスですが、
彼らは、捕鯨の補給基地や毛皮貿易の交易所として、北洋のラプラドル海に開けたセントローレンス湾と、そこに注ぐセントローレンス川河口を選び、カヌーなどの小舟で遡り"奥地"に分け入っていきました!
そして、五大湖と周辺の湖沼地帯に辿り着いたわけです。
更にフランス人たちは、5大湖に辿り着くと、南下して、ミシシッピー川の支流に辿り着き、多くの支流域を探検し、スペイン王国の脅威が及ばない流域に、Fortとcolonyを展開して、地道に!開拓をはじめ、ミシシッピー川流域にFrench territory(Louisiana)を展開しましたが、スペインに目を付けられて、Spanish territory(Louisiana)に組み入れられ、北部のセントローレンス川に押し戻されてしまいました。
第1項 宗教改革とカソリック社会のAvant-gardeの旗手フランス国王フランソワ1世
- ●François Ier (roi de France)/仏語版Wikipédia
- ●Francis I of France/英語版Wikipedia
- ●フランソワ1世/日本語版ウィキペディア
宗教改革運動と同時代に君臨したヴァロワ朝第9代のフランス王François Ier (roi de France)(在位:1515年 - 1547年)は、飛んでる国王でした?
前途したスペイン国王スペイン王国カルロス1世(在位1516年 →1556年)と同時代にカソリック国フランス王国を収め、カルロス1世と神聖ローマ帝国の皇帝の座を争い、ライバルのカール5世が即位してからも、カソリック社会復興の為に、ローマ法王の片腕として、対抗勢力(宗教改革派)とウスリム世界を敵に回して戦いました。
フランソワ1世の対カール5世政策は成否相半ばするものだが...フランス王国の維持に支障をきたすカール5世の構想をくじくことには成功した。カトリックの両大国が敵対したことは、西洋キリスト教世界に重大な影響をもたらした。...このころ興った宗教改革の拡散を容易なものとし...オスマン帝国にウィーン包囲を許し、ハンガリー王国のほぼ全土を占領させてしまって...
フランソワ1世の統治期間は宗教改革の急速な拡大とはっきり一致している。《日本語版ウィキペディア フランソワ1世より引用》
1523年頃、イタリア人探検家ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノがフランス国王フランソワ1世に近づき、「中国に至る西回りルート(北西航路)を見付けるための遠征隊」のsupport(支援)を懇願しました。
最初は乗り気ではなかったフランソワ1世も、半信半疑でsponsorship(後援)を引き受け、探検隊を出しましたが、帰国後の報告で、新大陸に興味を持つようになりました。
更に、スペイン王国が派遣したマゼラン艦隊の世界一周成功の話を聞きつけ、更にはそれを反映した「スペイン・ポルトガルの(世界2分独占お墨付きの決定版)1529年のサラゴサ条約締結」に反感を覚え、「そんな物糞くらえ!...」で大陸進出に踏み出しました!
これは明らかにカソリック社会の規範「ローマ法王庁のお触れ」に反する行為ですが...
カソリック体制の用心棒!の一方の旗手フランス国王を咎めるわけにもいかず、黙認の形をとらざるを得なかったのでしょう...
第2項 最初はセントローレンス湾への遠洋漁業船団の補給港として
- ●日本語版ウィキペディア ヌーベルフランス
- ●仏語版Wikipedia Nouvelle-France
- ●英語版Wikipedia New France
当初は、北大西洋での遠洋漁業(捕鯨!)船団の寄港地(補給港)として、セントローレンス湾の河口部にcolony(植民地)建設を許可しました。
1534年、ジャックカルティエはガスペ半島に十字架を立て、フランソワ1世の領有地であることを示しました...
1541年にフォートチャールズブールロイヤル(現在のケベックシティ)に400人が入植して定住を試みましたが、2年しか続きませんでした。《英語版Wikipediaより引用》
厳冬期の厳しい環境で、最初の入植(定住)は失敗したとされています。
その後、前途した遠洋漁業団が原住民と友好関係を結び、補給基地として利用したといわれています。
更に、その後同行していた毛皮商が、セントローレンス川沿岸が、ビーバーの猟場として優れていることに気づき、再度国王にfort(砦・交易所)& colony(植民地)建設を願い出ました。
そして毛皮交易が始まったわけですが...
問題は交易(物々交換)の"対価"で...
アルコール類すなわち、英国から仕入れた"粗悪ウィスキー"や自国製の"粗悪コニャック"が主体であった可能性があります。
アメリカインディアンの世界では蒸留酒つまり"アルコール常飲"の習慣はなかったはずで?
白人が持ち込んだ"アルコール"で"アルコール依存症(アル中)"の歴史(激増)が恥じ(始)まった訳です。
その後の亜細亜における、イギリス王国の悪辣な3角貿易、 アヘンー絹織物ーお茶(紅茶)や、大西洋でのスペインの・非道徳的な"奴隷貿易" アルコール(ラム酒)ー奴隷ー砂糖
よりは、幾分はましだった?かもしれませんが...
プロテスタントが
これとは別にフランス国内のHuguenots(プロテスタント一派)が、現フロリダ州ジャクソンビルにFort Caroline(キャロライン植民地)を建設しましたが、 St. Augustine(セントオーガスティン)にfortとcolonyを建設して駐屯?していた、ペドロメネンデスデアビレスが率いるスペインの傭兵によって1565年9月20日に襲撃を受け壊滅しました。
この時、のフランス国王シャルル9世(在位:1561年 - 1574年)はまだ15歳で、実権は摂政をしていた祖母のカトリーヌ皇太后が握り彼女はイタリア出身のカソリックだったので、Huguenotsの入植地での事件でもあり、国際問題としてローマ法王庁には提訴はしなかったのでしょう!
プロテスタントの擁護者 アンリ4世
- ●Henri IV (roi de France)/仏語版Wikipédia
- ●Henry IV of France/英語版Wikipedia
- ●アンリ4世 (フランス王)/日本語版ウィキペディア
アンリ4世は、ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日 →1610年5月14日)で、1598年に"ナントの勅令"で"信仰の自由"を補償して、カトリックとHuguenotsの国内融和に努め、40年近くにわたる宗教戦争(内戦)を終結させて、戦争によって疲弊した国家の再建に尽力した名君として今でも人気のある国王です!
しかしカソリック一派が差し向けた"刺客"により暗殺されました。(※★)
"ナントの勅令"は彼の死後も1685年に、「太陽王」ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令で撤廃!するまで、約90年間の長きにわたり受け継がれていました。
参※★)耶蘇の世界では、紀元前のローマ帝国時代から"権力闘争"(暗殺)、権力維持のための粛清(対立陣営(民族)への迫害)、権力者の富の独占、道徳観(宗教・哲学)の押し付け(強要)が当たり前に行われてきて...
多くの悲劇を(殺戮;殲滅!搾取(隷属・奴隷化)・追放!・難民・民族大移動)を繰り返してきました!
彼らの正義感・道徳観は、「極々一部の熱心な修道士」による、限られた美談(キリスト教徒奴隷の買い取り解放)のみが強調されていますが...
実際には、「権力と手を結んだローマンカソリック主流派」の「極悪非道!な略奪遠征行為」のほうが趨勢を占めているわけです!
有名な逸話としては、十字軍の指揮官がMuslim territory(イスラム実効支配地)と「外交交渉で無血停戦!」して、凱旋した際に当時の"ローマ教皇"が...
『汝は何故異教徒を殲滅!しないで"おめ‐おめ"と帰国したのだ!...』
と強く"咎めた"と言う逸話が残っています!
St. Lawrence River
1588年のアルマダの海戦の敗北でスペイン王国の制海権が揺らぎだしました。
その「虚を突いて」フランス人がexplorer(探検家・先駆者)を結成してSt. Lawrence Riverを遡る(経)路を探検しだしました。
最初に、毛皮商人の交易所と、捕鯨基地が現カナダのTadoussacに出来たのは1600年頃と言われています。
その後1605年に現在のAnnapolis RoyalにFort Anne(アン砦)を中心にPort Royal(カナダの)を開き、1608年にケベック・シティーを開き、フランスの大陸進出の拠点としたわけです。
そして上流に遡り、5大湖に至り、5大湖それぞれの南端から流れ出る河川を発見して、explorer達が下りSt.Louisで終結して大河川ミシシッピー川として南部に流れて、流域が作る中西部の大平原を発見して Louisianaと命名したわけです。
セントローレンス川流域とミシシッピ川流域を French territoryのNouvelle-Franceとしたわけです。
なのでカナダのケベック州ではフランス語が公用語になっているわけです。
1598年、セーブル島にfort(砦・交易所)が建設され...1600年には現在のケベック州タドゥサックにもfort(砦・交易所)が建設されたが越冬できたのは5人に過ぎず!試みは失敗に終わった。
1604年、現メイン州との国境、ベイ・フランセーズ(ファンディ湾)にあるセント・クロイ島にcolony(植民地)が設立され、1605年にはポート・ロワイヤルに移され...1607年に一旦放棄され再度1610年に再建されたが1613年には焼き討ちにあい破壊され、その後別の場所に移住した...《英語版Wikipedia New Franceより引用》
フランス2番目のcolony(入植地)ケベック
1608年、フランス国王アンリ4世に支援された、(2人の指導者が)28人の隊員と共にケベックに2番目のフランス恒久開拓地を建設て入植したが、厳しい気候や伝染病が蔓延して多くの開拓者が倒れ、植民事業は困難を極め遅々として進まなかった。
1630年、この開拓地に住んでいた開拓者は103人に過ぎなかったが、(それでも)1640年には355人まで増えていた...《英語版Wikipedia New Franceより引用》
ルイ13世の統治(1610年5月14日→1643年5月14日)
この間、カソリックのルイ13世は最初はCharles d'Albert, duc de Luynesにそして彼の死後(1621年12月15日)はArmand Jean du Plessis de Richelieu(リシュリュー枢機卿)に頼りきりでした。
特にカソリックの枢機卿でありながら強(したた)かなArmand Jean du Plessis de Richelieuは、
フランスのプロテスタントを抑圧したにもかかわらず、彼は目標を達成するためにイングランド王国やオランダ共和国などの反カソリック国家と同盟を結びました。《英語版Wikipediaより引用》
シャンプランの死後(1621年12月15日以降)に実権を握ったCardinal Richelieuによりヌーベルフランスで支配権を確立した。
1627年、Cardinal RichelieはCompagniedesCent-Associésを設立しました。
つまりこの時点では、表向き国際企業による海外開発であり、フランス王国とは関係ない民間投資で、ローマ教皇庁の"ご意向"には反していない訳です?
いくつかの植民地企業は、ヌーベルフランスの自治組織と商業開発を確実にするために互いに成功しました。
- ルーアンカンパニー ;
- モンモランシーカンパニー ;
- CompagniedesCent-Associés ;
- フランス西インド会社 ;
- ノースベイカンパニー ;
- 住民の会社 ;
- ルイジアナ会社 ;
- 西の会社 ;
- ミシシッピ会社。
《仏語版Wikipediaより引用》
そしてSamuel de ChamplainをGovernor(総督)に任命しました。
しかし、一方では、カソリック教会による司法介入(裁判代行)と、守備隊司令官による2重統治状態となったわけです。
1642年、ポール・ショムデイ・ド・メソヌーヴが指導する開拓者集団を後援し、セントローレンス川のさらに上流、現在のモントリオールの前身であるヴィル・マリーを建設させた。《英語版Wikipediaより引用》
セントローレンス川が重要な輸送路に
イエズス会の宣教とセントローレンス川流域の開拓
1640年代を通じてイエズス会の宣教師が五大湖地方に入り、ヒューロン族の多くを改宗させた。
イエズス会側(ヒューロン族連合軍)はイロコイ族との抗争になり、1649年までに、イエズス会側はイロコイ族の侵略でほぼ完璧に破壊された。
ヌーベルフランスの交通は幾つかの道路や運河を除いてほとんど整備されていない状況だった...人々はセントローレンス川をカヌーを使った主要な交通路として...
冬には湖が凍ったので、...犬や馬に曳かせた橇(そり)を使った。
陸上交通は。その後川沿いにwagon trail(荷馬車轍)が開かれる1830年代まで発展しなかった。
さらに1840年になりリドー運河が造られた。《英語版Wikipediaより引用》
追いう風に北アメリカ大陸開拓交通史の典型的なパターンを見ることができます。
つまり、河川利用、河川沿いのワゴントレイル:荷馬車轍(わだち)、運河による水運、そして鉄道へ...
太陽王ルイ14世(在位:1643年5月14日 - 1715年9月1日)と植民地政策
- ●Nouvelle-France/仏語版Wikipédia
- ●New France/英語版Wikipedia
- ●ヌーベルフランス/日本語版ウィキペディア
当初、ルイ13世同様に、宰相としてCardinal Mazarin(前任者リシュリュー枢機卿の腹心)を置きましたが、彼が無くなった1661年3月以降は、宰相に頼ることは無くなり自ら統治を行いました。そして前途した様に1685年に、フォンテーヌブローの勅令を発してHuguenotsを禁止して再びカソリックを国教としました。
と同時に、連合国家"フランス"を形成していた各地の領主(豪族)達の権限を(国王直轄地のGovernor;知事と同様に)制限して、ルイ14世の専制国家とフランス王国として再統一しました。
民活?から王直轄colony & dominion への植民地政策転換
民間会社主体の交易?事業として、fort(砦・交易所)を中心とした民間のcolony(植民地)による貿易事業から、フランス王国直轄 dominion(領土、領地、自治領 )拡大への政策転換の時代に移り変わろうとしていました。
窮鼠猫を噛む?
1650年代はモントリオールはまだ数十人の入植者(定住者)がいるだけ、入植(定住開始)したフランス人と友好関係?にあったnative peopleのアルゴンキン語族、モンタネー族およびヒューロン族と対立する「イロコイ族」が制圧していました。
1660年、2人の民間人が"Huron colonyの民兵隊"を率いてイロコイ族に挑みましたが...全員玉砕しました!
しかしイロコイ族の「白人追放・撃退行動」を思いとどまらせる効果はありました。
西班牙のメキシコ征服同様に、アメリカ大陸北部でも、native people(インディアン種族)の勢力争いは続いていました。
フランスの本格的なアメリカ植民地化が始まる
1663年、ルイ14世がここをDominion(王室直轄領)としたことで、Nouvelle-Franceの存在が確固たるものとなりました(※★)。
1663年、植民地企業から引き継ぐために、ヌーベルフランス政府が王領外に設立されました。
1665年、ルイ14世はフランス軍の守備隊カリニャン・サリエール連隊をケベックに派遣しました。
colony(植民地)はterritory(領有地)&dominion(海外領土、自治領 )となるべく組織改革されて、Governor(総督)とIntendant(執行官)はフランス海軍省に組み入れられました。
1665年、海軍大臣の命によりGovernor(総督)としてJean TalonがNouvelle-Franceに派遣されました。
これらの改革で、前途したSamuel de Champlainの没(1635年12月25日)後、Governor(総督)に代わり「全権(司法・行政)を掌握」した"ケベック主教"の権限を剝奪し、本土各地の君主(豪族)領同様に国王直轄のGovernor(知事)が統治するフランス王国領Nouvelle-Franceとしました。(※つまり、ヨーロッパの他の勢力、スペイン、ドイツハンガリー帝国(神聖ローマ帝国)やイギリス、阿蘭陀などの非ローマンカソリック圏に認知(承認)させました。(※★)
(※★)最早、神聖ローマ帝国(Römisch-deutsche Kaiser;ローマドイツ帝国)の覇権は弱まり、カソリック社会も綻んでいたので、ローマ教皇も"強硬"な態度はとれませんでした。つまりこの時点で、カソリック世界に3つ目の海外領土が認知されたわけです。
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- ●Nieuw-Nederland/阿蘭陀語版Wikipedia
- ●New Netherland/英語版Wikipedia
- ●New Amsterdam/英語版Wikipedia
ニューネーデルラントは、現USA東海岸にあった旧Dutch territoryエリアの総称です。
概ね、現USAのニューヨーク、ニュージャージー、デラウェアの各州が存在する地域です。《欄語版Wikipediaより引用》
1609年、英蘭戦争(80年戦争)中のTwaalfjarig Bestand(12年休戦)が始まった年に、オランダ東インド会社がイギリス人のHenry Hudsonをskipper(船長)として雇いいれて所有するHalve Maen丸を、東アジアへの航路探査に向かわせました。
ハドソンは当時ノースリバーと呼ばれていた現ハドソン川を遡って、現 Albany迄辿り着きました。《欄語版Wikipediaより引用》
いくつかの貿易会社がインディアンと交易するための交易所を設立しました。
有名なFort Nassauは1614年現Albany近隣に建設されましたしかし、度々深刻な水害に見舞われたので1618年には放棄されました。
(12年休戦が終わった)1621年、西インド会社がオランダの海外貿易を一手に担う側線企業として設立されました。この年に内陸部に移されたFort Oranje は、主に毛皮貿易のための交易所であり、当時は工場と呼ばれていました。
Fort Amsterdam (1624)の建設
(1624年に)30家族が、マンハッタン島に移住しました。Fort Amsterdam(交易所)& colony(植民地・定住地)となりました。
1625年の終わりまでに、多くの人たちが他のcolony(植民地)から移住しました。
当初西インド会社は、このcolonyを武装化して真のFort にする予定でしたが、膨大な出費が必要と分けり、毛皮交易だけでは成り立たないことが分かり、簡単な土塁と塀で取り囲まれたFort Amsterdamが1628年に完成しました。《英語版Wikipediaより引用》
インド人からの最初の土地購入は、ピーター・ミニュイットによるマンハッタン島でした。オランダの政策は、インディアンが土地の法的所有権を知らなかったという事実にもかかわらず、彼らが定住したすべての土地の正式な購入を目的としていました。これはまた、いくつかの誤解につながりました。たとえば、ピエール・ミニュイットがマンハッタンを購入した人々は島に住んでおらず、おそらく彼らは狩猟権の一部を売っていると思っていました。
ニューネーデルラントは主に貿易の和解でしたが、食料を獲得するためにも、この地域に対するオランダの主張を強化するためにも、限られた形態の植民地化が必要でした。最初の入植者は、1624年に現在のガバナーズ島であるNotenEylantに到着しました。彼らは主にワロン家の30人で、後にマンハッタンと現在のデラウェア川周辺に定住し、その後サウスリバーと呼ばれました
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七年戦争で勝利したイギリス帝国は、1763年のパリ条約 以降の西欧王国の中での発言力を強めました。そしてほぼ同時期に起こった産業革命でイギリス帝国が、経済力を背景にした軍事力(海軍)を拡充して世界の海を制覇しました。
第1項 ユトレヒト条約(1713年4月~)の影響
- ●Resultados de la búsqueda/ユトレヒト条約 西班牙語版Wikipedia
- ●Felipe II de España/西班牙語版Wikipedia
- ●フェリペ2世 (スペイン王)/日本語版ウィキペディア
スペイン国王フェリペ2世(在位1556年 → 1598年)が亡くなり急速に衰えたスペインの王家継承騒動の結果1713年4月~1715年2月間に順次締結された、ユトレヒト条約がその後のアメリカ大陸でのnative peopleを巻き込んだ(抱き込んだ)西欧列強のテリトリー合戦に大きく影響しました。
フランス人たちが入植したエリアは la Nouvelle-Écosse と呼ばれ、同時に同時代の、日カソリック王国、イギリス、阿蘭陀の"入植地"でもありました。
1568年にオランダ独立戦争(80年戦争 三十年戦争)の結果、1648年のヴェストファーレン条約で主権国家として独立を承認されたプロテスタントのRepubliek der Zeven Verenigde Nederlandenは、三十年戦争中から、 la Nouvelle-Écosseに進出して、後述する現ニューヨーク州一帯にfortとcolonyを開拓して移民による開拓(大陸侵略)を行っていました。
1621年以来、オランダ西インド会社は、オランダ国務長官から付与された権限に基づいて、New Netherland (Dutch territory)で独占企業として運営されていました。
Second Anglo-Dutch War(1665年3月4日 →1667年7月31日)の末、オランダは、北アメリカでイギリスによるニューアムステルダム(ニューヨーク)の支配を認める代わりに、南米のスリナムとインドネシア・バンダ諸島のラン島(当時は香辛料貿易の中心地で、毛皮貿易のニューヨークより価値のある土地であった)の支配を得た。1700年までに、レナペ族の人口は200人まで減少していた
しかし17世紀後半の3次に渡る英蘭戦争で両国間は一時和睦したものの...
スペイン王家継承問題で英・仏が結託してネーデルランドを不利な立場に追いやりその後ユトレヒト条約で(海洋進出が)有利になったイギリスはスペインに取って代わり海洋国家となったわけです。
第2項 1763年のパリ条約の要因となった七年戦争の勝利
18の後半フランス王国率いるルイXVは七年戦争(1756年→1763年)を起こし、アメリカ大陸植民地化に関与する多くの宗主国(英国、スペイン王国、イギリス、プロイセン王国、ロシア帝国など)とフランスとイギリスは紛争の主な交戦者であり、世界戦争に突入しました。
カナダの領有をめぐって2つの大国が争ったため、当初は両陣営がnative peopleの種族を巻き込んだ(抱き込んだ)争いとなり la Nouvelle-Écosseが主戦場となりました。
これはフランス側についたアルゴンキン族とイギリス側についたイロコイ族との代理戦争の様相を呈していてフランスでは「フレンチ・インディアン戦争」と呼ばれています。
しかし、フランス側は軍事的に圧倒され、北米のcolony(植民地)を守備するこが難しく、1759年9月18日のケベック降伏と1760年7月のレスティグーシュの戦いでの"敗北"で大幅にterritory(実効支配地)を縮小させられました。
1763年のパリ条約 でヨーロッパの七年戦争と北アメリカ大陸のフレンチ・インディアン戦争とインドのカーナティック戦争などの講和(停戦)条約がイギリス、フランス、スペインの3国間で締結されて、Nouvelle-Franceがイギリスとスペインに割譲されてフランス王国はアメリカ大陸から完全に手を引き、大英帝国が世界の海原を席巻する時代が到来しました。
但しこの時、native peopleの難民!は出たでしょうが、「イギリス帝国が宗教の自由と言語の自由を保障」したので白人の難民は生まれませんでした。
産業革命の嵐
1764年にハーグリーブスがジェニー紡績機を発明した...ジェニー紡績機は小型であることもあり農村工業地帯に広く普及した...
1771年、リチャード・アークライトが水力紡績機を開発した...
1709年にエイブラハム・ダービー1世が...コークス製鉄法が開発された...
1735年には彼の息子であるエイブラハム・ダービー2世によってさらに改良が加えられ、1750年ごろからコークス製鉄法はイギリス全土に(普及した)...
1761年に(イギリス最初?の)ブリッジウォーター運河が完成。
1765年、ジェームズ・ワットが...蒸気機関の能力は...真に動力源として革命的なものとなった。
1774年には製鉄業者であるジョン・ウィルキンソンが中ぐり盤を発明...精度の向上によって、ワット蒸気機関...前提が整った。
1800年にはヘンリー・モーズリーが実用的なねじ切り旋盤を発明した...ボルトとナットが互換性を持った形で量産が可能になった。
1807年にロバート・フルトンによって河川航行が可能な外輪船が実用化された。
1830年代には改良された外輪船が外洋航行を行うようになる。
つまり、蒸気機関は象徴的な存在であり、実際には製鉄技術、工作機械、そして基本となる"機械要素"の"標準化"が重要な役割を果たしたわけです。
日"教祖"歴史教育の噓その2;1805年10月21日のトラファルガー海戦の影響は
小生も長年まんまと騙され続けていましたが...
イギリス海軍は第二次世界大戦まで海を支配し続けました。トラファルガーでの勝利は、イギリス海洋進出(制海権奪取)の大きな要因とされていましたが...相対的な経済力がイギリス海軍の支配(制海権)の重要な要素であったことを示唆している。《英語版Wikipediaより引用》
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- ●New England/ニューインランド 英語版Wikipedia
- ●British colonization of the Americas/アメリカ大陸のイギリス植民地化 英語版Wikipedia
- ●United States/アメリカ合衆国 英語版Wikipedia
- ●James VI and I and religious issues/ジェームズ6世と宗教問題 英語版Wikipedia
- ●Church of England/イギリス国教会 英語版Wikipedia
- ●Jamestown, Virginia/ジェームズタウン 英語版Wikipedia
ここまで読み進めていただければ先述した流れで、イギリス帝国最初のアメリカ大陸開拓地はNew Englandと呼称されていたことは想像できるでしょうが...
第1項 New England 開拓の始まり
具体的には現USA北東部の6つの州、コネチカット州、メイン州、マサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、ロードアイランド州、バーモント州のエリアを指します。
1606年後半、イギリスの入植者たちはロンドン会社のチャーター(許可)で出航し、新世界に植民地を設立しました...4か月の特に長い航海を行い...1607年4月26日、彼らが命名したヘンリー岬に上陸して、チェサピーク湾への探検を始めました...
1607年4月25日に統治評議会(自治組織)の議長に選出されたエドワード・マリア・ウィングフィールド大尉が、5月14日約40マイル(64 km)内陸部にジェームズタウンの建設地を定めてFortの建設を始めました...川のカーブのためにFrontierとして最適で...native peopleは居住していませんでした。てnしかし島は河口部の湿地帯にあり蚊に悩まされ...飲用水の確保も困難でした。
更に1606年から1612年間にかけて"大干ばつ"が起り...ジェームズタウンの入植者と周辺に住むnative peopleポウハタン族の生存に深刻な影響を及ぼしていました。《英語版Wikipediaより引用》
1607年、ロンドン会社はチェサピーク湾のジェームズタウンに恒久的な植民地を設立しましたが...ポッパム植民地は短命でした。
当時、この地域には約3万人のnative peopleアルゴンキン族が住んでいました...
1617年までにジェームズタウンの1700人の入植者のうち351人しか生存者はいませんでした...バージニアに入植人たちがタバコ栽培で成功して、1622年には入植者の人口は当初の400人から1240人に急増していました。
植民地経営を行っていたロンドン会社はnative peopleアルゴンキン族の激しい防衛戦に屈し敗退して、変わってイギリス王国のterritory(領有地)となったジェームズタウンやその周辺が知られるようになりました《英語版Wikipediaより引用》
つまり、1534年にヘンリー8世が、ローマ法王から独立したChurch of England(イギリス国教会)を設立して以降イギリス国王は、ローマ教皇の臣民ではなくなったので、先述した1494年のトルデシリャス条約1529年のサラゴサ条約など糞くらえ!だったわけですが、カソリックの教義は守っており!プロテスタントへの迫害は続いていたわけですが...
ジェームズ6世統治時代(1567年7月24日→1625年3月27日)になるとフェリペ2世(在位1556年 → 1598年)亡きあとのスペイン王国、神聖ローマ帝国(皇帝)の弱体化と共に、フランス同様に"民間貿易(会社)に名を借りた海外進出"が行われるようになったわけです。
つまりフランス、阿蘭陀、と殆ど同時期に民間主体で海外進出を開始したわけです。
第2項 USA建国のコンセプトを作ったメイフラワー号と清教徒
新暦1620年11月19日に現在のケープコッド(現Provincetown Harbor)を見つけ、そのまま開拓会社から入植許可を与えられたバージニア植民地に向かって南に航海しようとして数日を費やしましたが、強い冬の海は彼らをケープコッドフックの港に押し戻し!仕方なく11月21日に錨を下ろしました。
同行した プリマス植民地の軍事顧問マイルス・スタンディッシュは、彼らに
与えられたpermission(認可)条件である入植地の変更を同意して、上陸が許されました。
これで、USAの持つ2つの顔の大事な一面『自由、平等、博愛』を支えるPuritans(清教徒)のアメリカ大陸開拓の歴史が始まったわけです。
第3項 イギリス帝国による東海岸の開拓
ユトレヒト条約(1713年4月~)以降、イギリス人の入植者が大西洋に流れ込む河川を遡り河川沿いに次々fort(砦・交易所)とcolony(植民地)を建設して、新大陸?の開拓(占領)を開始しました。
そして、以後農耕で定住していた部族も、バッファロー狩りを行っていた狩猟部族も含め
native peopleのアメリカインディアン、アメリカ大陸進出に先行していたFrench、Dutch、との間でterritory(実効支配地)をめぐる壮絶な攻防戦が繰り広げられることとなりました。
●South Carolinaは
最初にヨーロッパ人入植者として、イギリス人が入植する以前の1562年にフランスのHuguenots(プロテスタント)により始まりました、最初のイギリス人は1670年に現在のチャールズフォート-サンタエレナ遺跡に集落を築き、アシュリー川の西岸にチャールズタウンとして設立されましたが、1680年に現在地に移転しました。
1719年、カロライナ南部の開拓民はcolony(植民地)の総督から所有権を得ました。1729年、カロライナはノースカロライナとサウスカロライナの2つのイギリス帝国の王室領(海外領有地)になりました。
以降アシュリー川、クーパー川の沿岸が開拓されて行きます。
●North Carolinaは
1584年、エリザベス1世は、州都の名前が付けられたウォルターローリー卿に、現在のノースカロライナ州(当時はバージニア州の一部)の土地のCharter(憲章:認可状)を与えました。
アメリカ大陸でのイギリス人の2番目のterritory(領有地)獲得の試みでした。
ローリーは1580年代後半に海岸に2つのコロニーを設立しましたが、どちらも失敗しました。
1587年8月18日にロアノーク島で生まれれた北米で生まれた最初の英国人ヴァージニア・デアで、デア郡は彼女にちなんで名付けられました。
1712年、統治をめぐる論争により、カロライナ植民地はノースカロライナとサウスカロライナに分裂しました。ノースカロライナは1729年にイギリス帝国の(王室直轄領)植民地になりました。
●Virginia
Carolina同様にウォルターローリー卿が1584年4月の最初の入植を支援しました。
Virginiaはサウスカロライナからメインまでの沿岸地域全体とバミューダ島を含む広い領域を指すことになりました。
最初の入植は失敗しましたが、1606年にイギリスのジェームズ1世が、新しい遠征に資金を提供して、12月に企画をしたロンドン会社にファーストバージニア憲章を付与しました。彼らは1607年5月にバージニアに上陸して、入植地ジェームズタウンを開設しました。
植民地での生活は危険であり、多くは1609年の大干ばつで命を落としました。1610年に始まったタバコ栽培の労働力としてのnative peopleポウハタ族6,000人の入植者のうち1624年までに生き延びれたのは約半数の3,400人だけでした。
しかしヨーロッパの旺盛なたばこ需要でPlantatioでは、より多くの入植者と"使用人"の入植を促進しました。
アメリカの闇歴史の象徴"奴隷制度"
コロンブスに代表されるポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの貿易商(奴隷商人)により、1619年にジェームズタウンにアフリカ系奴隷が所有物!として"輸入"されました。そして1661年と1662年に当時のバージニア州によって市民権(人権)を持たない所有物・財産の"奴隷"制度が"法制化"されました。
●Maryland
都市名ボルチモアの由縁にもなったGeorge Calvert, 1st Baron Baltimore(1579-1632)は、北のマサチューセッツとすぐ南のバージニアの間の所領を認めるCharter(憲章:認可状)を申請しました。
彼の死後に跡目を継いだボルチモア男爵2世(1605-1675) の息子のセシリウスカルバートにCharter(憲章:認可状)が公布されて入植がはじまりました。
ボルチモア卿の最初の入植者は1634年3月に新しい植民地に入植し定住しました。
彼らは貿易を確立することを熱望していた?native peopleの種族から土地を購入しました?(※★)
セントメアリーズはメリーランド植民地の最初の首都になり、1695年まで60年間中心地であり続けました。
その後も多くの入植者が続き、彼らのタバコ作物は成功して、すぐに新しいプランテーションは収益性の高い事業yとなりました。ただし、マラリア、黄熱病、および腸チフスが蔓延して、当時の平均余命は他のニューイングランドよりも約10歳低くなっていました。
参※★)ニューヨーク同様に、native peopleには土地の売買習慣は無かったと思われ、売買契約が成立(履行)されたことを証明する論拠となるevidence(証拠)は残されていません!
●Delaware
オランダ人は現在のデラウェア州に定住した最初のヨーロッパ人として、 1631年にルイスの近くのズワーネンダエルにfort(砦・交易所)を開設しましたが...
1年以内に、入植者全員がnative peopleのresistance(抵抗活動)にあい壊滅しました。
数年を経過した1638年にベルギー生まれのPeter Minuitが、Swedes、Finnish、Dutchのバルト海沿岸グループを率いてスウェーデン人のfort(砦・交易所)&colony(植民地)であるNew Swedenをウィルミントンに開設しました。
このcolonyはその後17年間続きました!
1651年、Dutchが、現在のニューキャッスルにfort(交易所)を開設し、
1655年にNew Swedenのcolonyを奪取して、前途したのNew Netherlandに併合しました。わずか9年後の1664年、イギリス艦隊がオランダ人を制圧しました。
その後ウィリアム・ペンが代表的な政府を設立し、ペンシルバニアとデラウェアを1682年に統合しました。その後両方の総督が同じ人物でした。
デラウェア植民地は、初期には本土からの年季奉公に依存していましたが、イギリスの経済状況が改善するにつれてイギリス人移民の数が減少したため、アフリカから"多くの黒人奴隷"を輸入しまじめました。
●New Jersey
オランダ人が、ニュージャージーに入植した最初のヨーロッパ人です。
1630年にMichael Reyniersz PauwによってPavoniaが開設されて、後にBergenと呼ばれる街になりました。
前途したPeter Minuiのデラウェア川沿いへの入植地New Swedenをイギリス艦隊が制圧して、州全体を併合した 後、1664年6月24日に地域全体がイギリス帝国のterritory(領有地)になりました。
北米の土地はチャールズ2世によって分割されました。チャールズ2世は、彼の兄弟であるヨーク公(後のジェームズ2世)に、 海外所領としてニューイングランドとメリーランドの間のこのエリアを与えました。
その後、ジェームズはハドソン川とデラウェア川の間の土地を、忠実である2人の臣下、ジョージ・カートレット卿とストラットンのバークレー卿に海外所領として与えました。そしてニュージャージー植民地と名付けられました。
●Pennsylvania
1631年6月3日までに、オランダ人は現在のLewes towmにZwaanendael Colonyを開き入植を開始しました。
1638年、前途したNew Swedenをterritory(実効支配地)としました。
前途したように1664年3月12日、イギリス国王チャールズ2世が、ヨーク公ジェームズにバージニア会社に与えていた、Charter(憲章:認可状)を与えました。
しかし前途したオランダの主張するterritory(実効支配地)のNew Netherland と重複していました!
1664年6月24日、ヨーク公は、彼の大規模な所領の一部についてのCharter(権利)を、ジョンバークレーとジョージカートレットに売却しました。
土地はまだ完全にイギリスのterritory(実効支配地)にはなっていませんでしたが、デラウェア川の西側にある"New Netherland の一部エリア"でイギリス人入植者に対する分譲が始まりました。
この後、1664年8月29日、にニューヨーク港でイギリス軍艦による威嚇で、New Amsterdam(現ニューヨーク)を奪取して、1664年10月にイギリス軍がFort Casimir(カシミーユ交易所)を占領してNew Netherland 奪取は完了しました。
1681年2月28日、チャールズ2世はウィリアムの父であるウィリアム提督に負っている16,000ポンド(2008年には約2,100,000ポンド、小売インフレ調整)の債務返済の代わりにウィリアムペンに領有地のCharter(憲章:認可状)を与えました!
王はペン提督に敬意を表してこの領地をPennsylvania(ペンの森)と名付けました。
そしてペンは、重移民自治組織「織郡政委員会」と「信教の自由」という、新世界で多くコピーされた2つの革新を備えた植民地政府を設けました。
]クエーカー教徒の指導者だったウィリアムペンはnative peopleのデラウェア族のリーダーと長期間の友好関係を始めました。そしてクエーカー教徒と他のnative people部族との間の協定も生まれました。双方ともに協約を守り続けました。
●Georgia (U.S. state)
ユトレヒト条約(1713年4月から順次)以降1733年2月12日にサバンナに到達しました。州ではこの日を「ジョージアの日」と名付けて州の祝日としています。
以降サバンナ川を遡り内陸部に至りました。
《次回に中編に続く》
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当シリーズではLogistics(兵站)とGeopolitics(地政学)に関する"話題"を取り上げていますが...
同時に現状の"垢にまみれた人達"が推し進めている、初等・中等教育についても"問題を投げかけ"ている!
つもりです。
ポイント切り替えを誤った"狂育路線"が...
つまり、現行の大学入試を目指した「記憶力」に頼る"年表重視"の、歴史書・歴史教育では、「歴史的事実」が個別事柄として語られている場合が殆どです。
1番大事な「なぜそうなったのか?」と言う「相互間の因果関係・相関関係」が語られれいない場合が殆どで、「年号記憶」に終始しているわけです。
これでは、義務教育・高校教育を含めた一貫教育課程の「地理・歴史」が面白く無くて当然です!
更に初等数学・初等科学教育(理科)においても
与えられた課題解決には幾通りもの"論理過程"があり、更に条件付け次第では"いくつもの解"も存在!します。
特に現状の初等教育における"算数教育"では、日凶素患部が干渉した検定教科書?に記載された「1つの論理過程、一つの解」である模範解答を金科玉条のごとく押し付けて!います。
これでは日常の問題に即応した「臨機応変な思考力」を身に着けることはできません!
地政学そのものについて迄「枠にはめよう」!と...
最近、地政学アナリストを装った"正体不明の人物(団体?)"が、「判りやすい地政学入門シリーズ」と称して、Youtubeに"静止画投稿"を始めましたが...
彼らは「日本における「地政学」(独: Geopolitik)の学説」を盾に、地政学を狭い範囲に押し込んで、「広い意味での地政学geopolitics」から関心をそらそうとプロパガンダ!しています。
geopoliticsはborder(国境)territory(実効支配地)のlife lineであるtraffic networkつまりはlogistics(兵站学)とも密接に結びついていて、国防と密接な関係!にもあるわけです。
なので、USAでさえ時代(政権)によっては、"迫害"を受けてきた研究分野!でもあるわけです。
更に、その成り立ちから、戦後の日本では「垢にまみれた狂育者たちに毛嫌いされてきた"研究分野"」でもありますが...
地政学には学会は存在しない!
更に、世界的に統一された学会・協会(特殊法人)も存在しません!
日本では地理学の一分野とされているようです。
つまり前途したように、"研究分野(Theme)"ではありますが、一部の"職者?(思想家)"が唱えている様な狭義の「単なる学説」に則った"学問分野"ではありません!
地理学、経済論(経済学)、文明論(文化人類学・歴史研究・言語研究・政治学・社会学)、思想論(哲学・宗教)、心理学!(群集心理)にまで跨る、
「民の営み・暮らし向き」文化圏・生活圏・経済圏どうしの"相関関係"を、為政者(国家権力)間の力関係(軍事力)ではなく、communityどうしの相関関係で解き明かそうとする"実践論"の研究Theme"なのです。
つまり、小生が属していた"非破壊検査協会"のような多方面の学問分野に跨る"応用研究分野・実践論"なのです。
つまり、♥"タブーの無い自由な発想"を展開できる研究分野!なのです。
なので中共でもっとも進んでいる!研究Themeでもあるわけです。
"彼ら"(中国人民政治協商会議&中国共産党中央統一戦線工作部)にとって日本の地理学会の活動は、脅威でもあり・目障り!でもあるわけです。
つまり、単なる"学説"をネタに地理学会を分裂させて、このThemeに対する"日本の研究"をカオス(混沌)に導いて、自らの優位性を維持しようとしているわけです!
明日を担う未成年層に、世界を知ることで日本の鉄道網の将来の姿を考える大人に育つように...
当シリーズでは、日本の鉄道網を中心に、日本国内事情だけではなく「人類皆兄弟!」が営む「地球規模での国家間の力関係(軍事力)、相互干渉(外交関係)」から考察して、21世紀の日本のLogistics、transportation(運輸)、Transport network のあるべき姿を探っています。
同時に未成年の「鉄オタ」や、某国のプロパガンダに乗せられた一部のお気楽な運輸族代議士が"ぶち上げた馬鹿げた整備新幹線建設推進プロジェクト妄想"に踊らされないで済むように、
「大きな視野・世界観」に下ずいて、鉄道事業を冷静に"俯瞰"出来る「常識を兼ね備えた、ビジョンのある"大人"に育つ」ことを願って寄稿しています。
勿論小生は右翼(金権慾?)ではありませんが...
赤(垢)にまみれた日凶祖?の教職員や、それを先導(煽動)している研究者・大学教員・教育アナリスト?たちのような"頭空っぽの理想酒義?者"でもありません!
次世代を担ってくれるはず?の"脳天気な若者たち"と、金権慾"にまみれた"お気楽な運輸族"の発言・政治活動と、その手先にされている「鉄道傾YouTuber」のコンテンツを眺めていて、日本の行く末を案じているだけです!
狸穴総研 地理学研究班 出自多留狸
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更に、Google地図検索を容易にするために、地名に関しても、言語表記を基本に、(カナ表記)についても♥Google 地図で使用されている「カナ使い」を使用しています。
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海外事情は各国言語版 Wikipediaを優先!
但し海外事情についての日本語版ウィキペディアは、英語版contentの"直訳"が多く更に編集者(与党関係者?)に都合よいようにかなり"歪曲!"されたcontent(電子情報)が多いので、公正を期するために各国言語版 Wikipedia に直接リンクしてあります!
また、日本語版ウィキペディアは中学(教師)並み?の"直訳"が多いので、"意訳し直して"あります。
参)当サイト内関連記事 海外版Youtube 鉄道動画 と 各国語版ウィキペディアの勧め はこちら。
参)当サイト内関連記事 海外鉄道・ 空港関連 ご当地Wikipedia リンク集 はこちら。
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- ●クネクネ文字?は(使用各国版)ويكيبيديا
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- 台湾版;維基百科,自由的百科全書
- 中共版;维基百科,自由的百科全书
にそれぞれ直接リンクしてあります。
※但しハングル表記(韓国語版)위키피디아 は、両班(ヤンパン)出身者(※991)のintellectualが趨勢を占める狂育怪が"関与"しているので著しく信憑性に欠け!ていて、殆どが日本語版ウィキペディア以下!(50歩100歩?)の fake content なので無視!しました。
Red China版 (维基百科,自由的百科全书 )のほうがはるかに信頼性があります!
参※991)当サイト内関連記事 両班(ヤンパン)3悪に翻弄され続ける韓国国民と日韓関係 はこちら。
イデオロギーに関する日本語版ウィキペディアのイエローフラッグは"糞"フラッグが多い!
特に歴史・イデオロギーに関するイエローフラッグは(管理人"としてボランティア?で"ウィキペディア事務局に関与している)平和ボケした理想主義者、有識者?達が日"教祖"の偏向教育(大衆洗脳)方針に沿うように"注意(Communism!)喚起?"しており、ハッキリ言って"糞"フラッグ!です。
むしろ"糞"フラッグが立っているcontent(内容)のほうがfairness(公正)な立場の内容と言えなくもありません!
交通施策に関するcontentは運輸族のプロパガンダの温床に
但し、交通関係はYoutuberが虚仮にしているように、スポンサー(与党運輸族・財界)の意向を強く反映しているので、universality(普遍性)に欠けたprivate document(私文書!書簡)に下ずく刊行物やマニア向け雑誌を引用しているcontentが大半で!
Academic(学術亭)ではないcontentに"正当なfairness(警鐘:イエローフラッグ)"を警告している場合もあります。
※当サイト内関連記事 日本語ウィキペディアが 鉄道(傾?)Youtuberから"こけ"にされる訳は... はこちら。
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♥《アメリカから学ぶ持続可能な鉄道事業》関連特集記事のご案内
※以下の♥タイトルをクリックするとシリーズ記事全てにジャンプ!できます。
- ♥《Theme》アメリカ 鉄道 網がどのように 再生 したか?についての考察《 持続可能な鉄道事業 》 の目次
- (summary)日本の"鉄オタ"は maniac の域を超えて正しく鉄道狂(railway mania)となっている方が多い要で...特に鉄道系Youtuberと言われるひとの殆どが...更に独自サイトを展開している"鉄道教"入信者は...、
- ♥《chapterⅠ》アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川 ー 前編 ー の目次
- (summary)アメリカ大陸は、コロンブスがアメリカ航路を見つけるずっと以前の11世紀初頭にヴァイキングが現カナダのNewfoundland一帯を発見して、ネイティブアメリカンと毛皮交易を始めたのが最初と言われています
- ♥《chapterⅡ》アメリカ建国に重要な役割を果たした大河川 ー後編ー の目次
- (summary)嘗て、大河・運河に代表される水運は快適な移動手段でもあり、大量貨物を扱える重要な輸送手段でもありました。
- ♥《chapterⅢ》BNSFとMilwaukee Roadから学ぶ「持続可能な鉄道事業」実現のための教訓とは.... の目次
- (summary)嘗て黎明期の動力鉄道は、passenger trafficにしか対応できないtransporterで、public transportationとして利用するには不完全なtransit(交通機関)でした。正しく19世紀の新幹線だったわけです!
- ♥《Appendix Ⅰ》海上コンテナ ( Intermodal container ) の 鉄道 輸送について の目次
- (summary)世界の貿易貨物は Intermodal container 輸送の時代に入っています!アメリカ大陸、ユーラシア大陸ではリスクの大きいcontainer shipからrailroadを利用した cargo transportation に注目が集まっています。
- ♥《Appendix Ⅱ》 運輸族代議士や地方議会議員 が 鉄道 新線を "建設したがる訳!" とは... のTop index
- (summary)某時事Youtuberの 公共投資の在り方を説いたコンテンツに、土木関係者?を装った正体不明の投稿者から「公共投棄」土木事業の必然性をぶち上げた"恫喝"コメント!が寄せられたそうです!...
- ♥《Appendix Ⅲ》 パブリックコメント 制度とは... のTop index
- (summary)パブリックコメントとは聞こえはいいですが...一方的な押し付け Delusion! についての assessment(評価)を求めている?だけで、consensus(総意・協心)を得るための意見聴取ではありません!
公開:2021年10月19日
更新:2023年8月30日
投稿者:デジタヌ
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