タヌキがゆく

鹿児島県 霧島市《 タウンレビュー 》歴史に翻弄された霧島市

霧島市とこれ迄の歩み

薩摩隼人という熟語があるが、薩摩(旧薩摩国)と隼人(旧大隅国)は元々異なった風土を持つ地域として、それぞれの道を歩んで来、常に一枚岩では無かった!

ましてや、山岳によって隔てられた、新・日向国(現宮崎県)とは相いれないところがあり、薩摩国も大隅国も、日向国から分離し別々の国になった経緯がある。

大化の改新で、成立した新・日向国(現宮崎県)は7世紀末の段階では対隼人の最前線に位置づけられていた。

これらの経緯で、宮崎県とは犬猿の仲ではあるが、旧薩摩国・鹿児島市ともそれほど親密でもない?

独立心が強い「隼人衆」は鹿児島県は頼っても、鹿児島市には頼りたく無い?らしく、霧島音楽祭を独自に開催し続けている。

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている。

「薩摩」と並んで大和朝廷に対する「隼人」の抵抗が最後まで根強く続いた地で、大隅国衙だった桑原郡には「豊前からの移民」が行われ(「薩摩・高城郡」には肥前からの移民)大和朝廷により「対・隼人政策」が取られた。

702年(大宝2年)の薩摩・多褹叛乱を契機に、現在の鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立。

713年(和銅6年)4月3日に隼人の勢力下であった肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が、移管し大隅国として分立した。

旧・霧島町は大隅国の贈於郡(そのくいぐん)に含まれており、現・霧島市域に当たる旧・国分市郡田・重久と旧・隼人町松永、牧園町持松などの地域も含まれていて国府は旧・国分市にあったとされている。

1185年(文治元年)惟宗忠久が島津荘(南九州にあった大荘園)の下司職に補任され、島津(嶋津)左衛門尉と称したのが島津氏の始まりとされる。

時代は下り1572年 薩摩・大隅の統一目前に島津氏※が北上し「木崎原の戦い」でこの頃令制日向国を手中に収めていた伊藤氏に勝利した。

1574年(天正2年) 大隅の肝付氏が島津氏に降伏し、島津氏が県本土(薩摩・大隅)を統一。

1578年 「耳川の戦い」において伊藤氏が頼った大友氏に大勝した島津氏が旧日向国一円(薩摩国、大隅国、日向国)を支配することとなった※

※この頃、島津氏が九州を実質制定したが最近の説では、決して侵略により制定したのではなく、親類縁者に友軍を頼まれたり、敵の侵攻を防いでいるうちに、どんどん勝ち進み、知らぬうちに九州平定に至ったとされている。

1587年

秀吉の九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、令制日向国(宮崎県)は功のあった大名に分知された。

江戸幕府の「入組支配」

江戸幕府はかつて7世紀後半に天智天皇によって制定された令制国(律令国)の「団結による反乱」を極度に警戒し、幕府安康の最善策として「令制国の解体政策」を推し進めた。

それが「入組支配」と呼ばれる政策で、地方の大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い「地方の統一・団結」を阻もうとした。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

令制・日向国内は薩摩藩が南部の大部分を占める以外は、大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割された延岡藩、高鍋藩(宮崎県・高鍋町)、佐土原藩(宮崎市の一部/薩摩藩支藩)、飫肥藩(おびはん;宮崎県日南市と宮崎市南部)などの領地が入り乱れた。

明治初年時点での国内の支配は以下の通り。太字は郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
臼杵郡 - 延岡藩及び代官支配地;幕府領(西国筋郡代・人吉藩預地)、高鍋藩
児湯郡 - 高鍋藩及び代官支配地;幕府領(西国筋郡代)、佐土原藩飛び地
那珂郡 - 飫肥藩佐土原藩、及び代官支配地;幕府領(飫肥藩預地)、旗本領、高鍋藩飛び地
宮崎郡 - 代官支配地;幕府領(飫肥藩預地)、旗本領、延岡藩飛び地、飫肥藩飛び地
諸県郡 -代官支配地;幕府領(西国筋郡代)、旗本領、高鍋藩飛び地、薩摩鹿児島藩飛び地

大隅国

九州域(贈於郡・現霧島市域を含む)5郡と島部2郡で全域 薩摩鹿児島藩の領地。

薩摩国

14郡35郷 全域 薩摩鹿児島藩の領地。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日)( 旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め宮崎県(日向国)・鹿児島県(大隅国)も幾多の行政変遷にさらされた。

霧島市の変遷

1871年(明治4年)廃藩置県令発布により曽於郡郷(現霧島市域)は襲山郷(そのやまごう)となり、都城県(旧・飫肥藩)の所属となった。

1873年(明治6年)、都城県と美々津県(旧延岡藩・高鍋藩・佐土原藩)が一緒になって一旦は初代・宮崎県が成立。この時点で襲山郷(旧霧島町域)は鹿児島県に転入された。

1876年(明治9年)に宮崎県は鹿児島県に併合され鹿児島県宮崎支庁が置かれた。

1877年(明治10年)旧鹿児島県域(鹿児島県、宮崎県)と熊本県、大分県で一部の不平分子が西郷隆盛を担ぎ上げ挙兵、西南戦争が始まる。9月24日西郷軍が敗れた

1883年(明治16年) 鹿児島県(旧日向国)を分割し宮崎県(令制日向国)が再び誕生したが、旧都城県以外の旧大隅国(旧襲山郷:旧霧島町域)その他は鹿児島県に残った

1889年4月1日 - 町村制が施行されたのに伴い、重久村・松永村・大窪村・田口村・川北村が合併し、東襲山村が発足。

1897年4月1日 - 南諸県郡・大隅国東囎唹郡の区域をもって大隅国囎唹郡が発足。旧・南諸県郡域が大隅国の所属となる。

1934年(昭和9年)、霧島山がわが国初めての国立公園として指定された。

1935年7月10日 - 霧島村に改称。
1947年 - 村域の一部を清水村に編入。
1950年4月1日 - 村域の一部が分立し、東襲山村が成立。
1958年11月3日 - 町制施行により霧島町となる。

1972年(昭和47年)4月1日 - 旧隼人町(現霧島市)に鹿児島県により造成された鹿児島空港が鹿児島県から国へ譲渡・移管され、2500m滑走路を持つ鹿児島空港として開港。

1980年第一回霧島音楽祭開催。

1994年7月㏵ 旧霧島町にみやまコンセール完成

2005年(平成17年)11月併催の大合併で霧島町・国分市・隼人町・牧園町・横川町・溝辺町・福山町の1市6町が合併して霧島市が誕生

 

公開:2016年10月31日
更新:2018年11月24日

投稿者:デジタヌ

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