狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー最終回ー

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★エピローグ 中華王朝の海外政略・植民地支配の拠点だった属国の"都"

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Territory(実効支配地)のboundary(境界)Frontier(冊)と border(国境)の関係とは...

★第0項 歴史創作家(国粋主義・国文学者)の最。大の詭弁!

現在、日本の歴史狂育怪を牛耳っている歴史専門家?有識者の多数派は、

国粋主義者・国文学者で占められており、時代考証を重んじる考古学畑の研究者・学者はほとんど加わってい無い!事実です。

そして彼ら(国文学者・歴史創作家)は"国体護持!?"の名の下に「約1000年!に渡り中国王朝の冊封国(属国)だった歴史!」を隠蔽して、歴史を改竄!しているのです

第1目 我が日ノ本には有史以来 emperor は存在したことがない!

日本史を騙る(紐解く)上で重要なキーワードは
  • ●古代日本列島は、女性shaman(司宰)が司る自然崇拝の民が暮らす地だった。
  • ●古代日本には統一国家は無かった!
  • ●中国王朝の傀儡政・弥生人政権は長らく冊封国(属国)受け入れた
  • (中国王朝の覇権)虎の威を借りて、縄文人勢力圏を侵略した!
  • ●(紙の伝来とともに始まった)文書文化!を取り入れた弥生人が、(口承・伝承文化の)文盲!縄文人を征服した!

事でしょう...

建国以来日本列島には emperor など存在しなかった!

更に紙の伝来以降に伝承に下ずいて編纂された、(三国志同様の)一大叙事詩(英雄列伝伝説!)「日本書紀(720年編纂)」を信奉する国粋主義者・国文学者たちは...

『有史以来「我が日ノ本」にはautocracy(専制政治)を行っていたemperor(皇帝)、king(王)、an absolute monarch(専制君主)、sovereign(主権者)等はいなかった!』史実を隠蔽して改竄していることです。

つまり、我が日ノ本は古来から、

原始♥Democracy(民主主義)に下ずいて、仲間からLeader(座長)Chief(酋長)を選びCommunity(生活共同体)を形成していた部族が、共存・共栄するFederation ・日本列島連邦!だったわけです。

第1項 冊封国は同盟国とは異なる

藤原京・平城京...平安京と続く"都"は大和政権(朝廷)が宗主国"中華王朝"の使節団を迎える迎賓施設!だった!

現代の国文学者がどう解釈しようが、中華王朝から見れば我が日乃本は、冊封国(属国)であり、その長は Chief であり Emperor ではないのです。

なので、国使が大君に計らう敬意は、自国の地方長官に計らう敬意と同じで、

国使も、全権を委任された大使ではなく、あくまでも Emperor の意向を伝えるために派遣された「使者」にすぎなかったのです。

第0目 あくまでも朝貢が先!

つまり、莫大な献上品携えた、国交樹立(冊封国)願いをする朝貢使節団が先で、印綬後は""伝令としてエンペラーの親書を携えた、使節(視察)団が、JICA同様の技術者・僧侶などを従えて冊封国(植民地)を訪れるわけです。

彼らの役目は、帰国後にエンペラーへ冊封国の"詳細な報告"を行うことで、

その為にも使節団の歓迎施設"迎賓館"は重要だったのです。

印綬は国家ではなく、為政者に対して与えられる"身分保障"なので、本人一代限りの資格です。

そして、印綬される人物の実権に応じて等級(権限)が定められていて、統治権(裁量権全権)を与えられた金印から、形だけの代官まで、幾通りもの統治権が与えられたのです。

但し、あくまでもエンペラーの臣下!であり、対等な立場では無かった!のです。

なので前途した様に、元が滅亡して再び中華王朝の復活した"明"へ国交(貿易)を求めた、室町幕府3代将軍足利義満が日乃本の統治者として日本国王源道義の金印を印綬したのです。

つまり、宗主国のエンペラーは、名目上の統治者"天皇"ではなく、

実権を握っている足利義満に統治者としての全権を与えたのです。

第2項 古墳時代末期・奈良時代の公共事業?

日本には「民(たみ)の営み・暮らし向き」に関わる"公共事業"という概念は「明治維新まで長らく無かった!」のでしょう...

つまり、迎賓施設"都"の造営も公共事業などでは無く!ましてや"国家事業"でも無かった!と解釈するのが妥当でしょう。

つまり全ての建造物の造営"(土木・建設事業")は全てChief(部族長)の私的事業!だったわけです。

なので、各Chief(酋長)の権力・財力を誇示するために、大規模な古墳が日本列島ほぼ全土に造営されたわけです。

中でも大和王権はずば抜けた財力を持っていた!

初期の稲作に適した肥沃な大和盆地(扇状地)に、大規模?稲作を定着させた、大和王権はずば抜けた存在でもあったわけで...

宗主国である中国王朝が倭国の"朝貢使"(遣隋使・遣唐使)にこたえるべく、冊封国(さくほうこく;植民地)の視察!に訪れた正式使節団を迎えるために、

上陸地点の石津浜から(迎賓施設としての)都に向かう竹内街道沿い(羽曳野丘陵)に、

権力を誇示するように数多くの"巨大墳墓群(百舌鳥・古市古墳群)を造営して、中華王朝に大和王権の統治力をアピールした訳ですが...

これらの古墳も大王(おおきみ)の墳墓だけではなく!

畿内を統治していた大和王権連合に加わった部族のChief(酋長)達が、挙って(張り合って)造営した墳墓にすぎません!

(※飛鳥村の石舞台古墳は当時大和王権連合に加わっていたChief(部族長)の実娘!のために造営された墳墓で、失脚後!に敵対する陣営により、墳墓暴かれ!墳墓の"盛り土・丘"が撤去!されて、石棺が露出した遺跡であることが判明しています!)

第2目 最初の迎賓施設としての"都"は

本稿の主題である「那の倭国・邪馬台国の都?」にも通じる「最初の迎賓施設としての"都"???」、

宗主国中華王朝の使節団(視察団)を迎えるための「迎賓施設"都"」の所在地は諸説紛々している訳です!

おとぎ話!「日本書紀』では、600年→907年の間の"朝貢使!"(遣隋使・遣唐使)には一切触れず!

いきなり、661年に最初の迎賓施設!娜大津造営されたことになっています

そして、幾多の変遷(遷都)を経て、中華王朝・唐王朝(618年→907年)の時代になり、藤原京(694年完成遷都)が完成して、その後更なる変遷を経て、平城京(710年→)に遷都するわけですが...

これらはすべて、大王(おおきみ)家の宮殿(私邸)造営で、当時畿内を制圧していた大和王権Federation!の構成員 (-_-メ) である「畿内の地方豪族のChief(首長)」達関与(建設費供与)して無かった!と推察できます。

その後に続く「都?造営」も

その後、天変地異で疫病が蔓延するたびに度々行われた遷都も、すべて私邸・宮殿の造営であり、「当時の幹部?(特権階級)は拠出していなかった」と考えた方が自然です!

これは各地に設営されたmanor(荘園)の多くが朝廷(王権)直轄であったことからもうかがえます!

つまり、「金の切れ目が縁の切れ目」で律令の度重なる改正!で、

平安中期(900年頃)に所領を与えられた、公家共上洛したまま京に留まり!、自らは京で贅沢三昧をするthe exploited classes(貴族階級、特権階級、搾取階級スタイルが定着して、所領にはagent(目代)を派遣して荘園管理を委ねて、律令制(郡県制)が有名無実化し崩壊!した訳です。

この時代でも、官吏・公家共は、朝廷から grant(ギャラ;給与)を得ていたのでは無く!

各個人が所有している「地方のManorn(荘園)」からの"水揚げ"で暮らしていたわけです!

なので、後年律令制が完全崩壊!して武家の世の中になると、公家共は"食い扶持を無くして困窮"したわけです!

★第3項 倭国におけるterritory の最小単位となる"荘園"とは

律令制度の根幹をなす大宝律令(701年制定)は、日本連邦が制圧する予定のarea(原野・事業用地?)を、幾つかの district(分譲区画!)に分けて、Federation(連邦)加盟の tribe(部族)Chief(後の the exploited classes:搾取階級)に"搾取" district つまり manor(荘園)を分譲!するために制度化・明文化した分譲構想!絵に描いた餅」にすぎなかったわけですが...

その最小単位「分譲区画」が manor(荘園)であるわけです。

そして、複数の manor(荘園)をまとめた district(行政単位)が令制国で、そこを統治するのが Governor(国司)ということになります。

なので、当初は分け与えられた令制国へ着任して、実際に Governor(国司)として governing(統治)していました。

しかし、前途した様に「平安中期(900年頃)になると」、上洛して定住していた地方の Chief が、貴族化して the exploited classes(搾取階級=公家)となり、実際に分譲された任地・領地に自らが赴かなくなり、agent(目代)を派遣するようになり律令制は有名無実となり崩壊した訳です。

第1目 植民地政策が必要だった平安中期の貴族社会

日本連邦(大和政権!政府(朝廷)?)は、給与性(俸禄制度)でもなく、上納金(事業税)でもなく、いわば大王(おおきみ)と lord(搾取階級:領主)の貴族共の"協同組合体制・共同運営"でなりたっていました。

つまり組合長の大王家と lord(領主・公家)は別所帯!だったわけです。

国家事業(インフラ整備)は、「組合員の持ち寄り」で行い、プライベート事業(宮殿造営・自領整備)は、「各自の自腹」で行っていたわけです。

事実・各地の新規manor(荘園)は殆どといってよいくらい、朝廷(天皇家)の直轄でした。

第2目 貴族化と律令制の崩壊

地方豪族共が自らのterritory(所領)を離れ、「都に上洛」して居を構えるようになり、territoryのGovernor(国司)業務をagent(目代)に委ねるようになると、律令(組合規約)は形骸化して、中央政権は「公家共の利権の争奪戦の場」となり、互いに「大人の事情(利害・思惑)」で手前勝手な「大王(おおきみ)」を擁立して、権力抗争に明け暮れた!訳です。

なので、大王家(おおきみ)が幾つも並立して、弥生人政権(朝廷)territory(実効支配地)内に、幾つもの「大王墓」が存在するわけです。

このような過程で律令体制が崩壊して、再び武家(地方豪族)の法度(制度)に下づいた、Governor(守護大名)・manor owner(地頭)の封建制(土地と領民がlord(領主)の所有物!)社会に突入していった訳です。

第3目 荘園の農民は付属品・奴隷だった!

前途した様に縄文人社会は、原始民主主義に近く、自分たちで統率力のある信頼できるleaderを選び(仲間入りして)、部族を守って生きていたわけですが...

弥生人は稲作とともに階級制度も...

弥生人の諸国(倭国連邦の共和国)は、稲作とともに"階級制度(奴隷制度)"も持ち込み、Community(共同体内に耕作専業のslave(農奴)を擁して、manor(荘園)化して、同時に当初はmanorの"用心棒"にすぎなかった武装集団(山賊?)も、自らのmanor(所領・荘園)の付属品?としてproperty(資産・私有物)化していった訳です。

なので、それ以降明治維新まで江戸時代を通じて、脱藩者などの「人の移動(転入・転出)」を厳しく規制していたわけです。

つまり、弥生人たちは、稲作とともに「隷属制度」も導入したわけです。

第4目 律令制の制度化(明文化)

そして、大化の改新(645年 → 650年)で律令制を制度化(明文化)していき、大宝律令(701年制定)でほぼ大成して、新たな侵略エリア(令制国)に、倭国連邦加盟国(公家・朝廷派豪族)の荘園(manor,plantation)の開設を奨励して、倭国連邦(大和朝廷)の勢力拡大を図っていったわけです。

そして中国"唐"王朝の傀儡政権「大和朝廷」は、後の幕府制度につながる"征夷大将軍"を任命して、縄文人;蝦夷のterritory(実効支配地)である、東北・四国・九州を次々と"制圧"しての唐王朝の冊封district(区域)=territory(実効支配地)を拡大していった訳です。

第4目 テリトリー争いの足跡

Federation(連邦)内の各lord;領主のterritory(縄張り)にみられる、勢力拡大の足跡は、

古参の地方豪族の領地では生活圏を尊重し、新たな征服zoneでは、manor(荘園)の利権範囲を基本にboundary(縄張り・境界)が設定されました。

つまり、制覇した新たなterritory(支配地)は、上洛しているthe exploited classes(搾取階級)の(租税徴収)の為に、native people(土人:縄文人)の「営み・暮らし向き」とは関係なくdistrict(知行地)を区画した訳です。

平野部では

農耕に適した「大河川の河口部に広がる平地部(三角州エリア)」は、「河川本流とその分流」で区切られ、その後現在まで続く「治水と利水」の背反する問題水種!となってしまったわけです。

つまり、梅雨時には河川氾濫で苦しめられ、渇水期には水不足による「飢饉(ききん)」に悩まされることとなったわけです。

つまり為政者の勝手な都合で決められた「集落のboundary(縄張り)」がもとで、土地に拘束された「村人間で血みどろの水争い!」が絶えなかったわけです。

第3項 自然崇拝・多神教の古代文化の歴史を改竄!したのは...

国粋主義者の"でっち上げた"虚構の最たるものは、「菅原道真を祭った天満宮は学問の神???」というFake(戯言!)です。

平安以降表音文字の「かな文字」が発明されて、各地の社寺で「縁起の捏造!」が始まったわけですが...

第1目 水天宮・荒神さんは「治水の神

後述する「天神さん」と同様に"暴れ川(大河・急流)"の流域にみられる「水天宮・荒神・龍神さん」は"治水の神"で、"鬼怒川!"などに代表される"暴れ川"の水害を"治める"治水の天守神として「在郷の民」が鎮守(祈禱所)として祭ったものです。

つまり、自然崇拝;shaman(祈禱師・霊能者!?)文化の一つです。

第2目 天満宮は豊作の神!

  • ●さざ波印は(観光)棚田
  • 鳥居マークは、天満宮(天神さん)・稲荷など"豊穣"の神
  • モニュメントマークは古墳(王族の墳墓)
  • 塔(天守)マークは、古城・砦跡

「天満宮を学問の神に仕立て上げた!」のは、「縄文人の倭国」を滅ぼした!後年の「弥生人の倭国!である日乃本連邦!」の指導者(搾取階級;公家)達が、「歴史を捻じ曲げる」ために、菅原道真の逸話!を利用して、"古代史改竄・捏造"をしただけです。

菅原道真は

菅原道真(845年8月1日〉→903年3月26日)は、平安時代の搾取階級・貴族・公家の出、で、政変に巻き込まれて九州の大宰府へ大宰員外帥(officer)として左遷?されて、現地で没したとされていますが...

大宰員Governor(chief executive officer)でありませんでしたが、大宰府の長官代理職(officer)であり、都(みやこ)で高い地位を得ていた道真にとっては左遷といえば左遷?ですが

...佐渡や隠岐へ流刑(島流し)に処せられた訳でもなく。

クーデター未遂事件の主犯?としては軽い処罰だったはずです。

つまり前途した様に政変に巻き込まれて失脚した!程度です。

但し、前途した様に平安中期の律令制(任官制度)が崩壊していたこの当時には、Governor(chief executive officer)でさえ目代を立てる時代に、単なるofficer(行政官)に就くためにわざわざ、都を離れて遠隔地に"ご本人"が赴く"仕来り"(制度)はもはやなくなっていたわけです!

そういう意味では、強制的に都落ち!させられて、防人の基地大宰府に、強制就任させられたのは、島送りに匹敵するくらいの"処分"だったでしょう!

更に、前途した様に中国唐王朝が滅亡する907年までは、「大宰府の防人の任務」は海外の侵略者から祖国を守るでもなく、中国唐王朝の冊封国(属国)として、九州南部の日向国・薩摩・隼人とのFrontier(冊)を南下させて、唐のTerritory拡大を担う"代理戦争"を行う任務だったわけです。

天満宮は道真着任以前から水の神として稲作耕作を行う各地にあった!

天満宮は道真以前の「ず~っと」昔の稲作が伝わった、縄文時代(紀元前!)から、「お稲荷」様とともに豊穣の天守神として、Chief(酋長・首長)の元に、shaman(祈禱師・霊能者!?)と民の信仰の対象となってきた鎮守です。

つまり天満宮のある地域には必ず!「田んぼ」が広がり、稲作が行われていたことがわかります!(※お稲荷さんも同様です、GoogleEarthモードでご覧ください。)

なので学問(文字文化)を広めるために"造営"された社(やしろ)ではありません!

つまり、後年の統治者(sovereign)が、shaman文化を駆逐?するために創作したfiction!にすぎません。

ついでに言えばこの時期(平安時代)に捏造された、各社寺の縁起には、fantasy(伝承・おとぎ話)をさらに改竄して、中央政権側(の特権階級;公家共)が、「民心をたぶらかす」ために、大胆に捏造!された神話が大多数を占めています!

第2目 恐れ多くも「お伊勢さん」も...

国粋主義者がよりどころとしている、天照坐皇大御神をお祭りしたとされる?伊勢神宮も、

天照坐皇大御神=邪馬台国の初代卑弥呼!であることは間違いないでしょうが...

元々卑弥呼自体が天守神に仕える自然崇拝の大巫女 shaman(祈禱師・霊能者!?)であり!

「人を神格化」するのは、東照大権現(家康)等、仏教の影響が入った後年の風習!で、伊勢神宮創建のころにはなかった風習で、「天照坐皇大御神=邪馬台国の初代卑弥呼!をお祭りしている」というのは、出雲大社・鹿島神宮等の大社の縁起とともに平安時代に創作(捏造)された縁起でしょう!

つまり、お伊勢さんは古事記に始まる「神代の昔fantasy(おとぎ話)」に登場する現人神天照坐皇大御神をお祀りしたのではなく!

弥生人の連邦国家?「那の倭国」連邦(邪馬台国)を構成していた小国(部族)の、shaman(祈禱師・霊能者!?)がお祀りした天守神の"御社(おやしろ)の総社"「日ノ本の鎮守"天守の神"」をお祀りしていると考えるのが妥当でしょう!

なので、東北大学の某教授の唱えるように、もう片方の勢力;縄文人の小国で構成されていた「蝦夷の倭国!」の氏神の総本社として、「鹿島神宮」があったのかもしれません?...

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公開:2022年12月21日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第7回ーTOPEpic『 四国は大和王権"連合"成立当初から重要メンバーだった 』ー第1回ー


 

 



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