狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第7回ー

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★第6節 冊封から解かれて後ろ盾を無くした朝廷に「取って代わった関東(蝦夷?)武士団!」

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前途した様に、倭国連邦の貴族化が進み、lord(領主)がa ruler(為政者)として直接任地に赴かず都に留まり、地方へ代官職(agent,)として目代(administrator )を差し向けるようになり、律令制が形骸化していったわけですが、

もともと律令制の下で地方に差し向けられていた代官職(agent,)や、地元で雇用されて"雇人"だった地方豪族(武家)が権力を強めて、律令制の下で国司(Governor)を担っていた公家(地方出身豪族の末裔:the exploited classes)の権威が有名無実化!してついに「律令制が崩壊!」したわけです。

別の見方をすれば、後ろ盾(宗主国中毒王朝"唐")を無くした政権(朝廷)が武家を抑えられないようになった!ともいえるわけです。

★第1項 関東の「武装集団・武家」の統領・源頼朝は"蝦夷"出身の反逆者?だった

弥生人政権の朝廷が、1189年に関東武士団の統領(Chief)頼朝を、「"征夷大将軍"に任じて19万!?もの大軍を率いて「奥州藤原氏」討伐!に向かわせた」ことになっていますが?...

頼朝と家臣団は、もともと関東武士団つまりは「縄文人・蝦夷の倭国」の末裔たち!です。

一連の鎌倉幕府による"政変"は、関東武士団(蝦夷)の弥生人政権・朝廷に対する"反逆行為"なのではないでしょうか?

つまりは、縄文人・蝦夷の血を引く頼朝が、再び「縄文人を結集!」

して、「蝦夷の倭国・鎌倉幕府!」を開幕して「那の倭国・弥生人朝廷」勢力と対峙したのでしょう。

後述するように、坂の上田村麻呂の東北制覇!以来、東日本・東北は「俘囚の長」(朝廷寝返り蝦夷)達がcontrol(支配)してきたわけです。

そして、「奥州の京」といわれた平泉で「公家同様の貴族(the exploited classes;特権階級)として平安文化!」を享受していたわけです!

彼(頼朝)が奥州討伐を思い立った!のは、対立する弟・義経を匿ったことを口実!に、「弥生人社会である(平安貴族の"朝廷")大和王権のTerritoryを、縄文人(蝦夷)が奪還!するために挙兵した!」と考えるほうが自然!です。

そうでなければ、代々"蝦夷の血"を継ぐ関東武士団が、手勢に加わるはずがありません!

第1目 奥州藤原氏は大和王権に毒された朝廷の手先「俘囚の長」(寝返り蝦夷!)だった

この頃になるとagent,として雇われたが目代が自ら開墾した「荘園の私有」も認められ、地方豪族(武装集団)の勢力が拡大しました。

当時はこのように"目代"や国司に対する中央政権の搾取階級・特権階級の公家や大王(おおきみ)の統率力は低下していました。

そして大和国の大王に服属する「俘囚の長」と呼ばれた、蝦夷の弥生人政権「寝返り組」の雇われ目代の権力(武力)は次第に強大になっていきました。

注※40)ここで疑問(矛盾)が生じるのが、"後"に朝廷側によって起草された公式戦記?(古文書)に記されていますが...19万!?もの大軍をどうやって、遠征・布陣させたか?!です。

英雄伝説大好きの歴史屋!と「鉄オタ」は何ら疑問を抱かないのでしょうが...

前九年の役(1051年→ 1062年)の源頼義か"三千ばかりの手兵"を行軍させれたのは、「多少のサバ読み(水増し)」を考慮しても納得の行く数値ですし、援軍の奥州藤原の援軍一万余!も、多少の水増しはあったとしても、移動距離(行軍距離)から考えて妥当!でしょう。

遠路はるばる19万人?!の大軍勢の行軍となると...

しかし、遠路はるばる19万!の大軍を、数週間もかけて遠征させるとなると、行軍に関するlogistics(兵站)の問題を抱えることとなります。

いくら、梅干し・干飯などの携帯食だとしても、19万人!?と、軍馬の消費する兵糧!は膨大な量!となります。

これだけの、食料と兵器(弓矢)を荷車の Logistics (兵站・車列・荷駄)でカバーしようとしても、当時のtraffic(往還網)では不可能です!

奈良時代には日乃本連合の Territory には立派な往還が整備されていたが...

奈良時代には日乃本連合Territoryに、幅の広い、排水設備の完備した立派な往還(早馬伝令路)が整備されて、通信(書状)は確保されていましたが...

とりあえず最短距離「直線」を優先したために、山野の起伏部でも直線で結び、斜面がきつく、とてもlogistics(兵站)荷駄(大八車、牛舎)に使用できるような代物ではありませんでした。

しかも、時代が下って12世紀にもなると往還道は完全に廃れて山野に戻っていました!

当時のtrafficでは不可能!

つまり19万人の話半分!の10万人の軍勢だとしても、実際の遠征(行軍)を考えてみると、当時のtraffic(往還路;街道)では不可能!だったのではないでしょうか!?

仮に?沿道の日ノ本連邦側の"荘園管理者(地頭)"の全面協力があったとしても...

奥州まで荘園(集落)が連なっているわけでもなく、長期に渡る遠征(行軍)は不可能!だったはずです。

しかもすべて頼朝"直参"の手勢・家臣団と、頼朝政権に賛同した関東武家集団で賄った???ことになっています。

更に当時の日乃本の全人口は、現在に比べて桁違いに少なかった!わけで、いくら関東全域から挙兵させたとしても、19万人もの大軍勢の記述は、後に戦記(古文書・行軍記)を編纂(捏造)した「勝者側の創作家!」の大法螺(ホラ)話!でしょう。

つまり現在の歴史屋!(国文学者・古文書研究家?)が論拠とする、

『"古文書"とはその程度の"きわめて信憑性に欠けた・考証されていない贋物・創作私文書が多くを占めているわけです。

★第2項 律令制に取って代わった武家法!

日本列島全域では、東北に限らず、新生・弥生人勢力と先住民・縄文人勢力の融和!は進んでいませんでした!

武家の統領・征夷大将軍?頼朝が、律令制(郡県制の国司)に代わる、任官制度(武家法)に下く守護・地頭の任官権!を弥生人政権・朝廷が認める条件!で征夷大将軍?!を引き受けたわけです。

その後鎌倉幕府を開き(1192年)武家法"を制定して、守護大名(Governor)や地頭(administrator ;管理者)(※51)等の新たな官吏職を任官して、旧来の律令制に基づく国司を排斥していった訳です。

参※51)在京の公家共から奪い取った荘園(manor)は、相変わらず個人(武力集団統領)の"所有物"で、農民も農奴のままで、荘園の付属品!として厳しく管理され、時には売買(譲渡)の対象物「可処分資産」として扱われていました。

将軍職の有名無実化!と武家法(法度)の崩壊で戦国時代!

中世においても、古代の律令制社会と同じように、中央政権の貴族化!(the exploited classes;特権階級化)が進行しました!

つまり、manor owner(元地頭、地方豪族 )の台頭で、地方自治!?が再び隆盛し、幕府の発言力(leadership;統率力)が無くなった!わけです。

所領を私有化するに至った地頭(荘園領主)は次第に、勢力拡大を図り、守護(Governor)の影響力を排除し、守護の存在をも脅かすような武装集団となりました!

そして中央政権とは乖離して、独自の自治を歩むようになったわけです。

鎌倉幕府の重鎮だった足利家

後の室町幕府を開いた足利尊氏は、鎌倉幕府の重鎮である源氏の系統つまりは「蝦夷の末裔」ですが、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府軍の大将を務めて以来、有名な元弘の乱(1331年)で総大将を引き受けたのをきっかけに正式上洛して室町幕府を起こすわけですが...

但し、室町時代後期になると、当初は朝廷(中央政権)を無視!していた足利氏も朝廷について!貴族化して行き、もはや地方を掌握できる力(leadership)は無くなり、群雄割拠する戦国時代(1467年応仁の乱→)に突入した!わけです。

★第3項 瀬戸内連合崩壊後の四国支配!体制の基礎を作った秀吉

信長暗殺事件!後に秀吉の野望は膨らみ、長曾我部氏が四国統一に乗り出した際には秀吉に対して「三好氏」からの救援要請はあったにせよ...

長曾我部氏の四国統一!後に、征服欲の強い秀吉が、四国制覇に乗り出したわけです。

ここで、大事なのは「民の期待・要望」で"四国遠征が行われた"のではなく、単なる彼の征服欲で四国遠征が行われた事実です。

事実、秀吉の四国制覇後には、長曾我部氏(とその家臣団)は土佐一国に押し戻され、伊予・讃岐・阿波各国は以前にもまして細分化されて秀吉家臣団に与えられ、

その後家康の江戸時代になり、家康所縁の譜代大名が再配置されて、各国間の番屋・関所での、一般人の通行は室町末期(戦国時代)以上に厳しく制限されるようになったわけです。

土佐と「士農工商」の概念・観念

封建社会とされる江戸時代の「士農工商」概念・観念はある意味、当時の四国の世情にあっていた部分もあります。

江戸時代300年を通じて山之内家が統治していた土佐藩では

幕末に多数の志士を輩出した土佐藩は、江戸時代300年を通じて、山之内家が統治していたわけですが...

土佐藩では、初めて"四国統一"を果たした旧領主長曾我部氏の"家臣"団も積極的に?登用していたわけです。

彼ら元長曾我部家臣団は、荘園を与えられた荘園主であると同時に、"豪農"!の一面も持っていたわけです。

更に下級武士は"兼業農家"も多かったわけです。

彼らが、四国全土統一を成し遂げたのは、"武力"だけではなく、稲作が渡来した古代国家連合の時代から続く「荘園(農奴)制度」を敷く領主から「農民を解放」して、

解放したdistrictで「人の往来(交易と転入・転出)の規制を"緩め"」て、地域経済(民の営み・暮らし向き)を活性化させたいった!からでしょう、

なのでその後の新政府の北海道開拓・屯田兵制度の採用時にも、元土佐藩士の抵抗が少なかったのもこのためです。

当時吉野川流域を牛耳っていた三好氏を討ち果たし四国統一を成し遂げた際にも、

兵(団)を動かし、陣を構えるには兵糧が必要となり、

本拠地土佐から長いlogistics(兵站路)が必要だったわけで、「沿道の協力」が無ければ、「兵を動かすことも、陣を張ることも」できなかったわけです。

★第4項 更に江戸時代太平の世?になると

第1目 江戸時代の入り組み支配と寺社領

時代が下って、江戸幕府が成立すると、各地の反乱を恐れた幕府は、難癖をつけては「外様大名」の改易転封(国替え)を行い、支配していた領地を「召し上げ」て幕府の直轄地(天領・旗本領)としたり、譜代大名に任せたわけです。

更に領地そのものを「集落単位の細かなterritory(所領)」に分けて、「旗本・譜代」のterritory(知行地)とする、「入り組み支配」といわれる、反乱防止策をとりました。

."民の営み暮らし向き"で決まる生活圏

利権・既得権益にしがみつく現在の為政者!は、歴史マニア(有識者・郷土史研究家?)を"擁して"、「古文書」にしたためられた記述を"錦の御旗"にして、現状の地方自治法(律令制度・郡県制)に下ずく自治体テリトリーを正当化しようとして必死の様ですが...

番屋(関所)は重要往還路(街道)にある

番屋(関所)は、traffic(交易)が盛んであった主要交易路!を、厳しく規制するための検問所として設けられたものです。

つまり逆説的には、太平の世?(江戸幕府)になった後も、「番屋があった」ということは重要なtraffic(往還)だった証(あかし)です。

又江戸時代になると、国政の中心江戸⇔天下の台所「なにわ」を結ぶ物流は西回り廻船(開運)が主流となり、同じように、瀬戸内運河?沿いを結ぶ瀬戸内航路。

なにわ⇔下関⇔長門⇔敦賀⇔加賀⇔富山⇔庄内⇔秋田⇔新潟⇔津軽⇔松前を結ぶ北回り廻船が物流(年貢米・海産物)の荷駄を引き受けていたわけです。

第2目 物流の発達で新たな権益が

造船技術の発達により、大型帆船が航行されるようになると、各地で、船主(運輸業者)と藩(家老)との癒着(贈賄)が問題となったわけです。

当時は、米・塩などの、田(水田・塩田)で収穫される作物?と関所・番屋などの通行に課金(年貢・課税徴収)していたので、「商いの利益」そのものに対する事業税は設けられてなく、

むしろ藩の財政を支える「大事な(融資を行ってくれる)金融業」の側面を持っていたわけです。

第3目 天下の台所と呼ばれた"なにわ"

この年貢の一大集積地が"なにわ"であり各藩の米蔵と、米問屋・両替商・等の豪商が集まって、いたので「天下の台所」と呼ばれていて、日本経済の中心地だったわけです。

つまり、封建制の概念・観念では、「民の営み・暮らし向き」は成立しなくなり、産業革命とは関係なく「資本経済」の時代となっていたわけです。

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公開:2022年12月21日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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