狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第6回ー

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★第5節 邪馬台国を引き継いだ大和王権も属国路線を踏襲!

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元祖「那の倭国」"邪馬台国"から派生した日乃本連合大和王国政権も同じ寄り合い所帯!でした...

お互いの「大人の事情(利害関係)」が一致した、瀬戸内運河?沿いの"部族(小国)"が、「那の倭国連合」を結成して、お互いのリソース(財力・兵力)を合わせて、緩やかな邪馬台国連合を形成していたわけです。

いわば現在のEUと同じような経済圏を基本に置いた国家連合です。

第0項 せいぜい古代・連邦国家?の元祖JA!倭国経済連合会

その時々の、加盟国(種族)のChief(若頭?)がお互いに「都合の良いchairman(組長)」を祭り上げて「大人の事情で所場争い(Territory抗争)」を繰り返していたわけです。

実態は嘗ての各region(地域)にあるcommunity(部族)のChief(部族長)が、互いに「自己の利権(大人の事情!)」を主張し合うfederation(経済・連合体)だったわけです。

ある意味民主的でもあり・ある意味「統一性にかけた連合体」だったわけです。

古代・倭国連邦(大和"調停?")、中世(鎌倉・室町幕府、戦国時代)、近世(江戸幕府)近代(明治新政府・大日本帝国)と繋がる ruler(為政者・権力者)共は、

「大王(おおきみ)をemperor(帝)に祭り上げて!」専制政治体制の統一国家を装った!わけです。

第1項 西暦607年の遣隋使に委ねた"国書・親書"で初めて「日乃本」宣言した大和王権

聖徳太子(大和国の大王)が、冊封国(属国!)として、宗主国である当時の中国統一王朝"髄"に対して、「臣下の礼」をとるために覇権された"正式"(※12)な!外交使節団としての朝貢(ちょうこう)使"(遣隋使)を派遣していた期間中(600年→618年)の、(何度目かの)遣隋使(西暦607年)に委ねた書簡(国書)で、「日乃本」宣言をして、その後白村江の戦い(663年10月)以来、途絶えていた"朝貢使"(遣唐使)が則天武后により8世紀初頭の701年に、約40年ぶりに再開された際に、宗主国の中国王朝"唐"に申請!されたとされています。

注※12)日本列島とユーラシア大陸とは、金印の印綬以前から(正式な使節団以外にも)民間人レベルでの交流があり、正式な"朝貢使"が途絶えていた?期間中も、前途した魏志倭人伝(3世紀末草稿)にも記されているように、大陸⇔日本列島の交流(交易)は続いていた!訳ですが、史実を示す"非公式"な記録(古文書・私文書)は残って(発見されて)いません!

第1目 当初の"朝貢使!"(遣隋使)が携えた国書は"木簡"!

遣隋使(朝貢使)"を始めた頃の国書は、木簡(※13)だったと思われます。

参※13)後述するように、遣隋使以前の日本列島には製紙技術が伝来しておらず!書簡は全て木簡にしたためられていました。

西暦607年の遣隋使が携えた国書で聖徳太子が行った日乃本宣言の狙いは...

つまり、大陸の専制国家・超大国(髄)を宗主国として認めることで、小国の日本列島を侵略から守り植民地!化させないように、「臣下の礼」をとって、先手を打ったのでしょう!

自治権をもった冊封国(さくほうこく)=属国として認めさせるために、日ノ本連合国の幹事国!大和国の大王(おおきみ)である、「自らが sovereign である統一国家!」を装った、外交策!であったわけです。

第2目 遣隋使以前の書簡は木簡・竹簡(ちっかん)の時代だった

非公式の民間レベルでは大陸と「蝦夷の倭国」との交流(交易)も...

非公式レベルでは大陸は「蝦夷の倭国」とも交流(交易)があり、銅製品・鉄器などと共に"漢字"も導入されていたと推測できます。

古代弥生時代初期から天平・奈良時代にかけて、中国の製紙技術(紀元前140年~87年に発明)は日本列島には伝来(7世紀頃までに輸入されだし、その後技術も伝来したといわれている)しておらず、それ以前の「文書は木簡・竹簡(ちっかん)が主流の時代」でした。

紙文書文化は遣隋使により伝来した!

つまり紙文書文化は遣隋使(600年→618年)により、倭国に持ち帰られた「髄王朝の国書」や仏教の経典により、初めて日本に伝わった!と考えるのが妥当でしょう

第3目 古事記・日本書紀は"おとぎ話!"にすぎない

紙伝来後に編纂された、わが国最古の古文書といわれている?古事記(712年編纂)は、

その後に編纂された、日本書紀(720年編纂)と同様に、仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(漢字)により、口頭伝承されてきた legend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集!にすぎないわけです!

これらは、autocracy(専制政治)を行っていた中国大陸・唐(618年→907年)の emperor(皇帝)に対して、遣唐使が携える"親書"の発行者である大王(おおきみ)が、『新生・日乃本の sovereign? である証(あかし)としての添付書類!(出所証明)として用いるために、家系図として書き表された代物』なのでしょうが...

※しかしながら。歴代の中国王朝の emperor(皇帝)(とその側近の学者・有識者)は当時バイブルとなっていた三国志の中の1節「魏志倭人伝」にある女帝?卑弥呼が率いる邪馬台国が日本列島の「真の自治政権」であったことを衆知していたので、天照大神神話には興味が無く、古事記は無視!されたわけです。

「卑弥呼の血統を継ぐ正当な後継者」を示す根拠は無く、つまりは所期の目的である対外的(外交上の)な、

日ノ本連合の sovereign?大王(おおきみ)を証明する、血統書・出生証明にもなら無かった!わけです。

「日本語ウィキペディア」で日本初の歴史書!???とされている古事記(712年編纂)は...

前途した様に、漢字伝来より数百年を経過した後に、日本初の叙事詩!(fiction!fantasy!)として古事記が起草されたのは、製紙技術の伝来と深く関係があった!わけです。

聖徳太子の、倭国宣言(西暦607年)から100年以上!たった和銅5年(712年)に(漢文で)編纂された古事記は、

前途した様に当時の大和連合国の"大王(おおきみ)"を正当化するために、取り巻き(支援者・後援会!)の搾取階級(政権)の一人の太安万侶が、面々と受け継がれてきた?口承・伝承神話!にヒントを得て!

大王の公式出生証明となる家系縁起を"創作!"して、「大和国の大王(おおきみ)に献上」した"私文書"にすぎません!

その後に編纂された日本書紀(720年編纂)と同様に、仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(3世紀には体系化されていた漢字)により、

口頭伝承されてきたlegend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集!にすぎないわけです。

前途した様に、漢字伝来迄、日本には文字が存在していなかった!ので、遣隋使以前の記録は、中華"叙事詩"に記された"噂話"と、伝承されてきた神話・伝説に下ずくfairy tale、fantasy(御伽噺・空想)であり、epic(叙事詩・英雄伝説)とすら言えない代物です。

なので、朝貢先の中華王朝には完全無視!されたのです。

その後の「大和政権の大王」も

事実その後も大和政権の歴代大王が、「髄が滅びた」後の唐(618年→907年)が滅ぶ907年まで幾度の朝貢使("遣唐使")を派遣して「臣下の礼」を取り続け、同時に大和政権が「日ノ本連邦」を代表する唯一の政権であることをアピールし続けた訳です。

第4目 髄の emperor が聖徳大使の国書に激怒した訳は...

髄の emperor(皇帝)が親書を受け取って激怒した理由は、「日之出国の天子より日の没する国の王へ...」の下りでは無く!。

冊封(従属)を求めてきた冊封国(さくほうこく)=属国のChief(酋長・首長)の分際!でありながら、主権を持つking(王)の様に、対等!の立場を主張したcontent!にあったのでしょう。

まあ、居合わせた通訳・学僧が、

『那の倭国は野蛮な"未開人が暮らす属国!"なので、漢字(漢文)を心得た人物がいない!?のでは...』とかなんとか「その場を繕って」くれたのでしょう。

前途した様に、唐が滅びるまで、"朝貢使"(遣唐使)による朝貢(配下の礼)をとり続けたので、その後中国を占領!した蒙古民族の元(1271年→1368年)の様に、日本列島に攻め入ることはなかった!のでしょう。

血統的(遺伝子的)にも、弥生人は漢民族に近く、縄文人の様に"元"と同じ流れをくむ「ウラルアルタイ系民族」とは異なり、漢民族の親類?として扱ってくれたのでしょう

現在大和朝廷として持ち上げられている"大和王国"は大和盆地をホームグランドとする「議長国(一領主・一部族)」にすぎなかったわけです。

つまり帝王が絶対権力を握る専制政治(君主)体制では無かった!わけです。

第2項 大化の改新と律令制

大和政権を牽引する大国?「大和王国」の大王(おおきみ)聖徳太子が、中国王朝"唐"の体制を模倣!して行った、制度改革?大化の改新(645年 → 650年)後に、唐(618年→907年)の制度を取り入れた律令制を、大宝律令(701年制定)として制度化(明文化)して、令制国(日乃本連邦のテリトリー分け)に繋げ、

(外交上)対外的には大王(おおきみ)を頂点とする統一国家「日乃本」を装ったわけですが...

第1目 大化の改新後に起こった白村江の戦いによる冊封解除!

白村江の戦い(663年10月)は、当時中国唐王朝(冊封国)陣営と戦っていた!"百済"と、(主権(外交権)も与えられていない無い)冊封国(属国!)の倭国が友好(外交)関係!を持ち共闘を組んで唐王朝(冊封国)陣営と交戦した紛争です!

結果宗主国"唐"の怒りを買い!冊封を解かれて!、唐王朝の敵国!に成って終った!訳です。

第1目 律令制は中華王朝"唐"の受け売り

"朝廷派"の歴史学者?は、21世紀の現在も引きずっている令制国を、もっともらしく正当性しますが...

律令制そのものが中国の受け売りで、倭国連合陣営が、日本列島制覇を前提に勝手に線引きした国割、いわば「絵にかいた餅」にしかすぎません!

現代風に言えば?大和政権版の植民地政策大綱です。

しかも、後述するように中華"唐"王朝に対して"復縁"(属国・親族復縁?)を求めるための取り繕い忠節の証(オベッカ)でもあったのでしょう...

大宝律令は「協同組合の組合規約!」程度

"大化の改新"で生まれた律令(法律)の多くは、前途した様に専制君主の charter(憲章)ではなく、「協同組合の組合規約程度の効力」しか持って無かったと憶測できます。

第2目 遣隋使・遣唐使に代表される外交面での必要性

中国大陸では髄が起こり

大陸では、強大な武装集団(軍隊)を要するemperor(大帝・帝王)が起こした専制国家が、広大な領域をnation(統一国家)として"統治"するようになってきていたわけです。

そこで、"海外"(天然のお濠・日本海の向こう)からの「大国の侵略」に抗するために、

「見かけ上!nation(統一国家・武力集団)」であることを示す必要があり、

倭国Federationのleader(座長)?である大和国の Chief(首長・大王)を擁立して、

「日本列島の sovereign(元首)」に"仕立て上げて"外交(折衝)を代表する representative(総代)としたわけです。

遣隋使・遣唐使の史実

前途した様に光武帝(BC6→西暦57年)時代の後漢(25年→西暦57年)に始まった「奴国」の"朝貢使"(使節団)以来、遣隋使(600年→618年)遣唐使(618年→907年)の長い"朝貢使"の歴史を通じて、"幻の邪馬台国"と、跡を継いだ大和政権が「奴国(倭国)を代表する唯一の政府」であることをアピールしたわけですが...

奴国(倭国)は単なる"一地方政権"

奴国は日本列島に多数あった政権の一にすぎず、多数の独立国?が存在していたことは、多くの中国古文書にも記されています。

更には、相手国(中華王朝)の拘り(権力体制)を逆手にとって nation(統一国家)であることをアピールする為に、

急遽!数々の律令を策定して中国を模した「帝(ミカド)を頂点とするピラミッド機構」を持つ nation(統一国家)を"装った!のでしょう...

元寇に対する対処は...

このように表現すると、王朝派の古文書研究者は、その後に起こった『2度の元寇(1274年・1281年)に対する、我が日ノ本の"団結"は...』

と反論するでしょうが、これとて、律令(法治国家)体制崩壊つまり nation(統一国家)としての日本連合崩壊!後に誕生した、封建・政権の鎌倉幕府(組)の"構成員" (-_-メ) である守護大名の「大人の事情(利害・思惑)が一致した!」

だけのことで、各守備隊(守護大名)が、互いの拠点を死守!しただけです。

当然各守備隊の「事前の軍議」は行われたでしょうが、執権時宗が「大本営」を立ち上げて、

「参謀本部」が作戦を指揮したわけでも何でもありません!

あくまでも、各守備隊(派兵隊)の「武将の自己責任に下づく自己判断」で戦われたわけです。

第3項 律令体制下でも完全な律令制(法治)は行われていなかった!

第1目 大王(おおきみ)は emperor では無く president だった

国粋学者・国文学者により創作された、義務教育の社会科教科書では、わが日ノ本は建国当初から絶対的な権力を持つemperor(帝)が支配するabsolute monarchism(絶対王政)の統一国家であった???かのように洗脳狂育されていますが...

国粋学者・国文学者により創作された、fiction(虚構)です。

那の倭国連合・日乃本連邦は、各地の小国(都市国家)の連合体つまりは連合国家・連邦だったわけで、

中華王朝の様な emperor は存在せず!

各都市国家(部族)のChief(酋長・首長・族長)が集まって協議する合議制!の"民主的!な連合国家"だったわけです。

つまり大宝律令当時の大王(おおきみ)は、

宗主国!「唐」に対する「外交上の方便」として、倭国の「国書に署名する」表むき(外交上)の sovereignで!

実態は president,representative(総代)に過ぎなかったのです。

第2目 大和朝廷では古来から「君臨すれども統治せず」が貫かれていた!

日本で(好き勝手し放題!の)絶対君主・独裁者だったのは、信長・秀吉や後述する藤原 純友などの一部の暴君(狂君)!だけでした。

律令制の世に戻そうとした明治新政府の「大日本帝国」も、議会制をとっており、天皇(※14)は"現人神"と祭り上げられて「君臨すれども統治せず」の立場におられました。

つまり、

日華事変から始まる一連の海外侵略政策!も、「時の政権権力者が、財怪に穴を叩かれて行った政策!」

にすぎず、開戦後は逃げ出し!あとを継いだ(実部隊である)"軍部"に全責任をおっ被せて「知らん振り」を決め込み、敗戦後に表舞台(政財怪)に復帰!して、日ノ本を今の様に"ダメにした!"わけです。

参※14)大和政権では、白村江の戦いで中国王朝"唐"と国交が断絶していた期間中の天武朝(天武天皇 在位673年3月20日→686年10月1日)の頃から、大王(おおきみ)に代わり「天皇」という称号が用いられだしました。

第3項 大宝律令(701年)は朝貢使(遣唐使)による"臣下の礼"再開の「詫び入れの手土産!」として制定された!

綺麗ごとでは!前途した様に白村江の戦いで中断されていた朝貢使(遣唐使)を再開させる際に、中国王朝"唐"に倭国→日本の国号変更がされたとされています。

第1目 抑々が「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視!した律令制

大宝律令(701年)発令により、布告?された律令制(郡県制)による線引き!は、合理的な根拠に乏しい!「民(たみ)の営み・暮らし向き」を無視"!した制度で、遣唐使再開の為に急遽作成された律令(法制度)でした!

うがった見方をすれば...

前途した様に、中国唐王朝(冊封国)陣営と戦っていた!"百済"と、主権(外交権)も与えられていない無い、冊封国(属国!)の倭国が友好(外交)関係!を持ち、しかも白村江の戦いで敵の百済に加担!したことで、怒りを買い!冊封を解かれ!唐王朝の敵国!に成って終った!訳です。

つまり、「弥生人の倭国」政権が「縄張り抗争!」を繰り広げていた敵、対峙する「縄文人の倭国」を侵略・征服する「大義名分(後ろ盾)」を無くしてしまった!わけです。

結果青銅器・鉄器などの武器輸入も途絶えた!

当然、青銅器・鉄器などの武器輸入も途絶え!国産化の模索をするわけですが...

国交断絶!"唐"からの技術者(僧侶)の来日は無くなり!、鉱山開発も一朝一夕には進まなくなり!。

逆に敵方「縄文人の倭国」に、(朝鮮半島を通じて)青銅器・鉄器が流れだすと、再び軍事力の優位性は保てなくなって行った!わけです。

そこで意を決して約40年ぶり!に、"唐"へ詫びを入れ!て、冊封国(属国!)として交易・交流(留学生受け入れと僧侶派遣(来日)の要請!)再開を求めた!訳です。

政権の方針表明「捕らぬ狸の皮算用」にすぎなかった大宝律令

今に続く!律令制・郡県制(&戸籍制度)は、古代・石器時代の後期に当たる飛鳥奈良時代に、西日本のCommunity,tribe(部族)が参加?して作ったFederation(自由交易連合)「倭国」連合!が、「日本列島完全制覇!後の未来図;基本構想!」として、郡県制(律令制)を取り入れて、大宝律令(701年制定)の大綱・原案が検討されて、参加部族長のconsensus(協心)を得たうえで、制度化(明文化・文書化)されたわけですが...

帰国留学生(僧侶)から得られた知識が元になった律令制度
前途した様に白村江の戦い(663年10月)まで続いていた、宗主国中国"唐"王朝への「臣下の礼」に当たる"朝貢使"(遣隋使(600年→618年)遣唐使(618年→907年)に参加した留学生;僧侶)が持ち帰った知識に基づいて、統一国家を装う!為の律令体制つくりとして、時の権力者(地方小国・都市国家・種族のChief)たちからconsensus(同意・賛同)を得た制度ですが...

郡県制については「倭国」連合陣営の未来構想、つまり「採らぬ狸の皮算用!」だったわけです。

不完全な形の律令制(郡県制)!

更に、律令制(郡県制)を完全導入したわけでは無く、当時は連邦を構成する小国・部族の Chief(首長・族長・酋長)が各自の Territory(領有地)を直接governing(統治)していたので、唐王朝の様に軍官による Governor(地方長官)任官制度は、見送られました!

任官による agent(代理人)である目代を、自らの Territory(所領)である manor (荘園)に差し向けるようになったのは、Chief 達が「都に定住」して the exploited classes(貴族・公家)となった平安期(784年→ 12世紀末)中期に当たる900年頃以降の事で、

王朝・貴族体制(ピラミッド型官吏制度)が確立してからだといわれています。

(※同時に皮肉なことですが、律令制のもう一方の柱;戸籍制度は崩壊しました!)

伝741年に仏教が国教となり諸国に国分寺が建立されましたが...

"朝貢使"(遣隋使;600年→618年、"遣唐使"、618年→907年)が続いていた飛鳥・奈良時代中に留学(僧侶)が帰国して、仏教が日本列島にも伝わった!訳です。

大化の改新から1世紀後!741年に仏教を国教として、諸国に国分寺が配置されて、

いわば廃仏毀釈とは逆の「自然崇拝棄却1神教」に方針を大転換?したわけです。

そして奈良の東大寺大仏(745年→752年)建立へと繋がるわけですが...

753年4月に行われた「日本初の"合同入信式!」"菩薩戒

753年12月20日に「仏舎利を携え来日に成功した唐僧鑑真」が、同年12月26日太宰府の観世音寺に戒壇院(かいだんいん)を設け、日本初の戒壇(僧侶認定)を行い、その後奈良の都に上京し、752年に大仏開眼した奈良の東大寺に入り。754年4月大仏殿に設けた戒壇で上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。(つまりキリスト教の"洗礼"に当たる仏教と入門が許されたわけです!)これが日本初の登壇授戒とされています。

第2目(きさき)は未だにShamanだった!

有名な話で「登壇授戒の時点ですら、御妃(おきさき)の政(まつりごと)に対する発言権は絶大なものがありました。」

つまり、この当時でさえ日本古来の自然崇拝・女性shaman(祈禱師・霊能者!?)(巫女・祈禱師)の祭事(まつりごと;政)関与当たり前!で、大王(天皇)の「御妃(おきさき)の政(まつりごと)に対する発言力」も(政権内でクーデターを引き起こすほど)大きかった!訳です。

自然崇拝・女系shaman文化はその後も...

青銅器・鉄器の国産化!とともに...

"朝貢使"(遣隋使;600年→618年、"遣唐使"、618年→907年)の開始の為に、鉄板を用いた外洋航路用の大型船が開発されたのは有名なお話ですが...

6世紀半ばの吉備地方...では、最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは...国内で調達が容易な砂鉄を原料とする...製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播した...日本の製鉄法...大陸や朝鮮半島での製鉄では円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた。なぜこのような独特の技法が編み出されたのかは解明されていない...

なお、近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が相次いで見つかっている。《日本語ウィキペディアより引用》

つまり考古学的には、西日本では渡来技術者(僧侶)による銅山開発とともに、銅製品(銅貨)や青銅器(農耕具)・武器の国産化も達成されて、更には後の刀工・日本刀にも繋がる「砂鉄による製鉄」も開始され、

世界的には珍しい「青銅器・鉄器併用の金石器併用時代」が訪れたわけです。

この当時でも日ノ本連邦(弥生人勢力圏)のTerritoryは、若狭湾以西の日本海・紀伊半島・瀬戸内沿いの西日本にとどまっていたために、東北・東日本の"蝦夷(エミシ)(縄文人)陣営とは一進一退を繰り返していたわけです。

全国的には自然崇拝女性 Shaman がまだまだ健在!だった

弥生人陣営・大和政権(朝廷)以外の縄文人社会(勢力圏)では、女性Shamanが政(まつりごと;祭事)を司る自然崇拝が続いていました。

前途した802年1月9日に征夷大将軍として東北に派遣された坂上田村麻呂がとらえた、Chief(酋長)の阿弖利爲(アテルイ)とその母のshaman盤具母禮(モレ)が平安京に連行されて、(表向きは)処刑!されたわけです。

つまり、"蝦夷(エミシ)民族(縄文人社会)は、伝統的な「女性shaman」が政(まつりごと)に関与するCommunity(部族社会)だったので(※11)、蝦夷 Community を崩壊!させて、部族の民を新たに大和政権が設営する「荘園の農奴!」として取り込むには、「女性shaman」を連行(隔離)する必要!があったわけです。

参※11)当サイト内関連記事 東北での"先住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史... はこちら

第3目 仏教の国教制定後の10世紀に入ってからも"式内社!?"が...

四国南部、九州南部、東北に国分寺とともに新たな式内社(927年時点でも)が造営されて設置された訳は、全国各地の新たな占領地・令制国"にはまだまだ「自然崇拝・シャーマン文化」が強く残っていたことを示すものです。

そして(3世紀から6世紀にかけて各地で盛んに造営されていた)前方後円墳(王墓)の禁止令!発令後も、各地に「土着王族(豪族)の墳墓」が造営されたのもこのためです。

土佐国(幡多郡)では戦国時代に突入した15世紀後期!でも

四国の土佐国(幡多郡)では、鎌倉幕府を起こした頼朝が律令制崩壊(1185年の武家の統領(源頼朝)による守護(旧国司)・地頭(旧荘園主)任免権成立)させて開闢した鎌倉幕府(1192年→1333年)を、継いだ室町幕府(1336年→1573年)の時代になっているにも関わらず、任地・幡多郡に国司!として赴いた(1468年以後)土佐一条氏が、荘園を構えた土佐・中村では、式内宮と国分寺の両方がある!わけです。

これは海路で蝦夷(縄文人文化圏)として結ばれた太平洋岸(※12)には、まだまだ自然崇拝女系shaman(祈禱師・霊能者!?)文化が、根強く残っていたことを物語っています。

一方、古墳(王族墳墓)があるということは、土佐一条氏が下向する室町時代よりずっと以前の古代古墳時代(奈良・明日香時代)から、瀬戸内の倭国連合と交流のある、稲作を取り入れた縄文人?の小国;manor(荘園)があったことを証明しています。

事実、大宝律令で土佐国としてのTerritory分け(律令制・郡県制度)が決められ、入植!が始まって以来、幡多郡は古代米の稲作に適する耕作地として、大和政権加盟国のChief(王族)のmanor( 荘園)が数多く設営されていたことが、冒頭で述べたように天満宮(豊穣の神)の多さからも、うかがい知れます。

参※12)鹿島(千葉)・熊野(紀伊半島)・土佐・薩摩・隼人そして日本海側の出雲・富山等の縄文人遺伝子zoneにも。

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公開:2022年12月21日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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