狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第5回ー

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★第4節 那の倭国連邦と製塩技術

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★第1項 日本海と太平洋に挟まれた古代「那の倭国連邦」

古代「那の倭国連邦の原動力となった瀬戸内海エリアは、四国山地、九州山地、中国山地、大峰・鈴鹿山系等の、"山地"で取り囲まれた地形となっています

つまり、太平洋、日本海、東シナ海でたっぷり水蒸気を含んだ気団が、九州の阿蘇山系、中国山地・近畿の大台ケ原から続く山系、そして四国山地とぶつかり降雨となり、これらに囲まれた瀬戸内海は降雨の少ない晴天の多い「地中海気候」となるわけです。

特に四国では、夏季の"南風"シーズンには、高峰が連なる3つの連峰で構成された四国山地によりさえぎられて、瀬戸内運河?沿いはほとんど降雨のない温暖で好天が続く「地中海気候」となるわけです。

なので、瀬戸内海沿いは古来から製塩が盛んだったわけです。

塩田以前の製法

諸説あるが、出土品や文献から西暦400年ころから平安時代(西暦1100年頃)までは、乾燥した海藻の表面の塩分を土器にくりかえし洗い出して(または、焼いた海藻の灰を海水に溶かして布で濾過し)鹹水をつくり、火で焚いて濃縮する方法が用いられていたと推定されている。《日本語ウィキペディアより引用

第2項 製塩に向いた瀬戸内沿岸と稲作に適した河川中流部

降雨が少なく製塩に向いた瀬戸内と温暖で豊富な水資源(河川)に恵まれ、稲作に適した?太平洋岸

前途した様に、古来(製塩法が確立されてなかった頃)より、温暖で雨の少ない「地中海気候?」の瀬戸内運河?沿いで、作られた「塩」と、温暖ではあっても雨量が多く製塩には適さない土佐湾、豊後水道沿いの土佐国間では、Salt road が開かれて、交易がおこなわれていたわけです。

特に、幡多郡と伊予を結ぶ四万十川水系の広見川・三間川が流れる、現県道31号沿いの街道は、塩などの重量物を輸送する"荷車"に適する比較的なだらかな、交易路だったわけです。

もちろん、豊後水道に面した"幡多郡"の港"宿毛"から、豊後水道を北上して豊予海峡を通る海路もあったわけですが...

宇和島を拠点とする海賊(水軍?)が「風待ち港」となる現・愛南町から八幡浜にまたがる豊後水道の制海権を握っていた!ので、大和政権となり「海賊を連邦に取り込む!」までは海路での交易は困難だったわけです。

古代倭国連合成立の一方の立役者九州北部

弥生人による元祖「那の倭国JA?」の立役者・幹事? Community(地域共同体)の本拠地となった、筑後川流域の筑紫平野、阿蘇、豊予海峡・豊後水道、周防灘沿いの西海道3国(筑紫・肥・豊)ですが...

文明開化後の炭鉱開発で名をはせた筑豊(遠賀川流域)ですが、筑豊の名が示す通り、古代から栄えていた要衝!だったわけです。

肥前・肥後、備前・備後はビンゴ(ピンポン)では無い!

最近某有名鉄道系Youtuber(※41)が、正体不明?の大スポンサーの指示?で、西海道3国(筑紫・肥・豊)を細分化した肥(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)間では、険しい九州山地(阿蘇連山)にさえぎられて、「民の交流がなかった?」かの様に吹聴していますが、そんな事実はありません!

四国の項でも述べたように、瀬戸内(豊)で"収穫?"される天日塩と、有明海沿岸(肥)収穫される米の交易は、古代倭国連邦の時代から行われていた交易路で、律令制で線引き(国割)された後も、重要な往還路として人の交流・物流は途絶えていませんでした!

※南九州薩麻(薩摩)国は大宝2年(702年)に律令化(明文化!

江戸時代までは3国(筑紫・肥・豊)間でも「民の営み・暮らし向き」に欠かせない「Salt road」による交易・交流は盛んに行われていたわけです。

つまり久大本線、豊肥本線、旧筑豊本線(原田線)などは、殖産(colliery (炭鉱))のためのexploitation railway(開拓鉄道)"殖産鉄道"では無く!古代からの重要路」に沿って敷設された重要なtraffic(往還路)、 railroad(鉄道)だったわけです。

参※41)当サイト内関連記事 今どきの 鉄道系Youtuber・鉄オタ・フリーター , ゴーストライター , 鉄道コラムニスト,マスコミとは?... はこちら。

第3項 共通言語日本語の始まりは?交易路 Salt road(塩の道) の発達で

しかしもとより、石器時代の古代縄文人・渡来混血民・弥生人との間で、共通言語「日本語」が確立?していたかどうかも明確にはわかっていません!

つまり、ウラルアルタイ系縄文人と、渡来人(漢民族)弥生人とでは、言語体系(単語・構文)も全く異なるわけです。

なので、交易があまりなかった縄文後期・弥生初期には、列島共通言語・日本語は、確立して無かったのではないでしょうか?

弥生人陣営の人口が増えだし、生活圏が広がりだして縄文人とも、交易(交流)をするようになると、必要に迫られて共通言語体系が生まれたのでしょう!

方言が強くなったのは

日本語が体系化?してからも、後の江戸幕府によって、作為的に community(地域共同体)が分断されて、各 district(藩)間の・交易が厳しく制限されたので、次第に「民の営み・暮らし向き」つまり交流が少なくなり・方言がきつく!になったのでしょう。

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公開:2022年12月21日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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