狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

Fantasy『 "邪馬台国"は都市国家の連合体で"都"など無かった!』ー第4回ー

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★第3節 渡来人(混血種)弥生人が作り出した「那の倭国」の潮流!

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とかく現在の日本史研究家(古文書研究家・国文学者!)は、「話をすり替えて」稲作伝来を主眼にした農耕文化と、縄文人の狩猟・採取文化の「対比・利害得失」を主眼に、統一国家「日ノ本」形成論を論じますが...

観点を変えれば日本建国史は、『縄文人の"自然崇拝・シャーマン口述・伝承文化"と新生・弥生人の"文字・宗教文化"鬩ぎあい

といえるのではないでしょうか...

参※)当サイト内関連記事 東北での"先住民・縄文人 えみし 民族"と"渡来系混血・弥生人 大和民族 "との攻防の歴史... はこちら。

第0項 日本史の常識?古代・中世・近世のFake!とは...

彼ら日本史創作家!(古文書愛好家)国文学者共が、古代としている時代は、律令制度が確立して、倭国連邦が機能していた頃と、それ以前の石器時代も含めて一括りにして古代と称しているわけですが...

第1目 日本土着民族・縄文人による石器時代・前古代!

前途した様に渡来人が漢字をもたらした石器時代の飛鳥・奈良時代に日本最初の古文書として、

古事記(712年)・日本書紀(720年)の"2大 fantasy"が legend(口承伝説!)に基いて書き起こされ

その中で「神代の時代」とされている時代が石器時代・前古代!と称されている訳です

第2目 Fake が定説・常識となり義務教育にもつながった日本史?

前途した様に、日本国の"生い立ち"をtrace(なぞる)する日本史創作家の国文学者!達は、

稲作と測量技術・土木技術(灌漑技術)、そして仏教と漢字を"伝来"させた、渡来人僧侶・技術者集団を受け入れた(ひきつれた)傀儡政権!「弥生人」の大和王権側の立場で見た、「上から目線!勝者の論理"仮説"」に則った「建国?のシナリオをぶち上げているわけですが...

『弥生人・渡来!以前から、数万年にも渡り日本列島に"定住"していたnative(土着)民族"縄文人"の文化(歴史)を否定している!わけでもあるわけです。

第3目 native japanese 縄文人

前途した様に、約1万2千年前に大陸と完全分離!された日本列島には、それ以前の約7万年前のころ、日本海(巨大湖)の南端と東端から、多くの動物とともに旧石器時代の現生人類ホモサピエンス(約20万年前に誕生)が渡来して、日本列島全域で「縄文人」として暮らしていたわけです。

第1項 渡来人集団・弥生人!が中心となった金石併用時代の古代!

これに対して、"西日本"に稲作を伝来させた「大陸(中国?)」と繋がりのある、渡来人集団"弥生人"の文化圏"が「那の倭国」の"始祖"となる訳です。

第1目 古代の文化・経済圏「那の倭国連邦」(大和調停?)

現在我が国では、「那の倭国」Federation ・大和王権(朝廷)は、瀬戸内海を国土軸?として、四方に勢力圏を広げていった結果、成立したnation(統一政権)「日乃本」という、征服者の「上から目線("常識")」のFakeが大勢(学派)を占めているわけです。

第2目 弥生人文化圏(生活圏)の日本列島制覇!・基本概念

古代における一つの区切りは、古代・中華王朝の冊封国(さくほうこく;属国)化!と、紙文化漢字・仏教文化)伝来で、大化の改新と大宝律令が一つの節目となった訳ですが...

明確な縄張りと統治の概念

階級制度(農奴!)を伴う明確なdistrict(縄張り)分けとlord(領主)の概念が「那の倭国」連合(大和"調停"政権)の concept でしょう。

そしてそれを支えた国土計画?のtrend,new waveの基幹をなすのが、渡来人が持ち込んだ以下の文化ではないでしょうか。

  • ●紙(文字・漢字)文化と、仏教思想
  • ●土木(河川改修)技術による"治水"conceptと、稲作(農耕)文化
文字文化(漢字)と仏教思想

根幹をなす文字(漢字)と仏教思想の伝来が、古代を形作る「那の倭国」連合国(大和"調停"政権)を成立させた、原動力でしょう!

それまでの女性 shaman (巫女)のお告げに下づく政(まつりごと)を基本とした、「自然崇拝」の自然発生的 Community(生活圏・集団)から、

文字による記述・明文化(文書)」による「lord(領主)の territory (利権範囲)」概念に基づく、階級文化圏・生活圏を基本とする、律令体制・郡県制に下ずくdistrict(令制国)体制に、移行していった訳です。

稲作と治水(河川改修)技術

大陸から伝来した稲作技術は、同時に治水・利水(灌漑技術)に繋がる土木技術(測量技術)と、

農耕を支える青銅器・鉄器も伝来させたわけです。

この青銅器・鉄器などの精錬技術、と土木(測量)技術のおかげで、倭国連合国(大和王権)が、各地に荘園(manor,plantation)を構えて、territory(実効支配地)を広げていけたのです。

(※但し、稲作は、弥生人傀儡政権の"那の倭国(連合)"だけではなく、縄文人の"蝦夷の倭国"にも伝わっており、ということは、青銅器・鉄器もほぼ同時期に当時絶対多数派であった(とされる)、「蝦夷の倭国」Region(漠然とした地方・一帯)にも伝わって!同時に渡来技術者が漢字も伝えていた!はずです。

つまり、その時点では、「両勢力が対等」というよりも、むしろ「蝦夷の倭国」のほうが人口で優位に立っていたのではないでしょうか?

但し「那の倭国連合」が石器時代から鼻先一つ飛び出せたのは...

Googl Mapをご覧の様に、"棚田・古墳・城跡・鉱山"には強い相関関係があります!

例えば九州では...

最後まで、渡来人・弥生人の傀儡政権!"那の倭国"Federation と激しく攻防を繰り広げていた partisan 勢力薩摩・隼人両国では、那の倭国連邦Federation の特徴である大規模"墳墓"は見つかっていません?

更にBoundary(境界)の非武装地帯に設けられた多くの砦跡(城跡)が、抵抗運動が激しかったことを物語っています

但し、城跡(砦跡)は必ずしも、古代に設けられたわけではなく、その後の中世・近世に為政者が"居城"(首都)として新築したものもありますが、いずれにせよ時代とともに「幾多の攻防」が繰り広げられた痕跡であることは間違いありません

青銅器・鉄器製造技術の渡来

有名な別子銅山(現新居浜市)は後年の江戸時代(1690年→)に発見されて鉱山開発が始まって、古代には発見されていなかったわけですが...

701年大宝律令で鋳造された和同開珎と銅国産化

古代・瀬戸内運河?沿いに、展開していた「那の倭国」Federation 時代(明日香・奈良時代・平安)の黎明期には、

瀬戸内Federation;大和調停政権の territory(実効支配地)で流通していた(青)銅器、や青銅刀、銅銭、などの大部分の銅製品は宗主国中華王朝(ユーラシア大陸)からの輸入製品でした。

前途した様に、稲作技術の伝承の為に来日した多くの渡来人技術者・僧侶の中には、古墳時代を象徴する埴輪などの土器を作る土師(はじ)とともに,「鉱山技術者・冶金技術者」も含まれていたわけです。

「那の倭国Federation」は銅山開発!で先鞭を...

「大化の改新(645年)から701年の大宝律令発令」前後に、弥生人陣営「那の倭国Federation」では、渡来技術者(僧侶・学者)により「多くの銅山」が発見・開発されて、708年6月3日(和銅元年5月11日)の和同開珎(わどうかいちん)銭貨の発行に繋がり、

(国分寺制定に伴う)奈良の大仏建立(745年→752年)につながる、大量の銅と、金箔に用いる大量の"金"の完全国産化!が達成されたわけです。

長門国で相次いで鉱脈発見

600年代(7世紀)ごろには長門の国(現山口県)長登銅山で銅が産出されています。

更に松崎銅山(現萩市) 大陸文化の入り口長門国の松崎八幡宮(650年、萩市)が建立されていて、それ以前から銅山があったとされています。さらに日本最初の鋳銭所がおかれていたとされています。

更に桜郷銅山跡(山口県山口市)が開発されて銅の国産化!が達成されています。

更に百年後の807年(大同2年)には吹屋銅山(岡山県)が開鉱(抗)されて、本格的な青銅器・鉄器農耕時代に入るわけです。

日本では同時に訪れ(渡来)た製鉄技術

前途した、光武帝の後漢(25年→西暦57年)時代から、遣隋使(600年→618年)、遣唐使(618年→907年)と続く長い"朝貢使"(使節団)の「臣下の礼」「朝貢」を支えた"外洋航路"用大型船。

特に遣隋使の実現に一役買った「欠かせない技術」に製鉄による鉄板と犬釘があげられますが...

日本では、前途した銅・青銅器の国産化(銅山開発)と同時に、砂鉄によるたたら製鉄の技術ももたらされたわけです。

そしてこの技術は、後年の鎌倉武士の強さの秘密の一つ"日本刀"にもつながるわけです。

6世紀半ばの吉備地方に遡る...最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは...国内で調達が容易な砂鉄を原料とする...製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播した...日本の製鉄法は、炉の形状が特異で...大陸や朝鮮半島での製鉄では円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた...近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が相次いで見つかっている。《日本語ウィキペディアより引用

これらの技術は、正式な"朝貢使"(使節団)が途絶えていた期間中も、体系化(完成)された漢字とともに、渡来技術者により伝えられ」その後「日本列島独自の進化を遂げた!」と考えられています。

後れを取った「蝦夷の倭国」

一方、仏教布教(導入)にあまり熱心ではなく、したがって僧侶(技術者・学者)の受け入れに消極的?だった「蝦夷の倭国」側では鉱山(銅・錫・鉛)などの鉱山開発(発見)が遅れ「金属の国産化」が遅れたのが致命的だったのではないでしょうか。

つまり、自然崇拝の女性shaman(司祭・祈禱師・霊能者!?)とChief(酋長)による民主的な社会では、生産性もあまり向上し無く、相変わらず、狩猟・採取と稲作の兼業農家!?文化が存続していたのでしょう。

第3目 傀儡政権・大和王権の武器は「飴(稲作)と鞭(服従)

「邪馬台国→日乃本」と続く傀儡政権!弥生人の「那の倭国 Federation」は、縄文人の生息域?「蝦夷の倭国」Region に、勢力圏を広めるために、食料の安定確保に通じるである稲作技術(高度な灌漑技術と、(身分制度・農奴)政策をとったわけです。

つまり、採取・狩猟民族だった縄文人に測量技術(灌漑技術)を伝授する代わりに、中央政権への服従(隷属)を迫ったわけです。

それまで女性shaman(祈禱師・霊能者!?)のお告げに従い、Chief(酋長)を中心に、民主的!に暮らしていた旧石器人(縄文人)が、食料(稲)に吊り上げられて傀儡政権・大和王権 Federation の公家(搾取階級)のmanor (荘園)に隷属する付属品農奴!にされたわけです。

★第2項 国割・国分けの線引き(Boundary)には「民の営み・暮らし向き」が重要!

国割(行政区分)の線引き(Boundary)には「民の営み・暮らし向き」の反映が大事な要素となります!

つまり、人口が増えだすと、自給自足だけでは「民の営み・暮らし向き」が成立できなくなります。

狩猟・採取民族の縄文人にしろ、農耕専業の弥生人にしろ、部族の Territory 内だけでは(自給自足)賄え切れずに、♥traffic(交易)が必要となってきます。

特に、岩塩がほとんど産出しないわが日ノ本では、"塩"の入手が問題となります。

中世・室町時代後期の乱世!の時代に、「武田信玄が遠江国に南下して駿河湾に出たがった」のはまさにLogistics (兵站)・Salt road(塩の道)確保のためでした。

第3項 東北での"柵"の一進一退は

前途した様に、後漢の金印・印綬以来、「超大国中華王朝から"日本列島を代表する政権"であるお墨付き」を得た傀儡政権「大和王権 Federation 」は、(朝鮮半島から逃げ延びた!職工(土師、鍛冶職人)を別にして)技術者・僧侶・学者等の留学生・渡来人を独占して文明開化!を行い、東日本・東北の「蝦夷の倭国」勢力圏に対する宗主国(中華王朝)の鎖国により、「蝦夷の倭国」の技術停滞!を誘発させて優勢に立ち、「蝦夷の勢力圏」に分布する「部族を"虱潰し"に陥落!させて、次第にTerritory(実効支配地)を拡大して、じわじわと冊(boundary)=Frontierの北限を広げていった訳です。

第1目 当時の縄文人・蝦夷民族とは

以下の特質をもちわせていたのではないでしょうか...

  • ●一つ)縄文人勢力「蝦夷の倭国」陣営にも文字(漢字)仏教文化は伝来していたが受け入れを拒んだ!
  • ●一つ)狩猟・採取を掛け持つ持つ女性shaman(祈禱師)による自然崇拝部を守り継ぐ兼業農民!?だった。
  • ●原始Democracy(民主主義)に下ずく各々が独立したTribe;部族同士が共存・共栄を図る無政府状態だった!

前途したように、「蝦夷の勢力圏」は部族の共存共栄するCountry(国土)だったので、大和王権 Federation の様なNation(organization);統一政府(政権)は無かった!わけです。

つまり、大和王権の侵略軍!に対抗して Country(国土)を守れる体制・連合軍は無かった!わけです。

第2目 稲の品種改良が進まないと気候は克服できない!

当時の(農耕具の技術革新"石器→鉄刃併用木質農機"だけに頼る)品種改良が進んでいない古代米による稲作は、飢餓を引き起こす天変地異(干ばつ・冷害)までもは防ぎようが無かった!わけです。

なので、8世紀末から9世紀初頭にかけて、現秋田県を,めぐるFrontier(柵)の一進一退攻防戦が起こり、田村麻呂の陸奥派兵に繋がり、蝦夷(エミシ)勢力PartisanのLeader公阿弖利爲(アテルイ)とshaman(祈禱師・霊能者!?)盤具公母礼(モレ)の反乱軍?500余人の討伐に繋がった訳です。

ここで、大事なのは、「反乱に至った原因は、天変地異(気候変動)による飢饉・飢饉ではなかったか?」という点です。

前途した様に、「稲の品種改良」が進んでいない当時は、いくら大陸渡来の陸稲系の古代米でも...

干ばつ、冷害には弱く!、何らかの天変地異(火山噴火?)などで、気候が変化して温暖でなくなると、稲作zone(地域)が大打撃を受けて、荘園が撤退して、柵が後退!して、代わって狩猟・採取と稲作を兼業!していた蝦夷族が勢力権を奪還!したのでしょう...

集落跡(遺跡)の発掘調査が待たれる!

集落跡(遺跡)の発掘調査が行われれば判明する史実ですが...

802年1月9日の田村麻呂の陸奥派兵は、前世紀末から続いた火山活動?などによる「気候の小変動寒冷化による凶作で「稲作を主とする荘園」が放棄!されて、柵が後退(撤退)していたのではないでしょうか!?...

9世紀初頭になり、気候が"小康状態"となったので、再び大和王権 Federation が荘園奪還(再開発!に乗り出すために、田村麻呂を征夷大将軍???に任命し、侵略軍!を派兵して一気に Territory 奪取に乗り出し、冊;Frontierを本州末端まで北上させたのでしょう!

但しこの後も、飢饉が原因と考えられる「Partisan 行動」が度々繰り返されて、その都度、大和王権 Federation が討伐軍を編成して、彼の地への遠征が繰り返されたのでしょう。

第4項 元祖日ノ本連合国のTerritoryは

GooglMapが教えてくれる那の倭国 Federation (organization)日ノ本政権の足跡

第1目 ポイントは天神様・御稲荷様、砦跡と古墳!

前途した様に歴史屋!はロマン(英雄)を求めて、"古文書"(記述)に拘りますが...

実際(考古学的には)天満宮・八幡宮!城跡(砦跡)と古墳(地方王族墳墓)が重要ではないでしょうか...

天満宮・八幡宮が存在するzoneは稲作地帯!

前途した天満宮・八幡宮が散在するzone(地域)では稲作が!行われていたわけです。

城跡・砦跡が多いのは重要拠点・重要街道だった証!

砦跡が多い都市・街道は、那の倭国 Federation のlord(領主)にとって、死守!すべき重要拠点(都市)・重要街道だったということです。

古墳

王族の墳墓・古墳自体は全国に散見されていて、日本列島ほぼ全域にTribe;部族・小国?が存在していたことがうかがえます!

Lord(領主)の墳墓・古墳があるということは、渡来人の"傀儡"ではない、地元部族のChief(酋長・首長)とshaman(祈禱師)が居た!いうことで、中央政権の公家(搾取階級・官吏)や寺社のmanor,(荘園)ではなかった!ということです。

特に西日本では、当初から渡来人集団(弥生人)が広めた"稲作"文化があり、「那の倭国」「邪馬台国Federation」の"発起人達 Chief(族長)の領地"であった可能性が高いわけです。

Governor(目代)も含めてChief(酋長) が統治していた Zone には 大和王権 organization(政権) のofficer(役員)である中央の豪族たちの大墳墓、特に前方後円墳はあまり見受けられません

前方後円墳の北限

前方後円墳は(古墳・墳墓は)日本列島に広く分布し、その数は約4,800基、あるいは約5,200基ともいわれる。前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道・青森県・秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎない。《日本語ウィキペディアより引用

大和王権 Federation陣営か・縄文人勢力圏か判断が難しい茨木県(常陸国)千葉(上総・下総国」)・埼玉!(上野・下野国)にも、Lord;領主の陵墓;古墳(しかも前方後円墳!)が多く確認されています。

ということは、もともと地元部族のChief(酋長・首長・王)出身のLord(領主)がいた?ことになりますが、

某・東北大学教授の説の通り、鹿島神宮信仰を絆に団結した?縄文人文化圏「蝦夷の倭国」Federationが存在した???とは...

そして彼らの Territory(実効支配地)であったかどうかは???...

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公開:2022年12月21日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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