狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

連載 Epic 『 東北に於ける先住民"蝦夷"と征服者"弥生人"の鬩ぎ合いの歴史!』ー第4回ー

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★第3節 日乃本 Federation の「侵略と植民地政策!」

★第1項 中華王朝に「臣下の礼」をとっていた"倭国 Federation!"

前途した様に、稲作と文字(漢字)をもたらした大陸系渡来人との混血・弥生人はその生い立ち故に、中国数千年の歴史の恐ろしさ?を心得ており、「臣下の礼」を取り、遣隋使(600年~618年)の18年間に)そして「その後618年に隋が滅び唐が建った」のちも、907年に唐が滅ぶまで遣唐使を派遣し「臣下の礼」を取り続け、同時に大和王権 Federation が倭国(後の日乃本)を代表する「唯一の Nation(政権)」であることをアピールし続けた訳です。

第1目 日乃本と改めたのは7世紀!

倭国が大和連邦政権によって国号を「日本」と改めたのは、前途した様に聖徳太子が朝貢の為の遣隋使派遣を始めてのちの607年の遣隋使に所持させた「那の倭国金印」を押した書簡(国書)に、日出国「日ノ本」を名乗ったのが最初とされています。

その後、派遣した学生(僧侶)が持ち帰った書簡・資料で「隋の律令制」を学び、大化の改新(645年 → 650年)を行い大宝律令(701年制定)を制定して、「国家の体裁」を繕い、連れ帰った僧侶(技術者)により、銅山開発が成功して、国産銅!による国産銭貨(銅銭)の発行(※30)和同開珎に繋がり、その後の(国分寺・国教制定に伴う)奈良の大仏(745年→752年)建立につながる、大量の銅と、金箔に用いる大量の"金"完全国産化!が達成されたわけです。

※参30)、和同開珎以前の通貨!、青銅器製武器・農機具は中国から輸入されていました!

第2目 「臣下の礼」が隋・唐の日本侵略を未然に防いでいた!

すなわち軍事力に物を言わせた「強大な中国」から、「中国の属国」になることで「ちっぽけな日本列島の独立」を守っていたことになる訳です。

其の後鎌倉時代に、中華王朝が蒙古に征服されて占拠されて元が誕生して、2度の来襲を受けることとなるのは諸兄ご存知の通り。

第2項 弥生人政権"日乃本 Federation "の「蝦夷の倭国」東北への侵略は...

大陸文明(中国文明)文化を見習った日乃本Federation(大和王権)は、先住民(縄文人)蝦夷民族の Territory だった東北一帯を侵略して、一進一退を繰り返しながらも、次々と平定(征服)しTerritoryとしていった訳です。

第1目 8世紀に一進一退を繰り返した日乃本 Federation

780年には出羽国府が秋田に移されましたが、蝦夷(エミシ)民族(日ノ本連邦に属さない蝦夷:縄文人の末裔?部族)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び南方に敗退することに...

気候変動による凶作も影響を?

日本史創作家?は英雄伝説を好み、武力抗争(出入り?)の記述のみを取り上げますが...

「地学的に地層を分析」すればこの間に何度も冷害・飢饉が生じていたことが証明できます!

武力だけではなく自然災害で、「日ノ本Federationが撤退」した可能性も非常(非情!)に高い!訳です

つまり、再び気候が安定?(小康状態)したので田村麻呂の派兵となったのでしょう。

第2目 阿弖利爲(アテルイ)は処刑されていない!?

前途した様に

802年1月9日の田村麻呂の陸奥派兵

蝦夷の自治区・陸奥を平定(制服)するための拠点として、陸奥国胆沢城を造営するために田村麻呂が陸奥国に派遣されました。

日乃本 Federation 側の記録文書『日本紀略』では、同年4月15日の報告として、蝦夷(エミシ)部族のリーダーである公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したと記されていますが...

母盤具公母礼(モレ)まで拉致された訳は

母盤具公母礼(モレ)まで拉致された訳は、彼女が阿弖利爲酋長率いる部族500人の、中心指導者「女性シャーマン」だったに他なりません!

つまり、指導者2人を捕縛すれば、残りの部族は求心力を持つLeader(首領)を失った有象無象に民で、日ノ本 Federation の植民地「荘園」の労力"農奴"!として活用できるわけです。

その後"都に公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が連行"される! 

2人は田村麻呂に連行されて7月10日に平安京に到着、田村麻呂の助命嘆願にも拘わらづ、

当時の朝廷官吏荘園主の公家)共の決定により、8月13日にChief(族長)アテルイとその実母つまり女性シャーマンの大巫女モレは「"河内国"処刑された?」と朝廷の公式記録(古文書)には記されてますが...確固たる証拠(阿弖流為塚?)は発見されていません。

第3目 阿弖利爲と盤具公母礼は熊野に逃がされた!?

数多くの状況証拠

伝・阿弖利爲の」首塚は、旧河内国の枚方(ひらかた)市にあるそうですが...

確固たる証拠(人骨)は見つかって(発掘)いません!

  • ●グレーのマークは城跡・砦跡・関所跡
  • ●旅人マークは古代:日乃本成立(伝741年)以前からある峠道
  • ●紫ランドマークは古墳(王墓)
  • ●緑色のさざ波マークは棚田
実は容易い熊野落ち

確固たる証拠はありませんが、多くの状況証拠が...

公阿弖利爲と盤具公母礼は大和国南部の非武装地帯!を経由して、同朋の暮らす熊野に難を逃れたのではないでしょうか?。

熊野国に至る峠道はさほど険しくない!

GoogleMapを拡大するとお分かりいただけるはずですが...

熊野古道の出屋敷峠(標高660m)は現R168号線沿いの旧天辻峠(標高700m)に至る街道と比べて意外と険しくありません

更に、旧大塔村(現五条市内!)、十津川村一帯は、自給自足の農地程度で、年貢を納められるような、荘園(農耕地)を持つ城跡や砦跡はほぼほ0で、江戸幕府成立以降に街道警護(関所)の為に築城されたにすぎず、802年当時はマタギが暮らす"非武装地帯!"であり、当時の国境(旧大塔村と旧五条市)を過ぎ、旧本宮町(現田辺市)まで「修験者?またはマタギ」の案内で、落ち延びれば、同朋の住む熊野国に落ち延びれたわけです!

阿弖利爲と盤具公母礼はもともと東北マタギ!一族

更にもともと東北のマタギである阿弖利爲と盤具公母礼は、獣肉(狩猟)や・木の実・キノコ(採取)などといった、山里の暮らしには慣れており、案内人(マタギ・修験者)さえいれば、難なく熊野の同朋の基へ落ち延びれたわけです。

熊野国は、国主・荘園主ともに地元の代理人!

更に、大宝律令で熊野国になってはいたものの、熊野は完全には日乃本 Federation には加入しておらず!

荘園主もほとんどが地元出身で、都の公家共とは違い「自治を守っていた!わけです。

河内国には、縄文人が多い!

最近のDNA調査(分析)で河内には縄文人が多く住んでいたことがわかっています!

理由は簡単で、当時は(奈良盆地と違って)大阪平野(河内平野)の大部分は河内湖と湿地帯が占め!

陸稲(りくとう)に近い古代米を、作付け出来る耕作地は、河内国では生駒山地の山麓南部では中百舌鳥古市古墳群のある羽曳野丘陵泉北丘陵、そして楠木正成で有名な金剛山地や、和泉山脈の山麓にある谷合にしかなく、日乃本Federation(大和王権)の貴族たちの荘園は、奈良盆地に集中していた!からです。

更に、生駒山地は嘗て鉱山(銅山)が開かれていた地帯でもあり、さらには大勢の「河内マタギ」も暮らしていた山系でもあります。

骨相学的にも...

冒頭で述べたように、小生(の家系)は、「縄文人」の特徴を多く有しています!

祖父、親父とその兄弟(叔父・叔母)は、京都・奈良辺りの弥生人(渡来人)系とは異なり、鼻が高く(立派)で、骨格がしっかりしていて、「がたい」が立派で、美人・美男子!が多い家系です。

更に、実母は蜂須賀家の(地元出身)家臣つまり・縄文人の家系です。

なので、小生も...

わが愚妻は安倍貞任の子孫

更に・わが愚妻は安倍貞任の子孫で、蝦夷の末裔でもあります。

しかも、ご近所から亡き実母によく似ている"!といわれます。

決して高くはありませんが立派なお鼻の持ち主です!

まあ「類は友を呼ぶ」の例え通り、お互いに何か惹かれるところがあったのでしょう!

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公開:2018年8月 5日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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