狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

連載 Epic 『 東北に於ける先住民"蝦夷"と征服者"弥生人"の鬩ぎ合いの歴史!』ー第2回ー

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★第1節 縄文人・"蝦夷(エミシ)民族こそ日本列島の Native People

アフリカ大陸で旧石器時代の現生人類ホモサピエンスが誕生したのが約20万年前!といわれていますが...

第1項 日本列島誕生より古い!先住民・縄文人(蝦夷民族)の起源

日本列島が、ユーラシア大陸から完全分離する前、南端と東端で日本海(巨大湖)を挟んで大陸と繋がっていた約7万年前に我々の先祖縄文人が、

(マンモスなどの多くの動物を追い求めて北上してきた)現生人類の亜流「ウラルアルタイ系民族」が移り住み、現在の日本列島全域でnative people「縄文人」蝦夷として暮らしだした!わけです

そして今から約1万2千年前に、日本列島がプレート移動でユーラシア大陸と分離されて、(中央にあった巨大湖が)両端で太平洋と繋がり!日本海となって大陸と分断されて日本列島が形成された!といわれています。

つまり日本列島の形成より約6万年も前からnative people「縄文人」蝦夷暮らしていた!訳です。

第1目 自然崇拝"シャーマン伝承文化に基づいた縄文人"蝦夷(エミシ)民族

今からおよそ1万2000年前日本列島が形成(完全分離)された頃に、土器の製作と定住生活も始り、縄文時代となったわけです。

つまり現在の東北各地や、熊野、九州南端の日向・薩摩・隼人(※100)等の日本列島全域に縄文人(蝦夷)による縄文・文化が芽生えていたわけです。

※参100)当サイト関連記事 鹿児島市《 タウン・ヒストリア 》"質実剛健・時代の先取り・エコノミー"が薩摩・隼人の伝統はこちら。

第2目 太平洋戦争中は旧軍部により「神代」(かみよ)の遺跡」として扱われたストーン・サークル

戦前の1931年(昭和6年)に秋田県鹿角市十和田大湯で「古代・縄文時代後期(金石併用時代)」の遺跡であるストーン・サークル(大湯環状列石・石籬;せきり)が、発見されました。

敗戦後の1946年に発掘調査が行われ、1951年(昭和26年)(※11)と翌年の1952年(昭和27年)には国家事業(文化財保護委員会)として発掘調査が行われましたが...

同規模の2つの環状列石で構成された遺跡群で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡です。

やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルもあり、太平洋戦争中は旧大日本帝国軍部により「神話集"古事記・日本書紀」に記された「神代(かみよ)の時代?」の遺跡として扱われていました。

※11)いみじくも小生の生まれた年!です。

第2項 稲作を携えて渡来した新生・弥生人

渡来当初は少数派だった稲作を携えて渡来した新生・弥生人は、稲作以外に"風土病"も持ち込み、風土病に対する免疫が無かった縄文人の数を減らしたのも国文学者・国粋主義者たちが触れない史実でしょう。

そして、彼らは大陸王朝の庇護(バックアップ)を受けた"傀儡政権"として、「冊封国(さくほうこく)=属国」「那の倭国」連合の道を歩みだし、次第に縄文人の「蝦夷の倭国」を侵略・制覇していくわけです。

第1目 世界史(世界の外交史)に初めて登場する日本列島「那の倭国」は

後述する様に西暦607年の遣隋使に委ねた書簡(国書)で「那の倭国」を代表する大王(おおきみ)?として「日乃本宣下」を行ったわけですが...

中国最初の統一王朝・後漢(25年→220年)の光武帝(BC6→西暦57年)が皇帝在任中(西暦25→57年)に、「那の倭国」の元首?卑弥呼(女性シャーマン・祈禱師)に「属国・冊封国(さくほうこく)」として「那の倭国」を認証!した"認証印"として金印(属国承認印)を印綬したわけです。

なのでそれ以降は"ユーラシア大陸"の歴代の皇帝・知識人の間では、三国志の一節「魏志倭人伝」にも記述されている"中国統一王朝の属国"として、那の倭国「邪馬台国連合!」が広く認知」されていたわけです!

魏志倭人伝とは...

魏志倭人伝は3世紀末(280年(呉の滅亡)→297年(陳寿の没年)の間)西晋の陳寿により草稿された伝承『三国志』の中の1節。ただし記述された3世紀ごろの邪馬台国連邦!の情報を基にしており、金印を領布した西暦25年→57年当時の、邪馬台国の状況を表す古文書ではありません!

さらに『三国志』そのものが...

さらに『三国志』そのものが、後漢(25年→220年)から西晋王朝(265年→316年)建国迄の歴史を、伝承・や古文書にヒントを得て「創作された一大叙事詩!」であり、

古事記・日本書紀同様に著作者「陳寿」の「個人的"解釈・創作"」が随所にちりばめられた(歴史資料とはかけ離れた)fiction・創作物・fantasy(おとぎ話)と解釈するほうが妥当な古文書です。

参※)当サイト内関連記事 邪馬台国は地方国家ではなく女系シャーマン率いる共和国の寄り合い所帯 「那の倭国」連邦だった! はこちら。

いずれにせよ...

いずれにせよ、逆説的には古事記(712年編纂)の700年近く以前!の光武帝時代(25年→57年)の髄の時代から、

那の倭国連邦連邦」には、青銅器の刀剣と農耕具を使った稲作と、そして「文字(漢字)」文化が、渡来技術者(僧侶)によってもたらされていた!ことになります。

※ご承知の通り「かな文字」は平安時代になってから「表音文字」として発案された「純国産」文字なので、それ以前(言語体系が異なる日本では)は、「表意文字としての漢字を使った「漢文」で古文書が草稿されていたわけです。

第2目 西暦607年の遣隋使に委ねた"国書"で初めて「日乃本」宣言した大和国

聖徳太子;大和国の大王(おおきみ)が、当時の中国統一王朝""に対して、

冊封国(さくほうこく);属国!として送った外交使節団の"朝貢使"が遣隋使(600年→618年)です!

数度の"正式"(※12)な!"朝貢使"を派遣していた時期に、(何度目かの)遣隋使(西暦607年)に委ねた書簡(国書)で、「日乃本」宣言をしてその後は国名を「那の倭国」から日乃本と改称された!とされています。

つまり遣隋使を始めた頃は那の倭国」表す金印が押捺されていたのでしょう。

注※12)金印の印綬以来大陸とは正式な使節団以外にも、(前途した様に3世紀に寄稿された魏志倭人伝にも記されているように)民間人レベルで「僧侶・技術者・留学生・職人等の交流」があったはずですが、これらの"非公式"な史実(記録・古文書・私文書)は残って(発見されて)いません!

聖徳太子の日乃本宣言の狙いは...

つまり、大陸の専制国家・超大国()を、宗主国として認めることで、小国の日本列島を侵略から守り植民地!化させないように、「臣下の礼」をとって、先手を打ったのでしょう!

"自治権"をもった冊封国(さくほうこく)=属国として認めさせるために...

前回の遣隋使で隋から持ち帰った"紙"にしたためた"国書"に、自らが「邪馬台国」を引き継いだ正統・日本列島の統一国家!「那の倭国」の後継「日ノ本」のsovereign(元首;大王(おおきみ))であり、自治権をよこすならば!冊封国(属国・兄弟国!)に"なってやってもよい"ぞ!印綬された金印を押捺した"国書"親書で宣言したのでしょう。

つまり「那の倭国・日乃本」は自らをsovereign(元首;大王(おおきみ))として擁立した"統一国家"であることを装った、外交策!であったわけです。

隋の emperor が激怒したという有名な逸話は...

隋の emperor(皇帝)が「聖徳太子の親書に激怒した」というのは「日之出国の天子より日の没する国の王へ...」の下りで激怒したのではなく!

「金印を押した冊封国(さくほうこく;属国)のChief(酋長)の分際!

でありながら、主権を持つsovereign(君主)の様に対等!の立場を主張した内容!にあったのでしょう。

まあ、朝貢使の謁見に同席した"隋"の通訳・学僧が、「那の倭国は野蛮な"未開人が暮らす属国!"なので、漢字(漢文)を心得た人物がいない!?のでは...」とかなんとか「その場を繕った」のでしょう。

前途した様に、唐が滅びるまで、"朝貢使"による朝貢(配下の礼)をとり続けたので、

その後中国を占領!した元(1271年→1368年)の様に、日本列島に攻め入ることはなかった!のでしょう。

血統的(遺伝子的)にも、弥生人は漢民族に近く、縄文人の様に"元"と同じ流れをくむ「ウラルアルタイ系民族」とは異なり、親類?として扱ってくれたのでしょう。

その後に続く大和王権の大王(おおきみ)も

事実"隋"が滅びた後の唐(618年→907年)が滅ぶ907年まで、幾度の"朝貢使"(遣唐使)を派遣して「臣下の礼を取り続け、同時に大和王権が日本列島(倭国)を代表する唯一の政権であることをアピールし続け、と「蝦夷の倭国」との交流を妨げ、大和王権 Federation の優位性を維持したわけです。

「日本語ウィキペディア」で日本初の歴史書???!とされている古事記(712年編纂)は...

前途した様に、漢字伝来より数百年を経過して、日本初の叙事詩!(fiction!fantasy!)が起草されたのは、製紙技術の伝来とも関係があるわけです!

聖徳太子の、倭国宣言(西暦607年)から100年以上!たった和銅5年(712年)に(漢文で)編纂された古事記は、

当時の大和王権の"大王(おおきみ)"を正当化するために、取り巻き(支援者・後援会!)の搾取階級・公家の一人、太安万侶が、面々と受け継がれてきた?口承・伝承神話!ヒントを得て!

大王の公式出生証明となる家系縁起を"創作!"して、「大和国の大王(おおきみ)に献上」した"私文書"にすぎません!

その後に編纂された日本書紀(720年編纂)と同様に、遣隋使の頃に仏教伝来と同時に僧侶(技術者)が持ち込んだ文字(3世紀には体系化されていた漢字)により、口頭伝承されてきた legend(神話・昔話)を文字化(文書化)した、神話集!昔話集にすぎないわけです!

これらは、autocracy(専制政治)を行っていた中国大陸・唐(618年→907年)の emperor(皇帝)に対して、遣唐使が携える"親書"の発行者である自称「天子」が、新生・日乃本の主権者?である証(あかし)としての添付書類!(出生証明)に用いられたのでしょう。

※しかしながら。歴代の中華王朝の emperor(皇帝)(とその側近の学者・有識者)は当時バイブルとなっていた三国志の中の1節「魏志倭人伝」にある女帝?卑弥呼が率いる邪馬台国が日本列島の「真の自治政権」であったことを衆知していたので、天照大神神話には興味が無かった!でしょう。

つまり、「卑弥呼の血統を継ぐ正当な後継者」を示す根拠は、「押捺された金印封印しかなかったでしょう!

つまりは所期の目的である対外的(外交上の)な、日ノ本連合の主権者?大王(おおきみ)を証明する、血統書・出生証明にもなら無かった!わけです。

第4目 当時の書簡は木簡・竹簡(ちっかん)の時代だった

非公式の民間レベルでは大陸と「蝦夷の倭国」との交流(交易)も...

「縄文人・蝦夷民族は文字文化の無い文盲!の口承・伝承の部族だった」とする説が多いようですが...

非公式レベルでは「蝦夷の倭国」も"大陸"と交流(交易)があり、銅製品・鉄器などと共に"漢字"も伝わっていたと推測できます。

古代弥生時代初期から遣唐使の始まる古代天平文化の頃までの、朝貢使(600年→618年の遣隋使)が再開される前は日本列島には、中国の製紙技術(紀元前140年~87年に発明)は伝来しておらず、遣隋使以前の時代の「書簡」は木簡・竹簡(ちっかん)が主流の時代でした。

縄文遺跡から木簡・竹簡は出土していないが...

縄文人(蝦夷)の遺跡の出土品に木簡・竹簡(ちっかん)は見つかっていません!が...

厳しい東北の気候、特に河川沿いに開けた定住地(遺跡)では「凍結⇔浸透」の繰り返しによる木簡・竹簡の割れなどの影響で、朽ち果てたものと推測できます。

802年の坂上田村麻呂によるアテルイ拘束

後述するように西暦802年5月19日に蝦夷討伐!に差し向けられていた坂上田村麻呂が、最後まで抵抗していた部族のChief;大墓公阿弖利爲と盤具公母禮、部族一統500余人を武装解除して、阿弖流為とモレを都に連行したわけですが...

京への伝令に公阿弖利爲(アテルイ)や盤具公母礼(モレ)といった風に「正式な名称?」が記されていたのは「田村麻呂」の東北遠征に同行した書記官が「当て字」で戦記を記したのではなく!

それ以前の大和王権と友好を保っていた当時朝廷側から拝名したということになっていますが、

紙・文字文化の存在は承知していても...

つまり、反乱?が起こる前からすでに、紙・文書が蝦夷夷社会にも伝わっていた!ことは間違い無い様ですが...

紙・文書文化を伝来させた遣隋使(600年→618年)以来200年も経過していて、日本日本列島に紙・文書文化が定着していた当時でさえ、蝦夷陣営では、日常の政(まつりごと・祭事)に、文書に記された祝詞(のりと)などは用いずに、口承されてきた"呪文"を用いていたのでしょう!

そういう点では、紙・文書文化とは縁のない"文盲"部族!であったのは間違いないでしょう。

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公開:2018年8月 5日
更新:2024年2月21日

投稿者:デジタヌ

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