旅するタヌキ

旧・秋田県民会館  《 ホール 音響 ナビ 》2018年惜しまれつつも解体・処分された会館

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秋田県民会館

Official Website http://www.akisouko.com/ken_kai/closedinfo.html

秋田県民会館のあらまし

久保田城址公園(千秋公園)の南外れ「お堀端」に佇む伝統ある施設。

昭和36年に県内最大の座席数を持つホールとして開館した。

元は江戸時代に久保田藩の重臣である渋江氏の屋敷がおかれていた土地で、明治に入ってから久保田藩庁、官立病院、伝習学校などを経て、秋田県公会堂と成っていた。

その後幾多の変遷をへて、1961年「秋田県民会館」として開館しその後2011年隣接施設「秋田県生涯学習センター分館」を「県民会館分館」として施設に加え現在に至る。

秋田県民会館これまでの歩み

1904年 秋田県公会堂開館。

1918年4月29日 火災で焼失、秋田県記念館の庭園となる。

  • 10月31日 隣接地に秋田県記念館オープン。

1950年 秋田県児童会館が開館。

1961年 児童会館移転、跡地に「秋田県民会館」が開館。

  • 秋田県記念館が解体された跡地へ、秋田県立図書館開館、

1993年11月に秋田県立図書館が秋田市山王新町へ移転。

  • 元図書館をリニューアル、秋田県生涯学習センター分館「ジョイナス」として開館。

2011年 「ジョイナス」が生涯学習センター分館から県民会館分館へと移行。

秋田県民会館のロケーション

所在地  秋田県秋田市千秋明徳町2番52号

久保田城址公園(千秋公園)の南外れ「お堀端」にあり、秋田市立中央図書館、秋田県立美術館、和田和洋女子高等学校、国学館高等学校、等が並ぶ JR秋田駅西口より徒歩10分の文教エリアにある。

正面左の「アトリオン音楽ホール」(※ガイド記事はこちら)とお堀を挟んで対面している。

トリップアドバイザーの周辺口コミガイドはこちら。

秋田県民会館へのアクセス

JR秋田駅西口より徒歩10分

秋田県民会館がお得意だったジャンル

大ホール

オーケストラコンサート、バレエ、ミュージカル、Jポップ関係のコンサートや、往年のアイドル・エンタテイナーのワンマンショウ、ジャズコンサート、歌謡ショー、懐メロ歌手の歌謡ショー、有名タレントの座長ショー、現代演劇、伝統芸能、落語・演芸寄席、大道芸、パフォーマンス・ショーまでジャンルに拘らない幅広い演目でこのエリアの多くの人達に受けいれられている。

またプロ演奏団体、以外にも数多くのアマチュア団体が利用している。

秋田県民会館の公演チケット情報

大ホールで催されるコンサート情報

チケットぴあ該当ページへのリンクはこちら

施設面から見た旧・秋田県民会館の特色

※ご注意;以下※印は当サイト内の関連記事リンクです。
但し、その他のリンクは施設運営者・関連団体の公式サイト若しくはWikipediaへリンクされています。

(詳しくはこちら公式ページ)

市内最高の立地!

北側は千秋公園の池、西側は高等学校校舎を挟んで久保田城址の旧内堀、同じく南側も旧内堀、東側は通行量の少ない「中土橋通り」ホールにとっては「最高の立地条件」(※1)にある。

大ホール

(公式施設ガイドはこちら)

全面秋田杉の内装

当時としては、東京文化会館(※ホールNaviはこちら)なみに天井の高い2フロアーのホール。

内装に「秋田杉をふんだんに使った」丁寧な設えの多目的音楽ホールである。

音響拡散体で構成された側壁

植木鉢を積み重ねた様なデザインの凸面形状の壁面をしており、

残響(初期反射と後期残響)の概念(※2)が定着していなかった当時としては非常に優れた壁面デザインと言える。

ホール背面壁

立て格子で表された木壁。

凸面反響板を並べた天井

天井も雨樋の様な凸面反響板を並べたデザイン。

巨大なプロセニアム前縁上方反響板

さすがに「お年を召していらっしゃる老兵?」なので、ステージ上の仮設?反響板は軽量級で、それから続くプロセニアム前縁上方には巨大な1体型の反響板が設えて有り、反響板とホールとの急激な断面変化を緩和しており「可変プロセニアム」など無かった時代にしては秀逸なデザインと言える。

伝統芸能への配慮

伝統芸能王国「秋田県」のホールだけ有り、「回り盆」こそ設備されていないが、すっぽん(迫り)を設備した脇花道、大・小迫りが装備されており、伝統・伝承芸能への対応もぬかりない。

オーケストラピット設備

可動床では無いが、ステージ前縁の白土間部分にオーケストラピットを備え付ける事が可能で、「ミュージカル、レビュー・ショウ」への対応もしてある。

リハーサル室はない。

当時の「多目的ホール」の定形でリハーサル室、練習室の類いの施設はない。

詳細データ

  1. 所属施設/所有者 秋田県民会館/秋田県。
  2. 指定管理者/運営団体 財団法人秋田県総合公社/秋田県。
  3. 開館    1961年9月30日
  4. 設計  
  5. ゼネコン 
  6. 内装(音響マジック) 

大ホール

  1. ホール様式 プロセニアム型式多目的ホール。
  2. 客席  2フロアー 1,839席(大ホール 1階1,192席、2階647席)可動床、1階平土間中央部千鳥配列、
  3. 舞台設備 プロセニアムアーチ:間口20m、プロセニアム高8m、奥行11.4m、ブドウ棚(すのこ)、脇花道、大・小迫り、花道すっぽん(迫り)可動反響版、オーケストラピット
  4. その他の設備 、楽屋x4、

付属施設・その他

  • 付属施設 大会議室x、展示室、別館「ジョイナス」等

デジタヌの独り言

「ホール建設ビジネス」の新たなるターゲットに...。

2013年現在、秋田県民会館と秋田市山王にある秋田市文化会館を統合して、新たに県と市が共同で文化施設を整備する構想が持ち上がっている。

1981年施行新建築基準法に不適合の「老いぼれ会館?」を解役(かいえき)し始末!

秋田県民会館は築50年以上、1980年開館の秋田市文化会館は築30年以上と1981年施行新建築基準法に不適合の「老いぼれ会館?」とされ更に秋田県の人口減少が進む中で、県市共同で新文化施設を建設して機能の重複する施設を統合することを目的として建て替え計画が浮上?

検討委員会が設置され2015年2月「新たな文化施設に関する基本計画 (案)」が示された。

時代錯誤、県民無視の「こじつけ」理由!

その言い訳の一つが「現施設では大がかりな舞台装置を必要とする「オペラ等」が実演できない等、ニーズに対応できない」というこじつけ!

らには「竿灯祭り」の常設展示館「秋田市民俗芸能伝承館(ねぶり流し館)」、小坂町の「康楽館(※ガイド記事はこちら)」や仙北市の「わらび劇場」(※ガイド記事はこちら)の例を上げるまでも無く「伝承芸能」が盛んな当地に於いて、「ミュージカル」ならまだしも「突然オペラ公演」...?。

「ソンなしろもの」どこから出てきた発想なの?

更に今やあの「サントリーホール」「東京文化会館」(※ガイド記事はこちら)でさえ舞台形式の「オペラ公演」を行うご時世...。

何で「伝承芸能」の盛んな当地において「無駄な設備(最低でも前・後ろの2面舞台(※5))

が必要な数年に1度の「グランドオペラ公演」の為に「オペラハウス・モドキ」の多目的ホールを作ってどうするおつもり?

「秋田県の人口減少が進む中で...」

更にすでに1989年11月に1億2千万円もする立派なパイプオルガンを備えた700席の「アトリオン音楽ホール」が開館して「クラシックコンサート」はそちらがメインになって久しい。

今さら

「2,000人規模の多目的型ホール」と、「800席規模の舞台芸術型ホール」の2つのホールを核として、3,000人程度までの大会・会議に対応できる施設<公式サイトより引用>

を作ってどうするの?

根拠の無い収容人員2000人超規模!

全国どの田舎町...いや失礼「地方都市」でアセスメント(公聴会&調査)を行っても、「音より儲け主義」の呼び屋・プロモーター連合はお題目の如く「主要人員2000人超」を唱え、市民団体は集客のし易さで「3・400席程度の良質のロールバック施設」を希望する。

更にプロ芸術団体(歌劇団、演劇団)は1500人程度の規模を希望し、つまり共に「エゴ」を主張しあい「啓蒙意識」等いささかも見られず、新国立劇場(※ガイド記事はこちら)建設の事例を持ち出すまでも無くお互いの主張は平行線を辿るだけである。

甘い建設計画!

『新施設は市街地への設置が適当であること、敷地面積が10,000平方メートルを超えることが望ましいこと等の指針が示され、建設予定地については「市街地」という表現のみで明言されてこなかったが、2015年9月1日県民会館を解体し跡地に建設する方針が示された』

『2016年度に整備計画を策定し、2017年度までに設計に着手するとしており、早ければ2021年度までに完成の見込み、総事業費200億円規模と想定』

  • 1998年開館の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール(※7)が総工費;240億円
  • 1996年5月開館のタッタ1,376席の大ホールと457席のちっぽけな小ホールだけの「泉佐野市総合文化センター・エブノ泉の森ホール」(※8)で総事業費 約210億円!

それに幾ら『地元秋田杉をふんだんに使用して建設費を抑える』にしてもこの事業費ではとてもとても...。

大規模改築で延命も?

前項「施設面での特徴」でのべたとおり、奇をてらった癖の強い音響の「アトリオン音楽ホール」より「育ちの良いホール」であり、「耐震補強」と「可動プロセニアム新設」「ステージ・増改築」などの大規模改修?程度で引き続きの使用は十二分に可能なホールである。

公共施設「耐用年数80年」方針を打ち出す自治体も...。

さらには、全公共施設「耐用年数80年」を掲げ、高度成長期の「メタボリズム」と決別し、1981年施行新建築基準法施行以前の「公共ホール」を改修し「生き返らせ」大事に使い続けようとする岡崎市のような自治体も現れている。(※1967年6月生まれ三河切っての音響を誇る御歳50歳の「あおいホール」ホールNaviはこちら)

県民の声は「無駄な投資より、企業誘致を!」

秋田藩士?の再就職口確保の為に「土建屋」に「おべっか・ご祝儀予算」を組む余裕があるなら(有るわけ無いよね?。

200億円近くの「借金(長期債券)」で文化施設を増設しても、「働き盛りの県民流失には歯止めが掛からない」し、長期的にも、「つけ」を回される事になる元県民組のUターンJターンは益々期待薄になる!

例えば秋田空港IC付近に「大規模サイエンスパーク」など

「バイオ研究機関」等バイオ産業を誘致する為に秋田空港IC付近に「大規模サイエンスパーク」とか、秋田新幹線東口の遊休地にITベンチャー企業(ハード産業では無くコンテンツ・ソフトハウス)を集めた高層ビル「秋田先端テクノロジーセンター」とか、もっと速効性・実効性のある「箱物投資」を充実させるべきでは?

県会議員・視界偽淫?のお偉い先生方は「市民への当面の媚びへつらい」をすて、県民の行く末を真剣に憂う時では無いのか?

秋田県民会館のある秋田県と秋田市

秋田県

旧令制国出羽国に属していた。
推計人口、985,021人/2018年4月1日

秋田市

秋田県の沿岸中部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。東北の日本海側では最大の都市。
推計人口、308,052人/2018年4月1日

秋田市-東京駅 3時間57分/17,800円/秋田新幹線/662.6km

秋田駅ー(秋田空港)ー(羽田空港)ー(浜松町)ー東京 3時間35分/29,470円/空港バス-ANA-東京モノレール-京浜東北線

久保田藩時代から城下町として、また土崎港は北前船の寄港地として栄えた町で土崎地区には秋田港があり、秋田火力発電所を代表として工業団地が広がっている。

八橋・寺内地区を中心として国内最大の油田である八橋油田が広がっていることでも有名。

蛇足、同規模都市・背比べ?

秋田市 推計人口311,178人/、2017年10月1日現在。(2000年以来年々人口減少中...)

秋田県 推計人口 995,374人/2017年10月1日現在。(1980年以来年々人口減少中...)

山形市 推計人口 252,095人/2017年10月1日現在。(2005年以来年々人口減少中...)

山形県 推計人口 1,101,452人/2017年10月1日現在。(1985年以来年々人口減少中...)

岡崎市(中核市)推計人口 385,221人/2017年10月現在。(2017年現在人口増加中!)

愛知県 推計人口 7,526,911人/2017年10月1日現在。(2017年現在人口増加中!)

※少子高齢化・働き手流失・財政難にあえぐ秋田県・秋田市は同様のお隣「山形県」のように「再建団体まっしぐらの建て替え路線」(※6)を突っ走らず、「質素・倹約・質実剛健の三河武士の伝統を受け継ぐ岡崎市」を見習いもう一度再考してみられてはいかがであろうか!

参照覧

※1、関連解説記事「ホール設計における「立地」と「本体構造」」はこちら。

※2、直接音、初期反射音、残響音についての(株)エー・アール・アイさんの解説はこちら。

※5、劇場(舞台)形式のWikipedia解説はこちら

※6、関連「山形テルサ」と新「山形県民会館」の関連記事はこちら。

※7、びわ湖ホール(※7)(※ガイドしたくない記事はこちら)

滋賀県のデータ:推計人口 1,412,956人/2017年10月1日現在。(2017年現在微増中)

※8、泉佐野市総合文化センター・エブノ泉の森ホール」(※解説したくないガイド記事はこちら)

泉佐野市のデータ:推計人口 100,567人/2017年10月1日現在。(2017年現在微減中)

※、定在波の悪影響に関する解説記事はこちら。

「都市伝説・良いホールの条件"残響2秒以上"は本当か?」はこちら

※エコールームに関する「音工房Z」さんの解説記事はこちら。

デジタヌの知っておきたい豆知識

秋田県・秋田市とこれ迄の歩み


今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、定住生活も始まった。縄文時代である。縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。縄文後期の墓地遺跡であるストーン・サークル(環状列石・石籬;せきり)が1931年(昭和6年)に確認された。1951年(昭和26年)と翌年の1952年(昭和27年)にも考古学研究の国営事業として発掘調査が行われたので全国的に知られるようになった。その遺跡は鹿角市の大湯にあり、同規模の2つの環状列石で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡である。やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルある。太平洋戦争中は「神代」(かみよ)の遺跡として扱われた。

大和朝廷と呼ばれる渡来人集団?との闘い


この縄文人に加え西日本では、弥生時代頃から弥生人と呼ばれるユーラシア大陸東部からの移住民が増えたが「雑多な民族」は次第に統一され、近畿地方を中心に統一国家が形成され後に「朝廷」と呼ばれるようになる。

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年大和朝廷の国王に即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている。

8世紀に大和朝廷が国号を「日本」と改め、日本を代表する政府であると国外(中国)にアピールした。

秋田県を含む東北地方北部はこの時点で、朝廷に属していなかったために、大和朝廷による侵略が始まった。

<※「歴史は繰り返される」の通り江戸末期になって「朝廷」を担ぎ上げた、薩摩、長州を中心とする、「官軍」と奥州連合の東北軍との戊辰戦争が起こり、再度「錦の御旗」の下につるんだ新政府軍に屈することとなり、「白河の関より北にはぺんぺん草も生えない!」と東北日報を引き継いだ現河北新報の創始者「一力健治郎」が嘆いた程の貧困が第2次大戦後の1970年代まで続くこととなった。>

※歴史は常に勝者「永続している侵略者」の論理を正義とし、侵略され「服従を強いられた側」敗者の言い分は認めない。

8世紀の前半に朝廷により、日本海沿岸北辺の交易・征服などの拠点として「出羽柵」が現在の山形県庄内地方に設置されるが、天平5年12月26日(734年2月4日)、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田市寺内)へ移設されたと大和朝廷側の記録に残っている。

秋田県の所属していた出羽国

現秋田県域に当たる山本郡、秋田郡、河辺郡、由利郡、仙北郡、平鹿郡、雄勝郡、飽海郡、の8郡と

現山形県域に当たる6郡との14郡からなり、現在の秋田県、山形県、にまたがる広大な郡部を擁していた。

760年頃に出羽柵は秋田城に改称された。

780年には出羽国府が秋田に移されたが、蝦夷(エミシ)民族(大和朝廷に屈しない縄文人の末裔?)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び移されることになった。

802年1月9日に胆沢城を築くため造陸奥国胆沢城使として田村麻呂が陸奥国に派遣された。

大和朝廷側の記録文書『日本紀略』では、同年4月15日の報告として、蝦夷(エミシ)民族のリーダーである大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したと記されている。

2人は田村麻呂に連行されて7月10日に平安京に到着、田村麻呂の助命嘆願にも拘わらづ、当時の朝廷高官供の決定により8月13日にアテルイとモレは河内国で処刑された。

元慶2年(878年)重い税や労役の苦しみに耐えかねたエミシ(蝦夷)民族の秋田城司に対する反抗として元慶の乱が起こった

大和朝廷は新任出羽守の藤原保則を派遣した。保則は反乱の平定に「朝廷に服属したエミシ」を利用し成功した。

天慶2年に再び天慶の乱が発生した。

当時はエミシに対する朝廷の支配力は絶対的なものでは無かったが、その後朝廷に服属するエミシ民族の地方豪族が台頭し、強大になっていった。


朝廷の律令政治が衰えるとともに、(荘園の管理者に当たる木っ端役人供による)私有地の占領が次第に増え、農民は有力豪族に頼り蝦夷地の各所には豪族を中心とする武装集団が誕生した。

豪族は重要拠点に分家を配して勢力を拡げ、その中から陸奥の阿部氏(現安倍首相の先祖!)、出羽の清原氏が現れた。

北上川中流以北に勢力を広げていた安部氏に対して朝廷が討伐を企てたのが前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)である。

清原光頼は弟・清原武則を大将とする一万余の兵を出し、安倍氏を駆逐した。

奥州藤原氏は四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄え、東北は大和朝廷の軍事影響下を離れ完全に地方豪族の支配下になった。

文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設した源頼朝が19万の軍勢を率いて奥州討伐に向い討伐された。

数世紀にわたった豪族の支配も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となった。

藤原氏を倒した頼朝は、御家人、地頭職を新たに東北各地に配し、東北における大きな政治的転換点となった。

由利氏は藤原氏に仕えていたが、そのまま由利地方を治めることとなった。

その後、戦国時代となり日本海北部に勢力を持った安東氏が津軽地方から南下し、安東愛季の時代に最盛期を迎えた。

横手盆地では戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力を持ち、由利郡は由利氏一族と地頭であった小笠原氏の子孫達の由利十二頭と呼ばれる勢力が支配していた。

江戸幕府の「入組支配」


入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

複雑に入り組んだ支配で、各支配地(郷)間で待遇(身分)・処遇(年貢)に大きな格差が生じていた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いて天下の実権を握った。秋田県下の諸大名は西軍についた小野寺氏以外は一時的に所領は安堵された。

慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封(国替え)され、鎌倉以来となる長年の領主と住民のつながりは切れた。

久保田藩;出羽国(後の羽後国)秋田・現秋田市域

慶長7年(1602年)、秋田郡を領有していた秋田実季(安東氏から改姓)などと入れ替わりで、関ヶ原の戦いで西軍に内通していた佐竹氏が常陸国から転封(国替え)され、久保田藩を立藩する。

初代藩主は佐竹義宣。義宣ははじめ秋田氏の居城であった湊城(現在の秋田市土崎港)に本拠を置いたが、まもなく神明山(秋田市千秋公園)に久保田城を築いて居を移した。

また、一国一城令の例外として、横手城・大館城が支城として存続した。

佐竹氏は、明治まで表高20万石の久保田藩を治めることになった。

領内に存在した院内銀山や阿仁銅山などの諸鉱山、および全国的に著名な秋田杉なども久保田藩の収入源となったが、常陸時代以来の過大な家臣団が財政を圧迫し、幾度も財政改革を行う必要に迫られた。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日/旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め武蔵国も幾多の行政変遷にさらされた。


明治維新時点で後の秋田県下に政庁を置いていた藩は以下の5つ(石高は廃藩置県時の値)。この他に盛岡藩領と旗本領(仁賀保二千石家・千石家=旧仁賀保藩主の分家、生駒伊勢居地家=矢島藩主の分家、六郷氏=本荘藩主の分家)があった。

久保田藩(ほぼ現秋田市域)

- 藩主は佐竹氏。


岩崎藩

久保田藩の支藩で「久保田新田藩」と呼ばれ、江戸時代を通じて領地を持たず本藩から蔵米を支給されていた。戊辰戦争後、雄勝郡岩崎へ移転して岩崎藩と改称したがの廃藩置県のため、僅か3ヶ月しか存続しなかった。

慶応4年(1868年)に起こった戊辰戦争で、久保田藩ら出羽諸藩は朝敵扱いされた会津藩・庄内藩の赦免嘆願のため奥羽越列藩同盟に加わる。しかし、久保田藩内の勤皇派がクーデターを起こして久保田藩は一転新政府側となったため(前後して久保田新田藩=後の岩崎藩、本荘藩、矢島藩および現・山形県の新庄藩も転向)、他の奥州諸侯の標的とされて秋田戦争が勃発した。


1869年6月17日(旧暦明治2年7月25日) - 久保田藩主佐竹義尭が版籍奉還し、久保田藩知事に就任する。久保田城は陸軍省の管理下に置かれ、政庁は三ノ丸下中城の渋江内膳邸(後に新築された佐竹義尭邸)へ移る。
同年6月 - 久保田新田藩が岩崎藩へ移転改称。
1870年2月24日(旧暦明治3年3月25日) - 岩崎藩主佐竹義理が版籍奉還し、岩崎藩知事に就任する。
1871年1月9日(旧暦明治4年2月27日) - 久保田藩が政府へ藩名変更の願書を提出する。
同年1月13日(旧暦3月3日) - 久保田藩を秋田藩と改名。

1871年7月14日(旧暦明治4年8月29日) - 廃藩置県布告に伴い、秋田県・本荘県・岩崎県・亀田県・矢島県を設置(これを記念して8月29日は県の記念日となっている)。
同年11月2日(旧暦12月13日) - 第1次府県統合に伴い、上記5県と江刺県のうち鹿角郡全域、および由利郡の山形県管轄分を併せて秋田県(第2次)を設置。県令・権令の発令はなく、江刺県大参事の村上光雄が秋田県参事に任じられる。
11月14日(旧暦12月21日) - 久保田藩の飛び地からそのまま秋田県管下となっていた、下野国河内郡の7ヶ村が宇都宮県へ、同都賀郡の4ヶ村が栃木県へ移管される。これにより、十和田湖上の境界未定箇所を除きほぼ現在の県域が確定(十和田湖上の確定は2008年)。
1872年2月4日(旧暦12月26日) - 初代秋田県権令に侍従の島義勇が就任。当面は東京築地新富町の秋田県支庁にて勤務。
1872年4月3日(旧暦2月26日) - 島権令、秋田長野町の旧佐竹北家邸に入る。
同年4月20日(旧暦3月13日) - 久保田城本丸に秋田県庁を開庁。
同年8月23日(旧暦7月20日) - 第2代秋田県令に宮内大丞の杉孫七郎が任命される。
同年11月12日(旧暦10月12日) - 県庁を秋田東根小屋町の本部学校(旧明徳館)へ移す。

1873年(明治6年)1月1日(明治5年旧暦12月4日)新政府太陽暦を採用・告示

同年8月24日 - 県庁聴訟課より出火し庁舎全焼。下中城の渋江邸に県庁を移す。

1876年(明治9年)2月29日 - 秋田県聴訟課を秋田県裁判所と改め県庁内に開設する。

同年12月 - 秋田県裁判所を青森裁判所秋田支庁とし、秋田区裁判所と共に県庁内で事務を行う。
1877年(明治10年)1月 - 秋田東根小屋町に裁判所庁舎を新築し、青森裁判所秋田支庁・秋田区裁判所とも移転。

1878年(明治11年)4月17日県内の区長・戸長・町村総代人、計36人を集めて県会を設立。

同年12月23日 - 郡区町村編制法施行にともない、秋田郡を分割して北秋田郡と南秋田郡を設置。
1879年(明治12年)2月下旬 - 第1回県会議員選挙が行われ、33人が選出される。
1880年(明治13年)4月19日 - 秋田土手長町に県庁新庁舎が落成。昭和32年に全焼するまで使用された。
1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制施行布告による明治の大合併が行われる。南秋田郡秋田町が市制施行し、秋田市となる。
7月3日 - 秋田馬車鉄道(秋田市電の前身)、秋田・土崎間で営業開始。

1898年(明治31年)9月20日 - 歩兵第十七連隊、仙台から秋田への移駐を完了。

1902年(明治35年)10月21日 奥羽本線五城目駅 - 秋田駅間が延伸開業により秋田駅開業。

1905年(明治38年)6月15日:奥羽本線大曲駅 - 横手駅間が開業により秋田と繋がる。

1905年(明治38年)7月5日:奥羽本線院内駅 - 湯沢駅間延伸開業により秋田県内全通。

1905年(明治38年)9月14日:奥羽本線湯沢駅 - 横手駅間が延伸開業により福島駅 - 山形ー秋田ー青森駅間が全通。

1914年(大正3年)5月26日 - 日本石油黒川油田でロータリー式五号井が大噴油。

1920年(大正9年)2月22日:羽越本線 秋田駅 - 道川駅間 (19.9km) が羽越北線として開業。

1921年(大正10年)6月25日:盛岡 - 雫石間 (16.0km) が橋場軽便線として田沢湖線(現秋田新幹線)新規開業

1924年(大正13年)4月20日:羽後亀田駅 - 羽後岩谷駅間 (7.7km) が延伸開業し秋田県内全通。

同年7月31日 - 村上駅 - 鼠ヶ関駅間 (41.6km) が延伸開業により羽越本線全線開通。

1935年(昭和10年)3月20日 - 日本鉱業八橋油田で上総式四号井が大噴油。
1938年(昭和13年)4月27日 - 雄物川放水路の掘削工事完成。
1951年(昭和26年)1月19日 - 秋田港を重要港湾に指定。
1957年(昭和32年)8月12日 - 県庁全焼。
1959年(昭和34年)12月 - 秋田市川尻町字八千刈(現在の山王四丁目)に新築した県庁新庁舎へ移転。
1961年(昭和36年)9月26日 - 初代・秋田空港が開港。

1965年(昭和40年)11月1日 - 秋田湾地域を新産業都市に指定。
1966年(昭和41年)10月20日:生橋線赤渕 - 田沢湖間 (18.1km) の延伸が完成し開業、田沢湖線全線開通。

1981年(昭和56年)6月26日 - 新・秋田空港が河辺郡雄和町(現:秋田市)に開港(滑走路2,500m)。
1982年(昭和57年)8月4日 - 秋田市、河辺郡河辺町、雄和町がテクノポリス開発構想策定地域に指定。

1983年(昭和58年)10月20日 :東北自動車道 安代IC - 鹿角八幡平IC間開通。県内初の高速道路となる。

1991年(平成3年)7月25日 秋田市を通過する初めての高速道路・秋田自動車道・横手IC - 秋田南IC間開通。

1994年(平成6年)8月4日:北上JCT - 北上西IC間秋田自動車道延伸開通により東北自動車道と接続。

1997年(平成9年)3月22日 - 秋田新幹線開業。
同年4月1日 - 秋田市が中核市へ移行。
同年11月13日 - 秋田自動車道全線開通。

1998年(平成10年)7月18日 - 県営・大館能代空港開港(457億円)。
1999年(平成11年)7月9日 - 秋田港に定期フェリー便就航(新日本海フェリー:苫小牧 - 秋田 - 新潟 - 敦賀)。
2001年(平成13年)8月16日-26日 10月29日 - 秋田空港に国際定期便就航(大韓航空:秋田 - ソウル)。

2013年(平成25年)11月30日:大館北IC(釈迦内仮出入口から改称) - 小坂JCT間開通により東北自動車道と秋田県内で初接続。

2017年(平成29年)4月1日 - 県全体の推計人口が100万人を下回る!

公開:2017年12月24日
更新:2018年9月29日

投稿者:デジタヌ

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