狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

鹿児島市《Community Historia》

前書き(要約)"質実剛健・時代の先取り・エコノミー"が薩摩の伝統

新興勢力の弥生人が起こした大和朝廷とその後に続く「中央政権」と、本土最南端で常に「日本の窓」として海外と深いつながりを築いてきた"ネイティブジャパニーズ・縄文人"の血を受け継ぐ薩摩民族のidentityを大事にするoriginalityで培われたtrafficの変遷を、「歴史的事実」下ずきgeopoliticsの観点から客観的に考察した「歴史ファンタジー」。

鹿児島市と鹿児島県のこれ迄の歩み

鹿児島市のあらまし

桜島と西郷どんで有名な鹿児島県の県庁所在地。

推計人口、596,319人/2018年4月1日

鹿児島中央駅ー(新大阪)ー品川 6時間35分/新幹線さくら-のぞみ乗り継ぎ/30,170円/1457km

鹿児島中央ー(鹿児島空港)ー(羽田空港)ー品川 3時間34分/39,450円/バス-ANA-京急

フランシスコ・ザビエルが現在鹿児島市祇園之洲町付近に上陸し、日本にキリスト教をもたらした伝来の地としても有名。

中心市街地は、薩英戦争の砲撃、西南戦争、第二次世界大戦の鹿児島大空襲と三度も壊滅的打撃を蒙ったため、城下町としての面影は殆ど残っていない。

3つの異なった風土(地域)を持つ旧・日向国時代

令制国(律令国)

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.。

律令制が敷かれるまでは、南九州(現鹿児島県・宮崎県)は旧・日向国一国であった。

薩摩隼人という熟語があるが、薩摩(旧薩摩国)と隼人(旧大隅国)は元々異なった風土を持つ地域として、それぞれの道を歩んで来て常に一枚岩では無かった!

ましてや、山岳によって隔てられた、令制国(新)日向国(現宮崎県)とは相いれないところがあり、薩摩国も大隅国も、旧・日向国から分離し別々の国になった経緯がある。

鹿児島県(令制国の薩摩国&大隅国)の歩み

702年(大宝2年)の薩摩・多褹叛乱を契機に、現在の鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立

713年(和銅6年)4月3日に肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が、移管し大隅国として分立した。

※旧・霧島町は大隅国の贈於郡(そのくい)に含まれており、現・霧島市域に当たる旧・国分市郡田・重久と旧・隼人町松永、牧園町持松などの地域も含まれていて国府は旧・国分市にあったとされている。

長く続いた大和朝廷勢力(弥生人)との闘いの歴史

12世紀始めに島津氏薩摩国が誕生するまでの島津氏以前の「薩摩」「隼人」は、ともに朝廷権力への抵抗が長く続き、「薩摩・高城郡」には肥前から、「大隅国・桑原郡」には豊前から 朝廷にとっての友好的な部族を移住させる「大和朝廷による懐柔策」がとられた。

1185年(文治元年)惟宗忠久が島津荘(南九州にあった大荘園)の下司職に補任され、島津(嶋津)左衛門尉と称したのが島津氏の始まりとされる。

つまり地元の豪族出身ではなく、大和朝廷が派遣したよそ者であった。

よそ者ゆえに、島津氏は、配下の地元出身の家来衆を大事にしたのではなかろうか?

しかし戦国時代に入り守護職は有名無実となり、島津一族は薩摩国と令制・日向国の南東部を占めるのみで、大隅国と令制・日向国は群雄割拠の時代を迎えることとなった。

鹿児島市と鹿児島県のこれまでの主立った出来事

1340年頃 島津家第6代当主島津氏久が東福寺城(鹿児島市清水町)を居城にした。

1341年(暦応4年) - 島津貞久が東福寺城を奪取し、鹿児島に拠点を獲得する。
1387年(嘉慶元年) - 島津氏久が清水城を築城し、城下町となる。
1543年(天文12年) ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来する。
1549年(天文18年)、薩摩出身の元漁師のアンジロウの案内でフランシスコ・ザビエルが現在の市域に当たる場所(祇園之洲町付近)に上陸し、日本初のキリスト教伝来の地となる。

1550年(天文19年) - 島津貴久が御内館(内城)を築城し、清水城より守護所を移転する。

1574年(天正2年) 大隅の肝付氏が島津氏に降伏し、島津氏が県本土(薩摩・大隅)を統一
1577年(天正5年) 伊東氏を令制・日向国から追い出し、島津氏は南九州の旧日向国をほぼ統一した

1587年(天正15年) 島津義久はほぼ九州全域を統一したが(※)、豊臣秀吉に屈服し領国は薩摩・大隅・日向(諸県郡)に押し込められ、令制・日向国(現宮崎県)は功のあった大名に分知された。

※この頃に島津氏が九州を実質制定したが、最近の説では決して侵略により制定したのではなく、親類縁者に友軍を頼まれたり、敵の侵攻を防いでいるうちに、どんどん勝ち進み、知らぬうちに九州平定に至ったとされている。

1601年(慶長6年) - 島津家久が鹿児島城を築城し、鹿児島藩庁を置く。

江戸幕府の「入組支配」

江戸幕府はかつて7世紀後半に天智天皇によって制定された令制国(律令国)領民の「団結による反乱」を極度に警戒し、幕府安康の最善策として「令制国の解体政策」を推し進めた。

それが「入組支配」と呼ばれる政策で、地方の大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い「地方の統一・団結」を阻もうとした。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

1609年(慶長14年)に薩摩藩は琉球出兵を行って琉球王国を服属させ、奄美群島を領土に組み入れ、当地を使った砂糖業を成功させ、莫大な利益を上げた。
1779年(安永8年)に桜島が噴火する。

幕末には江戸幕府(徳川家)と島津家は姻戚関係となり水戸藩・越前藩などの公武合体派を取り込み雄藩として活躍したが、12世紀の初代島津氏より朝廷からの信任も厚く、その後の討幕運動、薩摩藩が官軍(政府軍)の戦闘主力となり、長州藩や土佐藩などとともに、明治維新を成功させ、多くの維新元勲を輩出している。

19世紀の中頃にはヨーロッパの機械文明を取り入れた研究が進み、島津斉彬のもと集成館(現・尚古集成館)事業として反射炉や溶鉱炉が造られ、日本における近代工業化の発祥の地となった。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日)( 旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め宮崎県(日向国)・鹿児島県(大隅国)も幾多の行政変遷にさらされた。


1871年(明治4年) - 廃藩置県により薩摩、大隅、日向の3ヶ国のうち薩摩藩の範囲で鹿児島県が成立。同年11月14日(新暦12月25日)に日向と大隅のうち本土部分を分離し都城県とした。

同年8月29日 - 廃藩置県により鹿児島府下山下町(現在の鹿児島市山下町)に県庁が設置される。

1872年(明治5年) - 琉球を分離して琉球藩が成立

1873年(明治6年)1月15日 - 宮崎県(初代)の設置に伴い、都城県のうち大隅国の部分を鹿児島県に移管。令制・日向国であった地域(現在の志布志市・大崎町など)は宮崎県所属となった。

1876年(明治9年)8月21日 - 宮崎県を併合

1877年2月15日 旧鹿児島県域(鹿児島県、宮崎県)と熊本県、大分県等の一部の不平士族に押されて「西郷どん」挙兵・鹿児島を出陣、西南の役始まる。

同年9月24日西郷軍が敗れた

※江戸城無血開城を成し遂げた西郷どんが何故「勝ち目がない戦い」と分かっていながら、西南の役の総大将に祭り上げられたのかは、彼の回想録が残っていないので定かではないが...

基本的に下級武士の出で根っからの薩摩武士であった彼は、江戸城無血開城後に彼の跡を継ぎ総司令官となり容赦なく「武士」を叩き潰していった学者上がりの大村益次郎とは主義主張が異なっていたとみるべきではないか?

江戸城無血開城後も関東・東北各地では戦闘が続き同胞(薩摩軍)から多数の犠牲者を出し、内心「死に場所」を探していたのではなかろうか?

「西南の役」後、人的・経済的にも薩摩は大打撃を受け疲弊した

1883年(明治16年)5月9日 - 宮崎支庁側などの分県運動により、宮崎県が再置県され成立した

(※1873年以来のこの辺の「ごたごた」のしこりが今に続く鹿児島(令制大隅国)・宮崎両県の仲の悪さに繋がっている?)

ただし、諸県郡のうち志布志・松山・大崎(現在の志布志市・大崎町及び曽於市の一部)は鹿児島県に残り、同年6月に南諸県郡として分離された。

1889年(明治22年)4月1日 - 鹿児島市が市制施行、旧鹿児島城下46町及び旧近在の内1町3村の区域を以て鹿児島市となる、県本土・甑島列島・種子島・屋久島で町村制施行。

遅ればせながら西南の役・戦後復興が始まる...

1894年(明治27年)加納久宜が県知事に就任し、西南戦争以来疲弊していた鹿児島を立て直し今日の鹿児島県の基礎が築かれた。

1901年(明治34年)6月10日 - 市内初の鉄道路線となる鹿児島本線(現・日豊本線)国分-鹿児島間が開業。

1909年(明治42年) - 鹿児島本線、現在の肥薩線ルートで門司-鹿児島間全通

1912年(大正元年)12月1日: 鹿児島電気軌道が現・谷山線・武之橋 - 谷山間で路面電車の運行を開始。

1913年(大正2年)10月11日 - 川内線(現・鹿児島本線)が開業。

1914年(大正3年)1月12日 - 桜島が大噴火し、同時にマグニチュード7級の桜島地震が発生。これにより桜島は大隅半島と地続きになった。
1916年(大正5年)10月14日 - 鹿児島電気軌道により日本で四番目である鴨池動物園(現・平川動物公園)が開園。
1928年(昭和3年)7月1日 - 鹿児島電気軌道の路面電車路線を市営に移管し、鹿児島市電気局(現・鹿児島市交通局)が発足

1945年(昭和20年)6月17日 - 鹿児島大空襲。

戦後復興の時代

1945年(昭和20年) - 敗戦で北緯30度以南の地域が米軍軍政下に置かれる

1952年(昭和27年) - トカラ列島が日本に復帰。米軍軍政下にあった十島村は地方自治法の十島村へ移行。日本の行政権下にあった十島村は三島村に名称変更の上北緯30度以北に境界変更。
1953年(昭和28年) - 奄美群島が日本に復帰。
1972年(昭和47年) - 太陽国体開催。薩摩(鹿児島市内)から隼人(溝辺町;現・霧島市)に移転し新鹿児島空港開港
1967年(昭和42年)4月29日 - 南側に隣接する谷山市と新設合併し新制の鹿児島市となる。

※このあたりの薩摩(鹿児島市)のご都合主義?が隼人(霧島市)との仲の悪さにつながっている?
1989年(平成元年) - 鹿児島市制施行100周年。
1993年(平成5年)6月12日より長期的な異常多雨。8月6日、甲突川が氾濫平成5年鹿児島大水害(いわゆる8.6水害)と呼ばれる。
1995年(平成7年) - 九州自動車道、門司-鹿児島間全通

1996年(平成8年)4月1日 -中核市に 鹿児島市が指定される。

1996年(平成8年)11月 - それまで山下町にあった鹿児島県庁が鴨池新町に移転。

2004年(平成16年)11月1日 - 平成の大合併で鹿児島市周辺の5町を編入合併。

2004年(平成16年) - 九州新幹線鹿児島ルート、鹿児島中央駅-新八代駅間が開業する
2011年(平成23年) - 新八代駅-博多駅間の開通により、九州新幹線鹿児島ルートの鹿児島中央駅-博多駅間の全線が開業する
2014年(平成26年) - 東九州自動車道 鹿屋串良JCTと大隅縦貫道(串良鹿屋道路)の開通により、県都の鹿児島市と、県下第2・第3の都市である霧島市・鹿屋市全てがやっと?高速道路で繋がる。

 

公開:2016年10月31日
更新:2022年10月 7日

投稿者:デジタヌ

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