狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

京都市《 タウンヒストリア 》

京都市とこれ迄の歩み

京都府の府庁所在地で1000年の都として有名な古都。

歴史におんぶされ、歴史にしがみついている、町であると同時に、一方では日本初の「水力発電所」日本初の「チンチン電車」「近畿初の地下鉄道」など数多くの時代の最先端をゆく事業も興している。

又1966年日本で最初の国立の会議施設として国立京都国際会館をいち早く完成させ、国際会議を定着させ近年1997年には第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)を開催し「京都議定書」を採択するなど、国際都市としての活動も活発。

2016年に 左京区と右京区の一部が京都丹波高原国定公園に指定され、都道府県庁所在地にある国定公園は珍しい存在となっている。

京都市

京都御所を初め、多数の古社寺を抱える国際観光都市。

京都府最大の都市であり、都道府県全体の人口の過半数(56.6%)を占めており、都市圏として近隣滋賀県の一部都市を含めると県の人口とほぼ同数の約260万人が京都近郊周辺で暮らしている。

推計人口、1,466,937人/2018年4月1日

京都ー品川 2時間7分/1,3910円/新幹線/506.8km

京都市のこれまでの主立った出来事

京都は、桓武天皇が784年の長岡京に続いて、794年平安京に遷都したことに始まる

延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。

建設開始から12年後に、民苦を理由として新京造営を司る造宮職(ぞうぐうしき)が廃止され、計画された右京区の約半分が未完成のまま、平安京の建設は終了したらしい。

近年・考古学的には平安京は整然とした都市ではなく、左京に偏った都市になっていたと判明している。

その後南朝が衰微して室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる市民による自治の伝統が生まれた。

応仁の乱で市街北側の大半が焼失し荒廃した。その後もたびたび戦乱に巻き込まれることとなる。

この頃、京都はそれぞれ「構」によって囲まれていた上京と下京に分かれ、その間は畑になっていたといわれ、室町通でかろうじてつながっていたとされている。

この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。

秀吉の都市改造は大規模なもので、巨大な環状の御土居(おどい)の築造による、戦乱によって領域が曖昧になっていた京都の内側と外側(洛中、洛外)の確定(線引き)を行い、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、御土居の構築、洛中に散在していた寺をあつめた寺町や寺之内の建設などを行い、現在の京都の町並みの基礎を造った。

秀吉の没後も徳川家康が伏見城に入り伏見は引き続き政治の中心地であった。

1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が伏見城にて征夷大将軍に任官され、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。

江戸幕府が誕生すると政治の中枢は徐々に伏見から江戸に移ったものの、こうした政都の移動にもかかわらず京都は国都であることに変わりはなく、徳川政権は、幕府の京都の拠点として二条城を築き、京都所司代・京都町奉行を設置して直轄下に置いた。

政情が不安定になった幕末には京都守護職が置かれ、その下で新撰組や見廻組が倒幕派の摘発を担ったのはよく知られている。

1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。京都には京都府が置かれた。しかし、天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された。

慶応4年4月25日(新暦1868年5月17日)- 京都裁判所を京都府に改称。

明治元年10月13日(1868年11月26日) - 明治天皇が初めて東京に行幸し、江戸城西の丸に入った時をもって江戸城は行宮となり、その名は「東京城」へと改称される。これら一連の手続きをもって東京奠都が推し進められ、京都は事実上の"旧都"となってゆく。



12月8日(1869年1月20日) - 天皇が、京都の御所へひとまず還幸すべく、東京城を出立する。御所には12月22日(同年2月3日)到着。
明治2年1月末3月28日(1869年5月9日) - 東京奠都の完遂(天皇の東京への完全移転)/天皇の東京への2度目の行幸で、崩御するまで、東京城を拠点として東京に居住し続けることとなり、東京城はその名も「皇城」と呼ぶこととなった。



1871年(明治4年)までに、刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃止され、中央行政機関が京都から消えていった。
明治5年3月13日(新暦1872年4月20日) 5月某日 - 天皇が京都御所に戻る際、「還幸」ではなく「行幸」という語が初めて用いられる。

1877年(明治10年)某月某日 - 「即位の礼」と「大嘗祭」は(従来と変わらず)京都で行うと規定される。

同年以降現在まで日本の首都は東京と認識されている。それにより以前の人口の3分の2まで落ち込み、京都の急激な衰退を招いた。

同年2月6日 - 工部省管轄の官設鉄道東海道本線の京都線(国鉄京都線、JR京都線の前身)が開通し、終着駅として京都停車場(現・京都駅)が開業/神戸と大阪を結ぶ神戸線(国鉄神戸線、JR神戸線の前身)を延伸する形で開通した。

1889年(明治22年)4月1日 - 上京区および下京区が合体(新設合併)したうえで市制を施行し、京都市を発足。

1890年(明治23年)- 琵琶湖疏水の第一期工事が完成。
1891年(明治24年)11月 - 琵琶湖疏水の水を用いて、日本初の水力発電所となる蹴上発電所が稼動開始。

2月1日 - 日本初の電気鉄道として京都電気鉄道(後に京都市電となる)の開業。
10月25日 - 平安神宮が第1回時代行列(後付の名称としては第1回時代祭)を開催

1876年(明治9年)9月5日:向日町駅 - 大宮通仮停車場間(3M47C≒5.77 km)が延伸開業により神戸ー大宮通仮停車場間(現在の京都貨物駅付近)が開業。

1877年(明治10年)2月6日:京都駅 - 大宮通仮停車場間(40C11L≒0.81 km)が延伸開業。神戸駅 - 京都駅間全通。

1880年(明治13年)7月15日:逢坂山トンネル開通により、大津駅 - 大谷駅間(3M13C96L≒5.11 km)が延伸開業(馬場駅 - 大谷駅間は 1M70C82L≒3.03 km)し、大津駅 - 神戸駅間全通。

1882年(明治15年)3月10日:長浜駅 - 柳ヶ瀬駅間(15M5C50L≒24.25 km)、洞道口駅 - 金ヶ崎駅間(8M76C16L≒14.4 km)が開業。柳ヶ瀬駅 - 洞道口駅間は徒歩連絡により長浜駅-敦賀駅・金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)が開業。

同年5月1日:太湖汽船が琵琶湖上の長浜駅 - 大津駅間に鉄道連絡船が就航。日本海側からの新鮮な海産物が容易に京都へ届くようになる。

1889年(明治22年)4月16日:静岡駅 - 浜松駅間(47M35C≒76.34 km)が延伸開業。この時点で、長浜駅 - 大津駅間琵琶湖の水路を用いることで、関東から関西までの輸送路が一応完成

同年7月1日:長岡駅 - 馬場駅間(43M22C≒69.64 km、関ケ原駅 - 分岐点間は4M45C≒7.34 km)が延伸開業し、新橋駅 - 神戸駅間が全通。太湖汽船の長浜駅 - 大津駅間航路廃止。

1895年(明治28年)2月1日 - 日本初の電気鉄道として京都電気鉄道(後に京都市電となる)の開業。

1931年(昭和6年)3月31日 - 京阪電気鉄道新京阪線(今の阪急電鉄京都線)の大宮乗り入れにより、近畿地方初の地下鉄道線開業。

1963年7月16日 日本初の名神高速道路(尼崎-(京都南)-栗東間)開通。

1964年(昭和39年)10月1日 - 東海道新幹線京都駅開業。

1965年(昭和40年)7月1日の小牧IC - 一宮IC開通により、名神高速道路全通。

1969年(昭和44年)5月26日 : 大井松田IC - 御殿場IC間 開通により、東名高速道路全線開通。東京と繋がる。

1978年(昭和53年)10月1日 - 京都市電全廃。


2016年(平成28年)3月25日 - 左京区と右京区の一部が京都丹波高原国定公園に指定される。

 

公開:2016年11月 3日
更新:2019年8月 4日

投稿者:デジタヌ

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