狸穴ジャーナル『タヌキがゆく』

寝屋川市《 タウンヒストリア 》

寝屋川市とこれ迄の歩み

令制国河内国に属し旧交野郡寝屋村を中心に、旧茨田郡、旧讃良郡に跨る、各郷が合併を繰り返して今に至る自治体。

令制国(律令国)河内国

645年旧暦6月12日の「乙巳の変」以降 668年即位した天智天皇によって制定された令制国(律令国)による国分けにより704年の国割確定・国印鋳造を基本として明治初期の廃藩置県後も現在に至るまで行政区分の基本となっている.。

概ね淀川(大川本流)以南と寝屋川流域と大和川付け替え(1704年(宝永元年)10月完成)までの旧大和川(現長瀬川、分流玉串川、恩地川)寝屋川と下除川以東の河内大地から流れる上除川(現平野川)、和泉山脈から流れる大和川支流石川の各流流域のエリア。

中央部に大阪府の東部「河内湾・河内湖」を起源とする堆積平野・湿地帯がほとんどを占め律令国が制定された頃も草津江(くさつえ)と呼ばれた湿地帯が広がっていた。(江戸時代を通じて大和川付け替えまで深野池/大東市、新開池/東大阪市鴻池新田周辺が残っていた。)

近年昭和迄で「河内レンコン」の産地として蓮畑が、また寝屋川流域に運河(排水路)を張り巡らせた「水郷・水田」が広がっていた低湿地帯が占めていた。

都が京に移ってからは、中部の低湿地が時の豪族たちの勢力争いの場となり、戦火が絶えなかった。

応仁の乱

応仁の乱終息後も、両畠山氏の戦いは継続し、河内は戦国時代に突入した。

三好長慶の没後、三好三人衆と松永久秀の抗争で河内・大和が戦場になった。

織田信長が上洛すると、河内の北半国を三好義継、南半国を畠山昭高(信長の妹婿)に安堵するがまもなく三好3人衆は没落した。

1582年6月21日(天正10年6月2日)本能寺の変の後、羽柴秀吉が河内を領国としておさえる。

秀吉の没(慶長3年(1598年)8月18日)後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が江戸幕府を開くが、河内は秀吉の子・秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。

大坂夏の陣では、前年の冬の陣で外堀を埋められ裸城となった大坂城では、篭城戦はできないと判断した大坂方は、京都から大坂をめざす徳川方を城外で迎え撃ち、河内の各所で戦いが繰り広げられた。

江戸幕府の「入組支配」

江戸幕府はかつて7世紀後半に天智天皇によって制定された令制国(律令国)の「団結による反乱」を極度に警戒し、幕府安康の最善策として「令制国の解体政策」を推し進めた、それが「入組支配」と呼ばれる政策で、地方の大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い「地方の統一・団結」を阻もうとした。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

豊臣政権下で、河内国は安定したが、徳川幕府下では「入組支配」が徹底され、ために「近隣村間の不公平」も多く生まれ、のちの大和川付け替え問題にもつながっている。

江戸時代、河内国には、狭山藩、丹南藩の2藩のみが存在し、ほとんどが代官支配地で天領、旗本領、諸藩の飛び地などが入り組んでいた。

旧交野郡、旧茨田郡、旧讃良郡を含む16郡556郷で成立していた。

讃良郡(35村)代官支配; 幕府領、旗本領、京都守護職役知、大和郡山藩
茨田郡(85村) 代官支配; 幕府領(一部は高槻藩預地)、旗本領、美濃加納藩、摂津高槻藩
交野郡(39村)代官支配; 幕府領、旗本領、京都守護職役知、相模小田原藩

大和川の付け替え工事(1704年(宝永元年)10月完成)

大和川の付け替え後に新田開発された旧大和川・川床跡地は、砂地で木綿栽培に適しており、商品作物としての木綿の栽培や、農村工業としての紡績(河内木綿)が盛んになり、東大阪市、八尾市、柏原市は全国でも有数の裕福な農村地帯となった。

しかし「大和川付け替え」には今に至っても賛否両論があり、必ずしも最善策であったとは言われていない。

農地を奪われた農民たちや、渇水に苦しむこととなる旧下除川沿いの農民たちが新田(現八尾市・現柏原市・現東大阪市)に「流民・水のみ百姓」として移住し大地主の小作の農奴・使用人に貶められたり、身売り・一家離散・餓死などの多くの被害者も発生しており、このことが今に至る明治以降に新設された、中河内郡と南河内郡の不協和音の火種の一つともなっている。

廃藩置県と明治新政府の行政改革

江戸時代、徳川政権の幕藩体制下で有名無地となった「令制国」の復活・修復と、入組支配の結果生じた近隣地区(村)同士の待遇(租税)格差をなくし、「地方創世の基本となる行政区分再編成」を行ったのが一連の廃藩置県政策であったともいえる。

教科書!では1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の明治新政府の布告日が知られているが実際には1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の大政奉還から版籍奉還 (1868年8月1日)( 旧暦6月24日)を挟み、1871年8月29日の廃藩置県布告を経て1872年の 第1次府県統合、1876年の第2次府県統合終了まで明治新政府によって進められた一連の行政改革でその後の離合も含め大阪府(旧河内国)も幾多の行政変遷にさらされた。

1868年(慶応4年旧暦1月22日)大坂鎮台設置。

同年旧暦5月2日 大阪府設置。

1869年3月2日(明治2年旧暦1月20日) - 大阪府南司農局の管轄地域が河内県の管轄となる。

同年9月7日(旧暦8月2日) - 河内県の管轄地域が堺県の管轄となる。

1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の廃藩置県布告 により旧藩領が丹南県および沼田県、館林県、下館県、加納県、神戸県、膳所県、淀県、伯太県、小泉県、郡山県、高槻県、岡田県の飛地となる。

1872年1月2日(旧暦11月22日 )- 第1次府県統合により、全域が堺県の管轄となる。

1877年(明治10年)2月6日:東海道線、京都駅 - 大宮通仮停車場間(40C11L≒0.81 km)が延伸開業。大宮通仮停車場が廃止、京都駅が開業。神戸駅 - 京都駅間全通

京阪間の物流が淀川の水運から鉄道利用に変化する。

1881年(明治14年旧暦2月7日) - 堺県が廃止となり旧河内国が大阪府の管轄となる。

1885年 (明治18年)6月17日~7月上旬の淀川洪水で大被害が出る。被害は納谷川以南にまで拡大し大和川付け替えで無くなったはずの「河内湖が出現」し始め最大で4ⅿも浸水した!大阪市内では上町台地以外はすべて浸水した。

1887年旧暦11月4日 奈良県を分離再設置し現在の府域が完成。

1895年(同年)8月22日浪速鉄道(後の関西鉄道)片町駅(現都島区) - 四条畷駅間開業

1898年淀川の洪水対策として新淀川(全長 約7km,川幅約 800m)着工,

1898年(明治31年11月18日:関西鉄道加茂駅 - 新木津駅間が延伸開業し、網島方面への路線(のちの片町線)に接続。名古屋駅 - 網島駅間が全通し、直通急行列車が運転開始。

同年(1898年)淀川の洪水対策として新淀川放水路(全長 約7km,川幅約 800m)着工,

1909年 新淀川完成。

1910年4月15日 京阪電気鉄道株式会社」大阪・天満橋 - 京都・五条(現在の清水五条)間が開業した。

1943年(昭和18年)4月1日 - 北河内郡九個荘町・友呂岐村・豊野村・寝屋川村が合併して寝屋川町が発足。

Ⅰ951年(昭和26年)5月3日 - 北河内郡寝屋川町が市制施行して寝屋川市となる

1963年(昭和38年)4月16日:京阪電鉄(淀屋橋駅 - 天満橋駅間)地下線延伸開業。

1969年(昭和44年): 大阪外環状線(国道170号バイパス)藤井寺市(沢田交差点)高槻市間開通。

1997年 3月8日JR東西線 京橋ー尼崎駅間開通。

2001年(平成13年)4月1日 - 寝屋川市が特例市に移行。

2010年(平成22年)3月20日 : 第二京阪道路;枚方東IC - 門真JCT間開通に伴い全線開通、京田辺松井IC・京田辺PA開設。 門真JCTで近畿自動車道と接続し、門真JCT - 大東鶴見ICが4車線から6車線に拡幅。

 

公開:2016年11月 3日
更新:2023年4月20日

投稿者:デジタヌ

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