タヌキがゆく

東北の歴史 ー"北方系縄文人と南方系混血弥生人"の戦いの歴史ー

現在、「勝者の論理」で、「今勝ち残った民族・種族・文明」で歴史が語られ、正当化されているが、果たしてそれだけであるのであろうか...?

1."シャーマン伝承文化"と"文字・宗教文化"

§1、"シャーマン伝承文化、採集文化に基づいた"蝦夷,蝦夷(エミシ)民族と呼ばれる日本列島の先住民

義務教育で学習され?ご存じのとおり「陸続き」であった人類発生の頃、モンゴル、シベリア、カムチャッカ半島、北方領土?北海道、東北各地とじょうもんじんの子孫たちが渡って来、先住民文化を開花させた。

今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、定住生活も始まった。縄文時代である。縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。縄文後期の墓地遺跡であるストーン・サークル(環状列石・石籬;せきり)が1931年(昭和6年)に確認された。1951年(昭和26年)と翌年の1952年(昭和27年)にも考古学研究の国営事業として発掘調査が行われたので全国的に知られるようになった。その遺跡は鹿角市の大湯にあり、同規模の2つの環状列石で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡である。やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルある。太平洋戦争中は旧軍部により「神代」(かみよ)の遺跡として扱われた。

北米大陸、南米大陸にまで及ぶ一つのながれ

当時の日本列島だけでなく、ベーリング海を超え、北米大陸、中南米迄シャーマン文化をもつウラルアルタイ民族と呼ばれる種族の生息域・が広がっていった。

ウラルアルタイ系の特徴の一つは、採集文化、と文字を持たないシャーマンによる伝承文化ともいえる。

インカ帝国、メキシコのアステカ文明全て、文字を持たない文化・文明であった。

西洋人から見ると、祭司(シャーマン)が仕切るこれらの文化は野蛮で残虐な一面も持ていたが、

象形文字を持っていたとされるマヤ文明等一部の文明を除き、「文字による文化の伝承」はなかった。

文字文化と農耕文化と文字・宗教で「理論武装」した弥生人と言われる南方系の移民文化。

この縄文人に加え西日本では、弥生時代頃から弥生人と呼ばれるユーラシア大陸東部からの移住民が増えたが「雑多な民族」は次第に統一され、近畿地方を中心に統一国家が形成され後に「朝廷」と呼ばれるようになる。

"理論武装"した大和朝廷と呼ばれる渡来人集団?との闘い

今の大和朝廷側の立場に立った定説では、土器・石器に頼った採集民族であった野蛮な蝦夷民族(先住民・縄文人)を大陸渡来の金属(青銅器~後の鉄器)文化と「農耕文化」を背景にした弥生人(大和朝廷)が平定し、「日本を統一国家」にしたとされているが...。

見方を変えれば「文字を持たなかった先住民(縄文人)蝦夷民族」と渡来文化である宗教・文字文化で理論武装した大和朝廷と呼ばれる渡来人集団?との闘い」と言えなくもない。

§2、大和朝廷の植民地政策

南方・大陸系の大和民族はその生い立ち故に、当時の中国数千年の歴史の恐ろしさ?を心得ており、「臣下の礼」を取り、遣隋使(600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に)そして「後618年に隋が滅び唐が建った」のちも遣唐使として907年に唐が滅ぶまで「臣下の礼」を取り続け同時に大和朝廷が倭国を代表する唯一の政府であることをアピールした、倭国が大和朝廷によって国号を「日本」と改めたのは遣唐使期間の8世紀のことである。

すなわち軍事力に物を言わせた「強大な中国」から「中国の属国」として「ちっぽけな日本国の独立」を守っていたことになる。

其の後鎌倉時代に、中国大陸が蒙古に占拠されるに至って、2度の来襲を受けることとなるのは諸兄ご存知の通り。

大和朝廷の侵略

大陸文明(中国文明)文化を見習った大和朝廷は先住民(縄文人)蝦夷民族の支配地であった東北各地を侵略し一進一退を繰り返しながらも、次々と征服し、支配地域としていった。

780年には出羽国府が秋田に移されたが、蝦夷(エミシ)民族(朝廷に属さない蝦夷:縄文人の末裔?)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び後退する。

802年1月9日 蝦夷の自治区・陸奥を平定(制服)するための拠点として陸奥国胆沢城を造営するために田村麻呂が陸奥国に派遣された。

大和朝廷側の記録文書『日本紀略』では、同年4月15日の報告として、蝦夷(エミシ)民族のリーダーである大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したと記されている。

2人は田村麻呂に連行されて7月10日に平安京に到着、田村麻呂の助命嘆願にも拘わらづ、当時の朝廷高官供の決定により8月13日にアテルイとモレは河内国で処刑された。

「荘園開発」という「植民地政策」

採集民族であった蝦夷民族に農耕を定着させ開墾を奨励したのは「先住民・蝦夷」の暮らしを楽にするためではない!「都の公家供」の実入りを確保するためであった、すなわち「大和朝廷の植民地」としてしか、見ていなかったのである。

故にその後も重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷が大和朝廷に対する反抗として元慶2年(878年)の元慶の乱(※大和朝廷側の記録名)や天慶2年4月17日(938年5月22日)の天慶の乱(※大和朝廷側の記録名)等が起こったわけである。

当時公家と呼ばれる特権階級は、朝廷から俸給をいただく家臣(家来)ではなく、ローマ帝国の元老院組織のように、自前で糧を得ているいわば実業家集団であった。

つまり彼らは全国各地に積極的に荘園という名のプランテーション開発を行う必要があった訳である。

その監督官(総督)として都から「木っ端役人供」を派遣したり、地元の「朝廷に服した蝦夷」を配置したわけである。

当然朝廷も租税(実入り)確保の為に広大な直轄地を有し国府に役人(守)を配置していた。

これを契機に蝦夷の自治地域「陸奥国」は、大和朝廷の支配下になることになる。

元慶2年(878年)重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反抗として元慶の乱が起こった

朝廷は新任出羽守の藤原保則を派遣した。

保則は反乱対し「朝廷に服属したエミシ」を使うことでの平定に成功した。

天慶2年に再び天慶の乱が発生した。

奥州藤原氏は王朝文化に毒された朝廷の手先であった!

この頃になると開墾田の(地方豪族による)私有が認められ、地方豪族の勢力が拡大した。

当時はこのようにエミシに対する朝廷の力は絶対的なものでは無かったがその後朝廷に服属する「俘囚の長」と呼ばれたエミシ民族の地方豪族の力は強大になっていった。

朝廷の律令政治が衰えるとともに(荘園の管理者に当たる木っ端役人供による)私有地の占拠が次第に増え、農民は有力豪族に頼り、蝦夷地の各所には豪族を中心とする武士集団ができた。

9世紀頃には太政官命令で、「勝手に開墾地を私有し農民を困らせてはならぬ」とのおふれが出る程であった。

豪族は重要拠点に分家を配して勢力を拡げていった。その中から陸奥の阿部氏(現安倍首相の先祖!)出羽の清原氏(後の奥州藤原氏)が現れた。

北上川中流以北に勢力を広げていた安部氏は地元民の立場に立った自治体制を取っており、朝廷への貢租・徴役は拒否していた。

これを朝廷に対する反逆と見なし朝廷が討伐を企てたのが前九年の役(永承6年(1051年) - 康平5年(1062年)である。

しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が陸奥守として向けられ、七年以上にわたり戦いが繰り広げられた。

頼義もわずか三千ばかりの手兵では討伐できず

横手付近に根拠を置き朝廷に属した「俘囚の主」と呼ばれる豪族清原光頼に臣下の礼(家来になること)の形をとってまで援軍を依頼した。

清原光頼は弟・清原武則を大将とする一万余の兵を出し、安倍氏を駆逐した。

しかしこの後、武則の孫の代にいたって一族争いが起こり、これが後三年の役(永保3年(1083年) - 応徳4年/寛治元年(1087年))であり、この戦の後に清衡が奥州藤原氏となった

四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄えた奥州藤原氏

東北は大和朝廷の軍事影響下を離れ完全に地方豪族の支配下(自治区)にもどった。

藤原氏の統治方法は、代々押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使し、併せて朝廷側の「公家供の荘園の管理」も請け負うというものであった。

そこでミニ京都と言われるほどの平泉などに代表される「植民地政策(公家志向)」における「総督」のような立場であった。

つまりは「都」の回し者、「傀儡(かいらい)政権」の親玉に過ぎなかった!

さらに出羽北部である秋田地方では荘園そのものも存在せず、公領(朝廷領地)制一色であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んでいたかは不明であると言われている。

そこでミニ京都と言われるほどの平泉などに代表される「植民地政策(公家志向)」における「総督」のような立場であった。

文治5年(1189年)、鎌倉幕府を創設し征夷大将軍となった源頼朝が19万の軍勢を率いて奥州討伐に向かった。

※その後の徳川家康も武家の総領として朝廷より「征夷大将軍」に任じられたが、征夷大将軍とはエミシ(蝦夷)を征伐(征服)する将軍という意味であり、武力をもって領土拡張する為の遠征軍の総大将を任じられたようなものであった。東北各地にとっては随分と失礼な称号でもある!

隆盛を極めた藤原氏も、頼ってきた頼朝の弟義経をかくまったがために追討された、藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡の途中裏切りに遭い討ち取られた。

つまり、いかに見方の裏切りにあったとはいえ、農民・民衆が見方についていなかったためであろう?

東北各地の豪族支配(自治)が終わる

数世紀にわたった豪族の支配も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に鎌倉幕府の支配下となった。

藤原氏を倒した頼朝は、御家人、地頭職を新たに東北各地に配し、東北における大きな政治的転換点となったとされている。

頼朝が秋田に配した御家人は成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などであった。

また由利氏は藤原氏に仕えていたが、そのまま由利地方を治めることとなった。

つまりはこれらの人々は「蝦夷」も末裔ではなく大和朝廷の傭兵集団・振興武家集団で弥生人のけいとぷを引き継ぐ人たちであったといえる。

その後、室町幕府のころ日本海北部に勢力を持った安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下し、安東愛季の時代に最盛期を迎えた。

横手盆地には戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力を持っていた。

秀吉が天下統一を果たし東北の武装集団も豊臣政権に服すこととなった。

江戸幕府の「入組支配」

入組支配;江戸幕府が行った政策で、かつての律令国家の上に成り立つ、地方豪族・大名に対し頻繁に転封(国替 )・減封(領地召し上げ)を行い地方の統一・団結を阻む政策。このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

複雑に入り組んだ支配で、各支配地(郷)間で待遇(身分)・処遇(年貢)に大きな格差が生じていた。

江戸時代幕府が開白され、家康に実権が移ったのちも、蝦夷の脅威は変わらなかった、歴史書を読み漁り古今東西の歴史に精通していた家康とその家臣団は蝦夷勢力の復活を恐れ、東北における「入り組み支配」を徹底した。

例えば秋田県の場合、当初は西軍についた小野寺氏以外の諸大名は所領を安堵されたが、慶長7年から慶長8年の期間にかけてほとんどの大名が常陸国に転封され、鎌倉以来となる長年の領主と住民のつながりは切れた。

現秋田県の殆どを領していた久保田藩にしろ秋田実季(津軽安藤氏の末裔)が改易され佐竹氏が常陸国から転封された佐竹氏が立藩した藩であるし、由利郡でも山形藩主最上氏が改易され幕府領と中小の大名領に分割され、蝦夷の末裔は完全に排除されている。

このことが、幕末の戊辰戦争勃発前後の久保田藩内の重臣によるクーデターなどによる歩調の乱れにも繋がり、秋田県域諸藩の奥州列藩同盟からの離脱と維新政府軍(官軍)参加(寝返り)などにも繋がったとみるのはあながち 

「うがった見方」でも無いように思われる。

歴史は繰り返される

「歴史は繰り返される」の言葉通りこのように、東北各地は冬季雪に閉じ込められる貧困故に時の為政者・中央政府側からみると反乱・一揆の歴史を繰り返しその都度鎮圧されたことになる。

江戸末期になって「朝廷」を担ぎ上げた、長州・薩摩を中心とする、「官軍」と奥州連合の東北軍との戊辰戦争が起こり、再度「錦の御旗」の下につるんだ新政府軍に屈することとなり、「白河の関より北にはぺんぺん草も生えない!」と東北日報を引き継いだ現河北新報の創始者「一力健治郎」が嘆いた程の貧困が第2次大戦後の1970年代まで続くこととなった。

世界的に見ても、大航海時代のスペイン王国、大英帝国、が世界各国に植民地を造り、先住民を服従させ、彼らから膨大な利益を吸い取り本国は繁栄を謳歌していた。

大英帝国がイギリス連邦となり、スペインの植民地も次々と独立し、列強と呼ばれたヨーロッパ諸国の植民地も独立していった現在も、第2次大戦の傷跡として、嫌われ者?のユダヤの民(富)を「終戦のどさくさ紛れ」にパレスチナの地に追いやり建国させ、今もって多くの難民を創出したにもかかわらず、「正義」とされている。

極東軍事裁判、イラクの軍事裁判などを取り上げるまでもなく歴史は常に勝者(永続している侵略者)の言い分正義とし、敗者すなわち侵略され(服従を強いられ)た側言い分は認めない!

入植・移住という名の懐柔でも

入植・移住というのは、侵略者が常套手段としてして使用している「懐柔策」の一つでもある。

日本国内においても、日向(宮崎県)薩摩・隼人(現鹿児島県)に対する大和朝廷支配地からの移住、明治維新後の北海道への開拓団の移住、戦前の「満州国」への移住等。

そして国際的には、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、中南米諸国、オーストラリア、ニュージーランドへの移民など、日本における、「仏教の布教」と同様に征服した「先住民」の懐柔策の一つとして重要策であった。

残念ながら東北では

余りにも雪害がひどい東北各地では、他地域からの入植も困難なほどに大規模開拓は難しく、

維新後になって始めて日本三大開拓地と呼ばれるほどの成功を収めた福島県吹町区、青森県十和田市位しかなく、元藩士ぐらいしか受け入れられず、北海道のように他府県から大勢の入植者を受け入れられる状況ではなかった。

維新以前には、歴史書を読みおあさった歴史家でもある徳川家康に始まった江戸幕府もこの懐柔策はとれなかった。

「先住民と移住者との闘いで」みると理論武装は武力よりも強し!

いっぽうで歴史を振り返ってみると、最初に述べた通り「文字・宗教の理論武装が先住民達のシャーマンによる伝承文化を征服せしめた」ともいえる。

公開:2018年8月 5日
更新:2018年8月16日

投稿者:デジタヌ

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