タヌキがゆく

【鉄道フィクション】69年間待ち続けた男 第22話 次女「未來」誕生と現場

※<本稿は01/06/2008 に旧サイトで初稿公開した小説のお引っ越し掲載です>

"阪神・近鉄友情物語" ー在る鉄道マンの半生ー【小説】69年間待ち続けた男


翌1949年(昭和24年)5月、次女未來が誕生した。
徹路は日本の未来と彼女の行く末を願って「未來」と名付けた。


1950年(昭和25年)6月朝鮮戦争が勃発した。
皮肉なことに朝鮮半島での戦争が戦後5年しか経っていない、日本の復興を助けてくれたいわゆる"特需景気"である。


翌年10月に一連の名古屋線改良工事として鹿川分岐ー海山道間の複線化改良工事を含む河原町ー海産道間の新線建設工事が着工され、徹路は所長として四日市の新線建設事務所に赴いた。


翌1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約が締結され、名実共に日本は独立国家として、戦後を歩み出すこととなった。


この年は"日本の空"にとっても記念すべき年となった。
日本航空による自主運行が再開したのである。
戦後GHQによってもぎ取られていた「日本の翼」が日本航空の手によって完全に蘇ったのである。以後、プロペラ機に始まって現在のジェット機に至る航空路の台頭へとつながって行く。


35才になった徹路は課長に昇進した。


同年8月28日四日市新線建設の第一歩とも言える鹿川分岐ー海山道間約1.4㎞の複線化工事が一足先に完成した。


翌々年の1954年5月上本町ー布施間の複々線化工事も着工された。
徹路はあらたに複々線化事業の総指揮を任され四日市の現場は同僚に任せ上本町にできた建設本部に戻った。


役員会を通過した案件に関しては追加工事も含めて技術本部長の承認無しに全てを判断出来る立場である。


だからという訳ではないが、どの現場でも土工達を大事にしていた徹路は土工達の待遇改善には経費を惜しまなかった。


当時は、工事と言えば工夫がバラックの飯場に寝泊まりしていた頃、彼らの楽しみと言えば食事ぐらいしかなかった。


戦地で粗末な、と言うより食う物にも困った経験から、飯場の食堂には当時は珍しい栄養士を置かせ、系列百貨店の仕入れルートを活かし、土工達が空腹や栄養失調で倒れることがないよう十二分な配慮をした。


戦後7年が経ち特需景気のおかげもあり急速に戦後復興が進み、食料品も比較的容易に入手出来るように成ったとは言え、町中に食料品が豊富にあふれている時代ではなかった。


また、従軍以来の現場暮らしの経験から、工夫の日常の負担を少しでも軽減してやろうと、この頃やっと普及しだした電気洗濯機も、3台購入し飯場に設置させていた。


休日の公営賭博とパチンコそれに飲酒ぐらいしか楽しみのない工夫達のために、当時高価だったTV受像器を経費で購入し、四日市の現場と複々線工事現場の飯場食堂に設置した。


この年3月NHK大阪放送局とNHK名古屋放送局が共にTV本放送を開始したばかりであった。


16時30分の終業でひとっ風呂浴び、食堂に集まった土工達は食事もそこそこに、TVに群がって食い入るように眺めていた。


<続く>

公開:2008年1月 6日
更新:2018年6月17日

投稿者:デジタヌ

このエントリーをはてなブックマークに追加

【鉄道フィクション】69年間待ち続けた男 第21話 初めての大工事TOP【鉄道フィクション】69年間待ち続けた男 第23話 名物部長の誕生




▲小説へ戻る