バーチャル居酒屋 「酒房 狸穴亭」

造り酒屋 の 2局分化 の流れについて《 お酒 甘辛 放談 2018》

大手メジャーレーベルのように、完全空調・無菌!設備を導入し、コンピューターによる工程管理を徹底させ見事「杜氏レス」を達成した、地方の純米吟醸酒メーカーが出現するに至り、ローカル酒蔵は新たなる岐路に立たされている。設備投資をしてAI 化の道を取るか、徹底的に手作りに拘った少量限定「クラフト地酒」の道を取るか...、今地方のローカル造り酒屋から目が離せない!

物流とローカル酒蔵会社の変遷

奈良県の寺院で般若湯として大陸から仏教とともにもたらされた、お米と醸造技術で日本の「お酒造」りが生まれ、弥生人(大和朝廷)の全国遠征とともに、全国に広まっていったとされている「日本酒」

さす場に西暦700年頃から続く現存の造り酒屋はないが、その後幾多の変遷を経て、江戸時代の大平の世になり、安定した稲作が広まるとともに、全国の城下の主要産業の一つとして、お酒造り専門のプロの酒蔵が誕生しだした。

北回りの北前船(きたまえぶね)、瀬戸内海に天下の台所「なにわ」に至る西廻り航路(西廻海運)、江戸と浪花を結ぶ菱垣廻船、樽廻船など、一般に言われる千石船による海運が発達し、主にお酒が上方から江戸に運ばれたわけである。

当時の陸路は、4大街道といえども「まさしく山あり谷あり」の厳道で、、よほどのことが無い限りは米や塩以外の重量物輸送には限度があり、僻地?では地産地消がたの造り酒屋が、海沿いの港周辺には、藩の財政のための他国への移出を主にする酒蔵が集まる事となったわけです。

明治維新後の鉄道網の発達

明治以降になると、官営鉄道や大資本による私鉄(其の後の国鉄)が日本全国に張り巡らされるようになり、富国強兵の名のもとに、石炭が、そして今まで水運に頼っていた、お酒や(筏流しなどの水運利用だった)木材の鉄道による物流が一般化し、灘吾郷、伏見、などの上方のお酒が全国にデリバリーされるようになり、地方の造り酒屋の、衰退の一因となったわけです。

太平洋戦争後の道路網の発達

戦後20世紀後半の1960年代に入り、高速道路網の建設に引っ張られる形で、道路土木技術、特に舗装技術が進化し、当初進駐軍の払い下げ品のオーバーホールから始まった、ロード-ローラー、ブルドーザー、モーターグレーダー(自走式地均し機)、(アスファルト)フィニッシャーがアメリカから大量に輸入されるようになり、高速道路ばかりでなく、当戦1952年に制定され一級国道(1665年に制度廃止)や其の後の一般国道、県道の整備が飛躍的に進んだ。

これにより、高性能化して来た、大型トラックとともに、お酒の、ビールなどの酒類も鉄道輸送から、トラック輸送へと大きく変化し、安定して主要生産地の阪神地区から全国にデリバリー出来るようになり、ますます地方の造り酒屋の経営を圧迫しだし、この頃以降現在にまで、減少の一途をたどるようになった。

酒税法の改正による地酒ブームの到来

戦前の1940年に制定された旧酒税法(昭和15年法律第35号)が戦後1953年2月28日に全面改正され他が、

平成の世1992年迄続いた日本酒級別制度

戦後1953年の酒税法改正でも日本酒級別制度だけは引き次がれ、アルコール度数(濃度)による酒分けと税制が続いて、これが「アルコール度数とは関係のない特色ある味わいの地酒をロール造り酒屋」の足をひっぱる形にもなっていた。

元々は、戦前の大日本国帝国政府当時の流通、税制管理の一環として、市場に流通する酒を政府が監査し、含有するアルコール度数と酒質などから「特級」「一級」「二級」「三級」「四級」「五級」に分類し。この分類の表示が、商品である酒にとっては「市販流通させてよい」という認可証の役割を持つものであった。

戦後1949年(昭和24年)になると戦時統制下に公布された「お酒の配給制」が解かれ酒類販売の自由化がなされ級別制度は実質的に「特級」「一級」「二級」の三段階に落ち着いていき、それぞれの級によって課せられる酒税の割合が定められていた。

1990年から始まった、精米歩合による「普通酒」「特定名称酒」など9種類の分類体系

消費者からの批判が高まってきたのを受けて、日本国政府は「日本酒級別制度」に替わりうる、品質本位の分類体系を模索し始め、1990年(平成2年)から、精米歩合により「普通酒」「特定名称酒」など9種類の名称からなる現行の分類体系を導入された。

1992年(平成4年)の日本酒級別制度完全撤廃

新しい分類体系が消費者一般に徐々に浸透したものと見なされることに至ったため、日本酒級別制度は1992年(平成4年)に完全に撤廃されたが、大半の消費者は何が起こったかわからない状態だった。

船瀬俊介氏によると、この混乱は「事態の本質を伝えなかったマスメディアの責任である」と指摘している。

純米酒・吟醸酒 に活路を見出した ローカル造り酒屋

この時期 986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月にかけて51か月間に平成景気(へいせいけいき)や平成バブル(へいせいバブル)と呼ばれる、バブル経済と折からの「地酒ブーム」に呼応して、全国のローカル酒蔵に広まっていった。

酒造家 三浦仙三郎 が開発した純米酒・吟醸酒がローカル造り酒屋を救う

「吟醸酒誕生の地」「広島杜氏のふるさと」と言われる現東広島市の安芸津地区は、「酒造家三浦仙三郎が開発した醸造法」はのちに吟醸造りとなり、三浦が育てた杜氏集団は三津杜氏のち三津杜氏と呼ばれ現代の広島杜氏の元となり、三津杜氏によって吟醸造りが全国に普及したとされている。

※元々歴史的な酒所であった西条周辺だが、市内各所の酒造用の浅井戸は軟水が多く、灘吾郷の宮水に代表される硬水による醸造法には不向きであったために、前途の酒造家三浦仙三郎が軟水に向く醸造法として開発したのが始まりとされている。

※現在の西条の酒蔵各社の仕込み水は、酒蔵周辺の市街地化による地下水の汚染を避けるために、より深い層から汲み上げる深層水に代わり、硬水になっており灘吾郷の硬水酒蔵法も採用できるようになってきた。

この純米酒、吟醸酒が、関西の酒造メジャーに販売シェアを侵食されてきた地方の中小酒蔵のコンセプト転換の迫り図る契機となり、各地の農業試験場、大学などとの新たなる酒米の開発や、山田錦の自家栽培による、上質原料米の安定確保の模索や、一般酒の大量生産から、少量多品種の限定醸造による高級酒(高価格商品)の開発・製造(醸造)へと舵を切らせることとなり、現在も生き残っているローカル酒蔵の殆どは主力をこの高級酒「純米吟醸酒」にシフトしてきている。

技術革新による新たな流れ

地球温暖化の影響?を受け、冬季寒冷時にその年の新米を使用した「寒仕込み」を行い、秋口から翌年にかけて「新酒」として出荷する、旧来からの、杜氏による伝統的仕込み醸造法から、大手メジャーのように、ビール工場並みの、完全空調設備導入し、旧来の木桶から温度管理の行き届いた、ステンレス製の仕込み醸造槽に設備更新し、年間を通じて、安定した環境管理で"仕込み"と"発酵"を行い、設備効率を大幅に改善し「杜氏レス」を達成した山口県の旭酒造株式会社(※清酒ナビはこちら)のような中小メーカーも出現し、この流れが、杜氏の高齢化問題を抱える、各地のローカル造り酒屋(※山梨銘醸株式会社の酒蔵ナビはこちら)にも波及しだしている。

また、旧来の杜氏による寒仕込みを継承しながらも足の速い「無濾過・非加熱醸造生酒」の貯蔵手段として、食品・科学機械メーカーと共同開発で、完全密閉型の保冷タンクを開発導入し、年間を通じて全国にデリバリー出来る体制を組んだ奈良県の油長酒造株式会社(※清酒ナビはこちら)のような流れも出てきた。

今後、清酒の成分分析技術のさらなる発展・進化と「AI(人工知能)」の発達で、この分野「AI酒蔵」はますます増えていくのは間違いないだろう。

一方で、クラフト地酒への回帰も

一方で、家族経営等の少人数で酒造りに挑んでいる零細酒蔵では、専門学校卒業生、大学卒業生などの地元出身者を受け入れ、徹底的に手作りにこだわった「クラフト地酒」を目指す造り酒屋も現れだし、昔ながらの木桶を新調したし酒蔵も現れた。

(※、龍神酒造/群馬県王祿酒造/島根県 、富久千代酒造/佐賀県などの取り組みについての記事)

2局分化する地方のローカル造り酒屋の生き残り策の行くては...

2018年8月現時点では、全国の零細ローカル造り酒屋の殆どは主力製品を「純米・吟醸酒」にシフトしており、中小酒造メーカーも純米吟醸酒にターゲットを絞って規模を縮小し、一般酒は地方限定のローカル銘柄にとどめる路線にコンセプト変換を図った団体が多い。

バブル景気の終焉とともに一時ほどの「地酒」ブームが去り、21世紀に入って地方のローカル酒蔵を取り巻く経営環境は一層厳しくなって来ている。

もはや全国清酒鑑評会の成績だけでは、「勝ち残ることはできても、生き残ることは難しくなて来ている」

日本独自の「清酒文化」を22世紀の未来へも引き継ぐ意味でも、もう一度「自蔵&銘柄ラベル」の「存在理由を考え直す時期」に差し掛かってきているのではないだろうか?

2018年8月30日

狸穴総研・酒類研究室 しゅかん(酒燗)ほろ酔い狸

子安定化


 

公開:2018年8月30日
更新:2022年10月 1日

投稿者:デジタヌ


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